『永日小品』2

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『永日小品』より「蛇」

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(きどをあけておもてへでると、おおきなうまのあしあとのなかにあめがいっぱいたまっていた。)

木戸を開けて表へ出ると、大きな馬の足迹の中に雨がいっぱい湛っていた。

(つちをふむとどろのおとがあしうらへとびついてくる。)

土を踏むと泥の音が蹠裏へ飛びついて来る。

(かかとをあげるのがいたいくらいにおもわれた。)

踵を上げるのが痛いくらいに思われた。

(ておけをみぎのてにさげているので、あしのぬきさしにつごうがわるい。)

手桶を右の手に提げているので、足の抜き差しに都合が悪い。

(きわどくふみこたえるときには、こしからうえでちょうしをとるために、てにもったものを)

際どく踏み応える時には、腰から上で調子を取るために、手に持ったものを

(ほうりだしたくなる。やがてておけのしりをどっさとどろのそこにすえてしまった。)

放り出したくなる。やがて手桶の尻をどっさと泥の底に据えてしまった。

(あやうくたおれるところをておけのえにのしかかってむこうをみると、おじさんは)

危うく倒れるところを手桶の柄に乗し懸って向うを見ると、叔父さんは

(いっけんばかりまえにいた。みのをきたかたのあとから、)

一間ばかり前にいた。蓑を着た肩の後から、

(さんかくにはったあみのそこがぶらさがっている。このときかぶったかさがすこしうごいた。)

三角に張った網の底がぶら下がっている。この時被った笠が少し動いた。

(かさのなかからひどいみちだといったようにきこえた。みののかげはやがてあめにふかれた。)

笠のなかからひどい路だと云ったように聞えた。蓑の影はやがて雨に吹かれた。

(いしばしのうえにたってしたをみると、くろいみずがくさのあいだからおされてくる。)

石橋の上に立って下を見ると、黒い水が草の間から推されて来る。

(ふだんはくろぶしのうえをさんすんとはこえないそこに、ながいもが、うつらうつらと)

不断は黒節の上を三寸とは超えない底に、長い藻が、うつらうつらと

(うごいて、みてもきれいなながれであるのに、きょうはそこからにごった。)

揺(うご)いて、見ても奇麗な流れであるのに、今日は底から濁った。

(したからどろをふきあげる、うえからあめがたたく、まんなかをうずがかさなりあってとおる。)

下から泥を吹き上げる、上から雨が叩く、真中を渦が重なり合って通る。

(しばらくこのうずをみまもっていたおじさんは、くちのうちで、「とれる」といった。)

しばらくこの渦を見守っていた叔父さんは、口の内で、「獲れる」と云った。

(ふたりははしをわたって、すぐひだりへきれた。うずはあおいたのなかをうねうねとのびていく。)

二人は橋を渡って、すぐ左へ切れた。渦は青い田の中をうねうねと延びて行く。

(どこまでおしていくかわからないながれのあとをつけていっちょうほどきた。)

どこまで押して行くか分らない流れの迹を跟(つ)けて一町ほど来た。

(そうしてひろいたのなかにたったふたりさびしくたった。あめばかりみえる。)

そうして広い田の中にたった二人淋しく立った。雨ばかり見える。

(おじさんはかさのなかからそらをあおいだ。そらはちゃつぼのふたのようにくらくふうじられている。)

叔父さんは笠の中から空を仰いだ。空は茶壺の葢のように暗く封じられている。

(そのどこからか、すきまなくあめがおちる。たっていると、ざあっというおとがする。)

そのどこからか、隙間なく雨が落ちる。立っていると、ざあっと云う音がする。

など

(これはみにつけたかさとみのにあたるおとである。それからしほうのたにあたる)

これは身に着けた笠と蓑にあたる音である。それから四方の田にあたる

(おとである。むこうにみえるきおうのもりにあたるおともとおくからまじってくるらしい。)

音である。向うに見える貴王の森にあたる音も遠くから交って来るらしい。

(もりのうえには、くろいくもがすぎのこずえによびよせられておくふかくかさなりあっている。)

森の上には、黒い雲が杉の梢に呼び寄せられて奥深く重なり合っている。

(それがじねんのおもみでだらりとうえのほうからさがってくる。)

それが自然(じねん)の重みでだらりと上の方から下って来る。

(くものあしはいますぎのあたまにからみついた。もうすこしすると、もりのなかへおちそうだ。)

雲の足は今杉の頭に絡みついた。もう少しすると、森の中へ落ちそうだ。

(きがついてあしもとをみると、うずはかぎりなくみなかみからながれてくる。)

気がついて足元を見ると、渦は限りなく水上(みなかみ)から流れて来る。

(きおうさまのうらのいけのみずが、あのくもにおそわれたものだろう。)

貴王様の裏の池の水が、あの雲に襲われたものだろう。

(うずのかたちがきゅうにいきおいづいたようにみえる。おじさんはまたまくうずをみまもって、)

渦の形が急に勢いづいたように見える。叔父さんはまた捲く渦を見守って、

(「とれる」とさもなにものをかとったようにいった。やがてみのをきたまま)

「獲れる」とさも何物をか取ったように云った。やがて蓑を着たまま

(みずのなかにおりた。いきおいのすさまじいわりには、さほどふかくもない。)

水の中に下りた。勢いの凄まじい割には、さほど深くもない。

(たってこしまでひたるくらいである。おじさんはかわのまんなかにこしをすえて、)

立って腰まで浸るくらいである。叔父さんは河の真中に腰を据えて、

(きおうのもりをしょうめんに、かわかみにむかって、かたにかついだあみをおろした。)

貴王の森を正面に、川上に向って、肩に担いだ網をおろした。

(ふたりはあめのおとのなかにじっとして、まともにおしてくるうずのかっこうをながめていた。)

二人は雨の音の中にじっとして、まともに押して来る渦の恰好を眺めていた。

(さかながこのうずのしたを、きおうのいけからながされてとおるにちがいない。うまくかかれば)

魚がこの渦の下を、貴王の池から流されて通るに違いない。うまくかかれば

(おおきなのがとれると、いっしんにすごいみずのいろをみつめていた。)

大きなのが獲れると、一心に凄い水の色を見つめていた。

(みずはもとよりにごっている。うわかわのうごくぐあいだけで、)

水は固(もと)より濁っている。上皮(うわかわ)の動く具合だけで、

(どんなものが、みずのそこをながれるかまったくわかりかねる。)

どんなものが、水の底を流れるか全く分りかねる。

(それでもまばたきもせずに、みずぎわまでひたったおじさんのてくびのうごくのをまっていた。)

それでも瞬きもせずに、水際まで浸った叔父さんの手首の動くのを待っていた。

(けれどもそれがなかなかにうごかない。)

けれどもそれがなかなかに動かない。

(あまあしはしだいにくろくなる。かわのいろはだんだんおもくなる。うずのもんははげしくみなかみから)

雨脚はしだいに黒くなる。河の色はだんだん重くなる。渦の紋は劇しく水上から

(めぐってくる。このときどすぐろいなみがするどくめのまえをとおりすごそうとするなかに、)

回(めぐ)って来る。この時どす黒い波が鋭く眼の前を通り過そうとする中に、

(ちらりといろのかわったもようがみえた。まばたきをゆるさぬとっさのひかりをうけた)

ちらりと色の変った模様が見えた。瞬きを容さぬとっさの光を受けた

(そのもようにはながさのかんじがあった。これはおおきなうなぎだなとおもった。)

その模様には長さの感じがあった。これは大きな鰻だなと思った。

(とたんにながれにさからって、あみのえをにぎっていたおじさんのみぎのてくびが、みののしたから)

途端に流れに逆らって、網の柄を握っていた叔父さんの右の手首が、蓑の下から

(かたのうえまではねかえるようにうごいた。つづいてながいものがおじさんのてをはなれた。)

肩の上まで弾ね返るように動いた。続いて長いものが叔父さんの手を離れた。

(それがくらいあめのふりしきるなかに、おもたいなわのようなきょくせんをえがいて、むこうのどての)

それが暗い雨のふりしきる中に、重たい縄のような曲線を描いて、向うの土手の

(うえにおちた。とおもうと、くさのなかからむくりとかまくびをいっしゃくばかりもちあげた。)

上に落ちた。と思うと、草の中からむくりと鎌首を一尺ばかり持上げた。

(そうしてもちあげたままきっとふたりをみた。)

そうして持上げたまま屹と二人を見た。

(「おぼえていろ」)

「覚えていろ」

(こえはたしかにおじさんのこえであった。どうじにかまくびはくさのなかにきえた。)

声はたしかに叔父さんの声であった。同時に鎌首は草の中に消えた。

(おじさんはあおいかおをして、へびをなげたところをみている。)

叔父さんは蒼い顔をして、蛇を投げた所を見ている。

(「おじさん、いま、おぼえていろといったのはあなたですか」)

「叔父さん、今、覚えていろと云ったのはあなたですか」

(おじさんはようやくこっちをむいた。そうしてひくいこえで、だれだかよくわからないと)

叔父さんはようやくこっちを向いた。そうして低い声で、誰だかよく分らないと

(こたえた。いまでもおじにこのはなしをするたびに、だれだかよくわからないとこたえては)

答えた。今でも叔父にこの話をするたびに、誰だかよく分らないと答えては

(みょうなかおをする。)

妙な顔をする。

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