岡本かの子『晩春』

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投稿者投稿者由佳梨いいね6お気に入り登録
プレイ回数5844難易度(5.0) 3872打 長文
最後の鈴子の小さな挙動に、はっとさせるサディズムを感じる小説。

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問題文

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(すずこは、ひとり、ちょうばにすわって、ぼんやりおもてどおりをながめていた。ばんしゅんのごごの)

鈴子は、ひとり、帳場に坐って、ぼんやり表通りを眺めていた。晩春の午後の

(あたたかさが、まるでゆのなかにでもひたっているようにからだのそんざいいしきをぼうきゃくさせて)

温かさが、まるで湯の中にでも浸っているように体の存在意識を忘却させて

(たましいだけがちゅうにういているようにたよりなくかんじさせた。そのたよりなさのかんじがだんだん)

魂だけが宙に浮いているように頼り無く感じさせた。その頼り無さの感じが段々

(つよくなるとすずこのむねをきもちわるくおさえつけてくるので、かのじょはわれしらず)

強くなると鈴子の胸を気持ち悪く圧え付けて来るので、彼女はわれ知らず

(ふらふらとたちあがってうらのほりのふちへおりていった。ざいもくほりがいえをみなみよこからひがしうしろへ)

ふらふらと立ち上って裏の堀の縁へ降りて行った。材木堀が家を南横から東後へ

(ととりまいて、とうほくちほうやからふとあたりからはこばれてきたもくざいをぎっしりうかべて)

と取巻いて、東北地方や樺太あたりから運ばれて来た木材をぎっしり浮べて

(いる。すずこは、しゃがんでほりのふちともくざいとのあいだにあるすきまをみつけて、ほりのそこを)

いる。鈴子は、しゃがんで堀の縁と木材との間に在る隙間を見付けて、堀の底を

(じっとのぞくのであった。かのじょは、78さいのこどものころ、みせのこぞうにてつだって)

じっと覗くのであった。彼女は、七八歳の子供の頃、店の小僧に手伝って

(もらって、たもをもってよくきんぎょやふなをすくってたのしんだおうじをおもいめぐらした。)

貰って、たもを持ってよく金魚や鮒をすくって楽しんだ往時を想い廻した。

(そのあと、すっかり、ふりむきもしなくなったこのほりが、じょがっこうをそつぎょうしてしばらく)

その後、すっかり、振り向きもしなくなったこの堀が、女学校を卒業して暫く

(するとまた、きゅうになつかしくなってほりのふちへおよいでくるさかなをみるだけではあったが、)

するとまた、急に懐しくなって堀の縁へ游いで来る魚を見るだけではあったが、

(1にちに1ど、ひまをみてかならずのぞきにきた。そんなくせのついたじぶんをこどもっぽいと)

一日に一度、閑を見て必ず覗きに来た。そんな癖のついた自分を子供っぽいと

(おもったり、あわれなものだとかんがえたりする。きょうもまた、ほりのみずがはんにごりににごって、)

思ったり、哀なものだと考えたりする。今日もまた、堀の水が半濁りに濁って、

(ひょうめんにはうすくきかいゆがまくをはり、そこにごごのひのこうせんがしちさいのいろをめいめつさせて)

表面には薄く機会油が膜を張り、そこに午後の陽の光線が七彩の色を明滅させて

(いる。それにしせんをうばわれまいと、かのじょはしきりにまばたきをしながらほりのそこを)

いる。それに視線を奪われまいと、彼女はしきりに瞬きをしながら堀の底を

(すかしてみようとする。ただ1ぴき、たとえこぶなでもみられさえすればかのじょは)

透かして見ようとする。ただ一匹、たとえ小鮒でも見られさえすれば彼女は

(ふしぎときもちがおさまり、むねのくるしさもきえるのだったが・・・・・・すずこがひっしになって)

不思議と気持が納まり、胸の苦しさも消えるのだったが……鈴子が必死になって

(さかなをみたがるのとはんたいに、このごろではほりのみずはにごりがちで、それにせいばんじょでつかう)

魚を見たがるのと反対に、此頃では堀の水は濁り勝ちで、それに製板所で使う

(きかいゆがたえずながれこむのでさかなのすがたはなかなかあらわれなかった。さかなをみつけられぬ)

機会油が絶えず流れ込むので魚の姿は仲々現われなかった。魚を見付けられぬ

(ひはすずこはさびしかった。おちつけなかった。むねのわだかまりがかのじょをよふけまで)

日は鈴子は淋しかった。落ち付けなかった。胸のわだかまりが彼女を夜ふけまで

など

(ねむらせなかった。さかなと、すずこのむねのわだかまりになんのかんけいがあるのかさえかのじょは)

眠らせなかった。魚と、鈴子の胸のわだかまりに何の関係があるのかさえ彼女は

(しきべつしようともしなかったが・・・・・・すずこは20さいを3つすぎてもまだよめいるべき)

識別しようともしなかったが……鈴子は二十歳を三つ過ぎてもまだ嫁入るべき

(てきとうなあいてがみつからなかった。やまのてにいえのあるじょがっこうじだいのともだちから、)

適当な相手が見付からなかった。山の手に家の在る女学校時代の友達から、

(そつぎょうとともにひかくてきちしきかいきゅうのおとことつぎつぎにえんぐみしていくしらせをうけて、)

卒業と共に比較的智識階級の男と次ぎ次ぎに縁組みして行く知らせを受けて、

(すずこはしたまちのしかも、へんぴなふかがわのざいもくほりのあいだにうきしまのようにそんざいするじぶんのいえを)

鈴子は下町の而も、辺鄙な深川の材木堀の間に浮島のように存在する自分の家を

(のろった。かのじょは、じぶんのうちきなひっこみじあんのせいしつをかえりみるよりさきに、このじゅうきょの)

呪った。彼女は、自分の内気な引込み思案の性質を顧みるより先に、此の住居の

(いちがじぶんをげんだいてきこうさいじょうりへおしださせないのだとふまんにおもう。そののろいとか)

位置が自分を現代的交際場裡へ押し出させないのだと不満に思う。その呪いとか

(ふまんがかのじょのひそかなじょうねつとからみあって1しゅのくるしみになっていた。うっとり)

不満が彼女のひそかな情熱とからみ合って一種の苦しみになっていた。うっとり

(としたばんしゅんのくうきをおどろかしてにしどなりにあるせいばんじょのまるのこが、けたたましいおとを)

とした晩春の空気を驚かして西隣に在る製板所の丸鋸が、けたたましい音を

(たててざいもくをかじりはじめた。そのおとがじぶんのあたまからからだをま2つにひきさくように)

立てて材木を噛じり始めた。その音が自分の頭から体を真二つに引き裂くように

(かんじてすずこはおもわずかおがあかくなり、いくぶんゆるめていたからだをひきしめ、ひらきめの)

感じて鈴子は思わず顔が赤くなり、幾分ゆるめていた体を引き締め、開きめの

(りょうひざをぴったりとつける、とたんにもくもくとまぢかくのほりのそこからにごりがおこって)

両膝をぴったりと付ける、とたんにもくもくと眼近くの堀の底から濁りが起って

(ぼらのようなどろいろのさかながすっととおりすぎた。すずこはいきをのんで、いま1ど、その)

ボラのような泥色の魚がすっと通り過ぎた。鈴子は息を呑んで、今一度、その

(さかなのあらわれてくるのをまちかまえた。「すずちゃん、またほりをのぞいている。そんなに)

魚の現われて来るのを待ち構えた。「鈴ちゃん、また堀を覗いている。そんなに

(さかながみたかったら、すいぞくかんへでもいけばいいじゃないか。じゅんちゃんがね、また)

魚が見度かったら、水族館へでも行けば好いじゃないか。順ちゃんがね、また

(ぜんそくをおこしたからおいしゃへつれていっておくれ」いそがしくははおやがよぶこえをきいて)

喘息を起したからお医者へ連れて行ってお呉れ」忙がしく母親が呼ぶ声を聞いて

(すずこは「あ、またか」とおもった。6さいになる1りのおとうとのじゅんいちがさくねんのはる、)

鈴子は「あ、またか」と思った。六歳になる一人の弟の順一が昨年の春、

(ひゃくにちぜきにかかっていらい、ぜんそくもちになって、いつほっさをおこすかわからないのでだれか)

百日咳にかかって以来、喘息持ちになって、何時発作を起すか判らないので誰か

(かならずついていなければならない。このおもりさんのためにもすずこはあねとしてははおや)

必ず附いていなければならない。このお守りさんの為めにも鈴子は姉として母親

(がわりにめんどうをみなければならなかった。じょがっこうをでてすでに34ねんもたち、じぶんの)

代りに面倒を見なければならなかった。女学校を出て既に三四年もたち、自分の

(からだをはやくどうにかかたづけなければならないだいじなじきだというのに、おとうとのおもり)

体を早くどうにか片付けなければならない大事な時期だというのに、弟のお守り

(なんかにひをおくっていることはつらかった。「だれも、わたしのきもちなんか、ほんとうに)

なんかに日を送っていることはつらかった。「誰も、私の気持ちなんか、本当に

(かんがえていてくれない」すずこはそうこころにつぶやきながらまだほりへめをむけている。)

考えていて呉れない」鈴子はそう心に呟き乍らまだ堀へ眼を向けている。

(「すずちゃん、じゅんちゃんがくるしんでいるっていっているのにわからないかい」ははおやの)

「鈴ちゃん、順ちゃんが苦しんでいるって言っているのに判らないかい」母親の

(なげくようなこえがふたたびきこえるとすずこはしぶしぶたちあがって「わたしだってくるしいんだ)

嘆くような声が再び聞えると鈴子はしぶしぶ立ち上って「私だって苦しいんだ

(わ」とやけにおもった。しかし、いつまでしぶってもいられなかった。かのじょは、)

わ」とやけに思った。しかし、いつまでしぶってもいられなかった。彼女は、

(きゅうにしゃがんでこいしをひろうとせんこくぼらのようなさかなのあらわれたあたりをめがけてなげ)

急にしゃがんで小石を拾うと先刻ボラのような魚の現われた辺を目がけて投げ

(こんだ。すると、へんなおかしさがこみあげてきた。すずこはすこしあおざめて、くくと)

込んだ。すると、変な可笑しさがこみ上げて来た。鈴子は少し青ざめて、くくと

(わらいながらおとうとのようすをみにいえへはいっていった。)

笑い乍ら弟の様子を見に家へは入って行った。

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