白痴 22
問題文
(いざわのこやはさいわいしほうがあぱーとだの)
伊沢の小屋は幸い四方がアパートだの
(きちがいだのしたてやなどのにかいやでとりかこまれていたので、)
気違いだの仕立屋などの二階屋でとりかこまれていたので、
(きんりんのいえはまどがらすがわれやねのいたんだいえもあったが、)
近隣の家は窓ガラスがわれ屋根の傷んだ家もあったが、
(かれのこやのみがらすにひびすらもはいらなかった。)
彼の小屋のみガラスに罅(ひび)すらもはいらなかった。
(ただぶたごやのまえのはたけにちだらけのぼうくうずきんがおちてきたばかりであった。)
ただ豚小屋の前の畑に血だらけの防空頭巾が落ちてきたばかりであった。
(おしいれのなかで、いざわのめだけがひかっていた。)
押入の中で、伊沢の目だけが光っていた。
(かれはみた。はくちのかおを。こくうをつかむそのぜつぼうのくもんを。)
彼は見た。白痴の顔を。虚空をつかむその絶望の苦悶を。
(ああにんげんにはりちがある。)
ああ人間には理智がある。
(いかなるときにもなおいくらかのよくせいやていこうはかげをとどめているものだ。)
如何なる時にも尚いくらかの抑制や抵抗は影をとどめているものだ。
(そのかげほどのりちもよくせいもていこうもないということが、)
その影ほどの理智も抑制も抵抗もないということが、
(これほどあさましいものだとは!)
これほどあさましいものだとは!
(おんなのかおとぜんしんにただしのまどへひらかれたきょうふとくもんがこりついていた。)
女の顔と全身にただ死の窓へひらかれた恐怖と苦悶が凝りついていた。
(くもんはうごきくもんはもがき、そしてくもんがいってきのなみだをおとしている。)
苦悶は動き苦悶はもがき、そして苦悶が一滴の涙を落している。
(もしいぬのめがなみだをながすならいぬがわらうとどうようにしゅうかいきわまるものであろう。)
もし犬の眼が涙を流すなら犬が笑うと同様に醜怪きわまるものであろう。
(かげすらもりちのないなみだとは、これほどもしゅうあくなものだとは!)
影すらも理智のない涙とは、これほども醜悪なものだとは!
(ばくげきのさなかにおいてしごさいないし)
爆撃のさ中に於て四五歳乃至
(ろくななさいのようじたちはきみょうになかないものである。)
六七歳の幼児達は奇妙に泣かないものである。
(かれらのしんぞうはなみのようなどうきをうち、かれらのことばはうしなわれ、)
彼等の心臓は波のような動悸をうち、彼等の言葉は失われ、
(いようなめをおおきくみひらいているだけだ。)
異様な目を大きく見開いているだけだ。
(ぜんしんにいきているのはめだけであるが、それはいっけんしたところ、)
全身に生きているのは目だけであるが、それは一見したところ、
(ただおおきくみひらかれているだけで、)
ただ大きく見開かれているだけで、
(かならずしもふあんやきょうふというもののちょくせつげきてきなひょうじょうを)
必ずしも不安や恐怖というものの直接劇的な表情を
(きざんでいるというほどではない。)
刻んでいるというほどではない。
(むしろほんらいのこどもよりもかえってりちてきにおもわれるほど)
むしろ本来の子供よりも却って理智的に思われるほど
(じょういをしずかにころしている。)
情意を静かに殺している。
(そのしゅんかんにはあらゆるおとなもそれだけで、)
その瞬間にはあらゆる大人もそれだけで、
(あるいはむしろそれいかで、)
或いはむしろそれ以下で、
(なぜならむしろろこつなふあんやしへのくもんをあらわすからで、)
なぜならむしろ露骨な不安や死への苦悶を表わすからで、
(いわばこどもがおとなよりもりちてきにすらみえるのだった。)
いわば子供が大人よりも理智的にすら見えるのだった。