吸血鬼11

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明智小五郎シリーズ
江戸川乱歩の作品です。句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(いとしごのこえを、なんでききちがえるものか。あれはたしかに、しげるのなきごえだ。)

いとし子の声を、なんで聞違えるものか。あれは確に、茂の泣声だ。

(そうでなくて、こんなにも、ひしひしとむねにこたえるはずがない。しげるちゃん。)

そうでなくて、こんなにも、ヒシヒシと胸にこたえる筈がない。「茂ちゃん。

(おまえ、しげるちゃんですね しずこは、たまらなくなって、おもわずたかいこえでさけんだ。)

お前、茂ちゃんですね」倭文子は、耐らなくなって、思わず高い声で叫んだ。

(しげるちゃん。へんじをおし。おまえのかあさまは、ここにいるのよ はじもがいぶんもわすれて)

「茂ちゃん。返事をおし。お前の母さまは、ここにいるのよ」恥も外聞も忘れて

(きちがいのようにさけびつづけるこえが、やっとあいてにつうじたのか、いちせつな、なきごえが)

気違いの様に叫び続ける声が、やっと相手に通じたのか、一刹那、泣声が

(ぱったりとまったかとおもうと、にわかにちょうしのたかまった、みをきられるようなわめきごえが)

パッタリ止ったかと思うと、俄に調子の高まった、身を切られる様なわめき声が

(ひびいてきた。そのちょうしがかあさまかあさまとよんでいるようにきこえる。それにまじって、)

響いて来た。その調子が母さま母さまと呼んでいる様に聞える。それに混って、

(ぴしりぴしりといようなものおと、ああ、かわいそうに、こどもはむちでうたれているのだ。)

ピシリピシリと異様な物音、アア、可哀相に、子供は鞭で打たれているのだ。

(だが、そのあいだに、しずこにとって、しげるのなきごえよりも、もっともっと)

だが、その間に、倭文子にとって、茂の泣声よりも、もっともっと

(おそろしいものが、しのびやかに、かのじょのしんぺんにちかづいていた。うんてんしゅたちの)

恐ろしいものが、忍びやかに、彼女の身辺に近づいていた。運転手達の

(でていった、とびらのじょうぶにちいさなのぞきあながつくってあって、いま、そのふたが、)

出て行った、扉の上部に小さな覗き穴が作ってあって、今、その蓋が、

(そろそろひらきつつあるのだ。いたましいこどものなきごえが、すこししずまったので、)

ソロソロ開きつつあるのだ。痛ましい子供の泣き声が、少し静まったので、

(てんじょうのほうにあつまっていたちゅういりょくが、とけるとどうじに、めについたのは、とびらの)

天井の方に集まっていた注意力が、解けると同時に、目についたのは、扉の

(ひょうめんにおこっている、いようなへんかであった。しずこはぎょっとして、すこしずつ、)

表面に起っている、異様な変化であった。倭文子はギョッとして、少しずつ、

(すこしずつ、ひらいていく、のぞきあなをぎょうしした。かんてらのあかちゃけたひかりが、わずかに)

少しずつ、開いて行く、覗き穴を凝視した。カンテラの赤茶けた光が、僅かに

(てらしだすとびらのひょうめんに、いとのようにくろいすきまができたかとおもうと、それがじょじょに)

照らし出す扉の表面に、糸の様に黒い隙間が出来たかと思うと、それが徐々に

(はんげつけいとなり、ついにぽっかりと、まっくろなあながあいた。だれかがのぞきにきたのだ。)

半月形となり、遂にポッカリと、真黒な穴があいた。誰かが覗きに来たのだ。

(しげるにあわせてください。あのこをせっかんしないでください。そのかわりに、わたし、)

「茂に逢わせて下さい。あの子を折檻しないで下さい。その代りに、わたし、

(どんなにされてもかまいません しずこはいっしょうけんめいにさけんだ。ほんとうに、どんなに)

どんなにされても構いません」倭文子は一生懸命に叫んだ。「本当に、どんなに

(されても、かまわぬというのかね とびらをへだてたせいか、ひどくふめいりょうな、)

されても、構わぬというのかね」扉を隔てたせいか、ひどく不明瞭な、

など

(ぼうぼうというこえが、こたえた。そのちょうしが、ぞっとするほどぶきみにおもわれたので)

ボウボウという声が、答えた。その調子が、ゾッとする程不気味に思われたので

(かのじょはよういにつぎのことばがでなかったほどだ。おまえさんが、そんなにいうなら、)

彼女は容易に次の言葉が出なかった程だ。「お前さんが、そんなにいうなら、

(しげるとあわせてやらぬでもないが、いまのことばは、まさかうそじゃあるまいね)

茂と逢わせてやらぬでもないが、今の言葉は、まさか嘘じゃあるまいね」

(やっぱり、ひじょうにききとりにくいこえがしたかとおもうと、まるいのぞきあなに、ひょいと)

やっぱり、非常に聞き取りにくい声がしたかと思うと、丸い覗き穴に、ヒョイと

(ひとのかおがあらわれた。ひとめそれをみたしずこは、あまりのこわさに、ひーっと、)

人の顔が現われた。一目それを見た倭文子は、余りの怖さに、ヒーッと、

(なくともさけぶともつかぬこえをたててたもとでめかくしをしたまま、うっぷして)

泣くとも叫ぶともつかぬ声を立てて袂で目かくしをしたまま、俯伏して

(しまった。かつてしおばらおんせんでみた、なんともいえぬおそろしいまぼろしが、またしても)

しまった。嘗つて鹽原温泉で見た、何ともいえぬ恐ろしい幻が、またしても

(そこにあらわれたからだ。かおいちめんのひきつり、あかくくずれたはな、ながいはが)

そこに現われたからだ。顔一面の引釣、赤くくずれた鼻、長い歯が

(むきだしになった、くちびるのないくち、このよのなかのものともおもわれぬ、ぶきみにも)

むき出しになった、唇のない口、この世の中のものとも思われぬ、不気味にも

(みにくいかいぶつであった。やがて、うっぷしているえりもとに、すーっとつめたいかぜをかんじた。)

醜い怪物であった。やがて、俯伏している襟元に、スーッと冷い風を感じた。

(とびらがひらかれたのであろう。ああ、いっぽ、いっぽ、あいつがちかづいてくるのだ。)

扉が開かれたのであろう。アア、一歩、一歩、あいつが近づいて来るのだ。

(とおもうと、いてもたってもいられぬこわさだが、にげようにも、からだがすくんで、)

と思うと、居ても立ってもいられぬ怖さだが、逃げようにも、身体がすくんで、

(たちあがるのはおろか、かおをあげることさえできぬ。あくむにうなされているきもちだ。)

立上るのはおろか、顔を上げることさえ出来ぬ。悪夢にうなされている気持だ。

(しずこはみなかったけれど、とびらをあけて、はいってきたのは、くろいまんとのような)

倭文子は見なかったけれど、扉をあけて、はいって来たのは、黒いマントの様な

(もので、からだばかりでなく、かおまでかくした、いようのじんぶつであったが、まんとの)

もので、身体ばかりでなく、顔まで隠した、異様の人物であったが、マントの

(ふくれぐあいといい、そのすきまからちらちらみえるすはだといい、かれはまぱだかの)

ふくれ具合といい、その隙間からチラチラ見える素肌といい、彼は真ぱだかの

(うえに、ちょくせつまんとだけをひっかけているらしくみえた。おとこはしずこのうえに、)

上に、直接マントだけを引かけているらしく見えた。男は倭文子の上に、

(のしかかるようなかっこうになって、またもやふめいりょうなこえで、おまえさんのことばが、)

のしかかる様な格好になって、またもや不明瞭な声で、「お前さんの言葉が、

(ほんとうかうそか、いますぐためしてあげるよ といいながら、しずこのせなかを、かるく)

本当か嘘か、今すぐためして上げるよ」といいながら、倭文子の背中を、軽く

(たたいたが、そのひょうしに、ひだりのてくびが、かのじょのほおにさわった。しずこは、その)

叩いたが、その拍子に、左の手首が、彼女の頬にさわった。倭文子は、その

(てくびの、せとものみたいに、かたくてつめたいはだざわりに、ぞっとどうきがとまって)

手首の、瀬戸物みたいに、固くて冷い肌ざわりに、ゾッと動悸が止って

(しまうような、おそれをかんじた。あなたはだれです。どうしてわたしたちをこんな)

しまう様な、恐れを感じた。「あなたは誰です。どうして私達をこんな

(ひどいめにあわせるのか、そのわけをおっしゃい!しずこはしにものぐるいのかおを)

ひどい目に合わせるのか、その訳をおっしゃい!」倭文子は死にもの狂いの顔を

(あげて、うわずったこえでさけんだ。いつのまに、かんてらをふきけしたのか、)

上げて、上ずった声で叫んだ。いつの間に、カンテラを吹き消したのか、

(へやのなかは、しんのやみだ。かいぶつのありかも、そのいようなこきゅうのおとで、やっと)

部屋の中は、真の闇だ。怪物のありかも、その異様な呼吸の音で、やっと

(さっしうるにすぎない。あいてはぶきみにおしだまっている。やみのなかに、やみより)

察し得るに過ぎない。相手は不気味に押黙っている。闇の中に、暗より

(くろいものが、かすかにうごめいて、いまわしいいきづかいが、じょじょにじょじょに、ちかづいて)

黒いものが、微かに蠢めいて、いまわしい息遣いが、徐々に徐々に、近づいて

(くるのがかんじられる。やがて、ほおにかかるあついいき、かたをはいまわるゆびのかんしょく・・・・・・)

来るのが感じられる。やがて、頬にかかる熱い息、肩を這い廻る指の感触……

(なにをするんです しずこはかたにかかるてをはらいのけてたちあがった。)

「何をするんです」倭文子は肩にかかる手を払いのけて立上った。

(いくらこわいからといって、かのじょはこむすめではないのだ。されるがままになっては)

いくら怖いからといって、彼女は小娘ではないのだ。されるがままになっては

(いけない。にげるのかね、しかしにげみちはありやしないぜ。わめいてみるかね。)

いけない。「逃げるのかね、併し逃げ道はありやしないぜ。わめいて見るかね。

(だが、ちのそこのあなぐらだ。だれもたすけにくるものはあるまいよ ふめいりょうなこえが、)

だが、地の底の穴蔵だ。誰も助けに来るものはあるまいよ」不明瞭な声が、

(どくどくしくいいながら、にげるかのじょに、おいせまってきた。やみのなかの、ひさんな)

毒々しくいいながら、逃げる彼女に、追い迫って来た。暗の中の、悲惨な

(おにごっこだった。なにかにつまずいて、ぱったりたおれるしずこ。そのうえに)

鬼ごっこだった。何かにつまずいて、パッタリ倒れる倭文子。その上に

(のしかかって、だきすくめようとするかいぶつ。おたがいにかおをみえぬ、くらやみのしょっかくの)

のしかかって、抱きすくめようとする怪物。お互に顔を見えぬ、暗闇の触覚の

(あらそい。あのくちびるのない、あかいねんまくそのもののようなかおが、いまにもかのじょのほおに)

争い。あの唇のない、赤い粘膜そのものの様な顔が、今にも彼女の頬に

(ふれはしないかと、しずこは、それをかんがえただけで、きのとおくなるほど、)

ふれはしないかと、倭文子は、それを考えただけで、気の遠くなる程、

(こわかった。たすけて、たすけて くみしかれたかのじょは、たえだえのこえでさけんだ。)

怖かった。「助けて、助けて」組みしかれた彼女は、絶え絶えの声で叫んだ。

(おまえ、しげるにあいたくはないのかね。あいたければ、おとなしくするがいいぜ)

「お前、茂に逢い度くはないのかね。逢いたければ、おとなしくするがいいぜ」

(だが、しずこはていこうをやめなかった。おいつめられたねずみが、かえってねこに)

だが、倭文子は抵抗をやめなかった。おいつめられた鼠が、却って猫に

(はむかっていく、あのむごたらしい、しにものぐるいのちからで、かのじょはあいてを)

はむかって行く、あのむごたらしい、死にもの狂いの力で、彼女は相手を

(つきたおそうとした。それがかなわぬとしると、あさましいことだが、)

突き倒そうとした。それがかなわぬと知ると、あさましいことだが、

(ふとくちにふれたあいてのゆびさきを、おもいきって、ぐにゃっとかみしめたまま、)

ふと口に触れた相手の指先を、思い切って、グニャッと噛みしめたまま、

(はなさなかった。かいぶつはひめいをあげた。はなせ、はなせ。こんちくしょう、)

放さなかった。怪物は悲鳴を上げた。「放せ、放せ。こん畜生、

(さもないと・・・・・・ちょうどそのとき、てんじょうのほうから、またしても、しげるしょうねんの、)

さもないと・・・・・・」丁度その時、天井の方から、またしても、茂少年の、

(たえいるようななきごえがきこえてきた。ぴしり、ぴしり、ざんこくなむちのおとだ。)

絶え入る様な泣き声が聞こえて来た。ピシリ、ピシリ、残酷な鞭の音だ。

(うて、うて、もっとうて。がきがしんでもかまわねえ)

「打て、打て、もっと打て。餓鬼が死んでも構わねえ」

(ふめいりょうな、ぞっとするような、)

不明瞭な、ゾッとする様な、

(のろいのわめきごえが、かいぶつのくちからほとばしった。わかったか。おまえが)

呪いのわめき声が、怪物の口からほとばしった。「分ったか。お前が

(ていこうしているあいだは、がきのせっかんをやめないのだ。おまえのていこうがひどければ、)

抵抗している間は、餓鬼の摂関をやめないのだ。お前の抵抗がひどければ、

(ひどいほど、おまえのこどもは、しぬくるしみをうけるのだぞ そういわれて、さすがに)

ひどい程、お前の子供は、死ぬ苦しみを受けるのだぞ」そういわれて、流石に

(くわえているゆびを、はなさぬわけにはいかなかった。そして、かのじょがぐったりていこうりょくを)

啣えている指を、放さぬ訳には行かなかった。そして、彼女がグッタリ抵抗力を

(うしなうと、ふしぎなことに、うえのなきごえもしずまった。またしても、ぬめぬめと、)

失うと、不思議なことに、上の泣き声も静まった。またしても、ヌメヌメと、

(おそいかかるかいぶつのしょっかく。ぞっとして、みをかたくして、おそいかかるのを、)

襲いかかる怪物の触覚。ゾッとして、身を固くして、襲いかかるのを、

(はらいのけると、わーっ とあがる、こどものひめい、むちのおと。ああわかった、かいぶつは)

払いのけると、「ワーッ」と上る、子供の悲鳴、鞭の音。アア分った、怪物は

(なにかのほうほうで、うえにいるあいぼうに、さしずをしているのだ。せっかんさせたり、)

何かの方法で、上にいる相棒に、指図をしているのだ。折檻させたり、

(やめさせたり、かんきゅうじざいにあやつって、しずこをせめるぶきとしているのだ。)

やめさせたり、緩急自在に操って、倭文子を責める武器としているのだ。

(ていこうすれば、かんせつながら、わがいとしごをしねとばかり、せめさいなむも)

抵抗すれば、間接ながら、我がいとし子を死ねとばかり、責めさいなむも

(どうぜんだ。ああ、どうしたらいいのだ。こんなざんこくなせめどうぐが、このよにまたと)

同然だ。アア、どうしたらいいのだ。こんな残酷な責道具が、この世にまたと

(あろうとはおもわれぬ。しずこは、こどものように、こえをあげてなきだしてしまった。)

あろうとは思われぬ。倭文子は、子供の様に、声を上げて泣き出してしまった。

(ちえもふんべつもつきたからだ。とうとう、まいってしまったね。ふふふふふふふ、)

智恵も分別も尽きたからだ。「とうとう、参ってしまったね。フフフフフフフ、

(どうせそうなるのだ。じたばたするだけ、むだというものだ たえがたき)

どうせそうなるのだ。じたばたするだけ、無駄というものだ」耐えがたき

(あっぱくかん、みみもとにひびくあらしのようなこきゅうのおと、あついいき。・・・・・・そのせつな、)

圧迫感、耳元に響く嵐のような呼吸の音、熱い息。・・・・・・その刹那、

(しずこは、めいじょうしがたきこんめいをおぼえた。いまかのじょのうえに、のしかかっているものの)

倭文子は、名状し難き困迷を覚えた。今彼女の上に、のしかかっているものの

(たいしゅうに、かすかなきおくがあったからだ。こいつは、けっしてみずしらずの)

体臭に、微な記憶があったからだ。「こいつは、決して見ず知らずの

(にんげんではない。それどころか、いつか、ひじょうにしたしくしていたことのあるおとこだ)

人間ではない。それどころか、いつか、非常に親しくしていたことのある男だ」

(しっているひとだとおもうと、かのじょはなおさらぞっとした。いまにもおもいだせそうで、)

知っている人だと思うと、彼女は猶更ゾッとした。今にも思い出せそうで、

(なかなかおもいだせぬのが、ひじょうにぶきみであった。)

なかなか思い出せぬのが、非常に不気味であった。

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