織田信長の一生

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織田信長の一生
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かなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーり長くなったので
時間制にしました。
皆さんはどこまで信長の人生に迫ることができるでしょうか?

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(1534ねんおわりのくになこやしろでうまれる)

1534年 尾張国那古屋城で生まれる

(しょうねんじだいはうつけものとよばれていた)

少年時代はうつけ者と呼ばれていた

(1539ねんのぶながはなごのしろ(のちのなごやじょう)をあたえられる)

1539年 信長は名古野城(のちの名古屋城)を与えられる

(1546ねんげんぷくし、おださぶろうのぶながとなのる)

1546年 元服し、織田三郎信長と名乗る

(1548ねんみのくにのさいとうどうさんのむすめ、のうひめとせいりゃくけっこん)

1548年 美濃国の斎藤道三の娘、濃姫と政略結婚

(1551ねんちち、のぶひでのしにより、かとくをそうぞくする。)

1551年 父、信秀の死により、家督を相続する。

(1552ねんいまがわしにねがえった、なるみじょうしゅ、やまぐちきょうつぎをせめる)

1552年 今川氏に寝返った、鳴海城主、山口教継を攻める

(1553ねんめのとやくのひらてまさひでが、のぶながをいさめてじがい。)

1553年  傅役の平手政秀が、信長を諫めて自害。

(さいとうどうさんと、おわりのくにせいとくてらでかいけん。)

斎藤道三と、尾張国聖徳寺で会見。

(1555ねん(22さい))

1555年 (22歳)

(おわりのくにしたよんぐんのしゅごだいで)

尾張国下四郡の守護代で

(しゅうすじのおだのぶともをせめついほうし、)

主筋の織田信友を攻め追放し、

(きよすじょうのじょうしゅに)

清州城の城主に

(1556ねん(23さい))

1556年 (23歳)

(がくふさいとうどうさんが、ながらがわのいくさでじがい。)

岳父斎藤道三が、長良川の戦で自害。

(のぶながをたおし、おとうとのおだのぶゆきをようりつしようとした)

信長を倒し、弟の織田信行を擁立しようとした

(はやしつうかち、はやしみまさか(つうぐ)、しばたかついえらにしょうり。(いなおのいくさ))

林通勝、林美作(通具)、柴田勝家らに勝利。(稲生の戦)

(1557ねん(24さい))

1557年 (24歳)

(おいえそうどうのこんげんであった、おとうとのおだのぶゆきをさつがい。)

お家騒動の根源であった、弟の織田信行を殺害。

(1558ねん(25さい))

1558年 (25歳)

など

(うきののいくさで、)

浮野の戦で、

(かみよんぐんのしゅごだい、おだのぶとしにたいしょう。)

上四郡の守護代、織田信賢に大勝。

(1559ねん(26さい))

1559年 (26歳)

(じょうらくしあしかがよしてるにはいえつ。)

上洛し足利義輝に拝謁。

(いわくらじょうのいくさでおだのぶとしをせめついほうし、おわりのくにをとういつ。)

岩倉城の戦で織田信賢を攻め追放し、尾張国を統一。

(1560ねん(27さい))

1560年 (27歳)

(おけはざまのいくさでいまがわよしもとをうちとる。)

桶狭間の戦で今川義元を討ちとる。

(1562ねん(29さい))

1562年 (29歳)

(いまがわよしもとのせんぽうをつとめた、)

今川義元の先鋒をつとめた、

(みかわくにのまつだいらもとやす(とくがわいえやす)ときよすどうめいをけっせい。)

三河国の松平元康(徳川家康)と清洲同盟を結成。

(1563ねん(30さい))

1563年 (30歳)

(みのくにこうりゃくのために、きよすじょうからこまきやまじょうにきょじょうをうつす。)

美濃国攻略のために、清洲城から小牧山城に居城を移す。

(1566ねん(33さい))

1566年 (33歳)

(みのくにこうりゃくのきょてんとして)

美濃国攻略の拠点として

(、すのまたじょうをきのしたとうきちろう(とよとみひでよし)にちくじょうさせる。)

、墨俣城を木下藤吉郎(豊臣秀吉)に築城させる。

(1567ねん(34さい))

1567年 (34歳)

(このごろ、おうみのくにのあざいながまさとどうめい。)

この頃、近江国の浅井長政と同盟。

(いもうとのおいちのほうをあざいながまさのせいさいにおくりこむ。)

妹のお市の方を浅井長政の正妻に送り込む。

(さいとうたつおきをせめ、ねんがんだったみのくにをしゅちゅうに。(いなばやまじょうぜめ))

斎藤龍興を攻め、念願だった美濃国を手中に。(稲葉山城攻め)

(いのぐちをぎふとかいめい、いなばやまじょうをぎふじょうとかいめいし、きょじょうに。)

井ノ口を岐阜と改名、稲葉山城を岐阜城と改名し、居城に。

(たきかわかずまさにめいじ、いせくにほくぶこうりゃくをかいし。)

滝川一益に命じ、伊勢国北部攻略を開始。

(1568ねん(35さい))

1568年 (35歳)

(いせくにのこうべぐもりをこうふくさせ、)

伊勢国の神戸具盛を降伏させ、

(そのさいさんなんのおだのぶたかをようしにおくりこむ。(きたいせをへいてい))

その際三男の織田信孝を養子に送り込む。(北伊勢を平定)

(えちぜんのくにのあさくらよしかげのもとかしん、あけつみつひでのちゅうかいにより)

越前国の朝倉義景の元家臣、明智光秀の仲介により、

(あしかがよしあきをほうじてじょうらくをはたす。(のぶながのじょうらくせん))

足利義昭を奉じて上洛を果たす。(信長の上洛戦)

(きないをしはいしていたみよしさんにんしゅうをしこくへおい、きないをしはいかに。)

畿内を支配していた三好三人衆を四国へ追い、畿内を支配下に。

(みよしさんにんしゅうとたいりつしていた、だいわこくのまつながひさひでをはいかに。)

三好三人衆と対立していた、大和国の松永久秀を配下に。

(あしかがよしあきを15だいむろまちしょうぐんにつける。)

足利義昭を15代室町将軍につける。

(1569ねん(36さい))

1569年 (36歳)

(もとくにてらのへん。)

本國寺の変。

(にじょうごしょをけんせつし、しょうぐんあしかがよしあきのごしょに。)

二条御所を建設し、将軍足利義昭の御所に。

(いせくにのきたばたけぐきょうをせめわぼく。)

伊勢国の北畠具教を攻め和睦。

(そのさいじなんのおだのぶおをようしにおくりこみ、いせくにをへいてい。)

その際次男の織田信雄を養子に送り込み、伊勢国を平定。

(1570ねん(37さい))

1570年 (37歳)

(しょうぐんあしかがよしあきを、とのちゅうごおきてでいさめたことからたいりつ。)

将軍足利義昭を、殿中御掟で諫めたことから対立。

(じょうらくめいれいにしたがわないえちぜんのくにのあさくらよしかげせめにむかうが、)

上洛命令に従わない越前国の朝倉義景攻めに向かうが、

(ぎていであるおうみのくにのあざいながまさのうらぎりによりきょうとへにげかえる。)

義弟である近江国の浅井長政の裏切りにより京都へ逃げ帰る。

((かねがさきののきくち))

(金ヶ崎の退き口)

(そのさい、はしば(とよとみ)ひでよしがでんぐん(しんがり)をかってでてせいこう。)

その際、羽柴(豊臣)秀吉が殿軍(しんがり)を買ってでて成功。

(ぎふにもどりぐんびをととのえ、)

岐阜に戻り軍備を整え、

(ふたたびえちぜんのくにのあさくらよしかげと)

再び越前国の朝倉義景と

(おうみのくにのあざいながまさときたおうみのあねかわをはさんでたたかいしょうり)

近江国の浅井長政と北近江の姉川を挟んで戦い勝利

(のくしまのいくさ。)

野田・福島の戦。

(しょうぐんあしかがよしあきのもとめにおうじたほんがんじのけんにょとたいりつ。(いしやまがっせんのぼっぱつ))

将軍足利義昭の求めに応じた本願寺の顕如と対立。(石山合戦の勃発)

((いしやまがっせんのぼっぱつ))

(石山合戦の勃発)

(うさやまのいくさ。)

宇佐山の戦。

(ほんがんじ、ひえいざん、あさい、あさくらと、しゅういをてきにかこまれたことから、)

本願寺、比叡山、浅井、朝倉と、周囲を敵に囲まれたことから、

(あしかがよしあきにあっせんをきょうようしわぼくにせいこう。ぎふへもどる。)

足利義昭に斡旋を強要し和睦に成功。岐阜へ戻る。

((しがのじん))

(志賀の陣)

(1571ねん(38さい))

1571年 (38歳)

(いせくにおさとうのひたすらいっきをせめるがこうりゃくできず。)

伊勢国長島の一向一揆を攻めるが攻略できず。

((だいいちじいせながしませめ))

(第一次伊勢長島攻め)

(あさい、あさくらぐんをかくまったことをりゆうに、ひえいざんやきうちをおこなう。)

浅井、朝倉軍を匿ったことを理由に、比叡山焼き討ちを行う。

(1572ねん(39さい))

1572年 (39歳)

(たけだしんげん、じょうらくせんをかいし。)

武田信玄、上洛戦を開始。

(みかたがはらのいくさで、たけだしんげんがとくがわいえやすぐんをやぶり、おわりのくにのききがちかづく。)

三方ヶ原の戦で、

(たけだしんげんがとくがわいえやすぐんをやぶり、おわりのくにのききがちかづく。)

武田信玄が徳川家康軍を破り、尾張国の危機が近づく。

(1573ねん(40さい))

1573年 (40歳)

(たけだしんげんのびょうしにより、ききをかいひ。)

武田信玄の病死により、危機を回避。

(しょうぐんあしかがよしあきをかわないこくについほう。むろまちばくふめつぼう。)

将軍足利義昭を河内国に追放。室町幕府滅亡。

(えちぜんのくにをせめ、あさくらよしかげをじがいさせ、えちぜんのくにをしはいかに。)

越前国を攻め、朝倉義景を自害させ、越前国を支配下に。

(こだにじょうのいくさで、あざいながまさをじがいさせおうみのくにをしはいかに。)

小谷城の戦で、浅井長政を自害させ近江国を支配下に。

(ながまさにとついでいたいもうとのおいちのほうと、)

長政に嫁いでいた妹のお市の方と、

(そのむすめちゃちゃ(よどどの)、はつ、おいてえよはおちのびる。)

その娘茶々(淀殿)、初、於江与は落ち延びる。

(えちぜんのくににおこったひたすらいっきを、しばたかついえにせめさせこうりゃく。)

越前国に起こった一向一揆を、柴田勝家に攻めさせ攻略。

(1573ねん(40さい))

1573年 (40歳)

(ふたたびいせくにおさとうのひたすらいっきをせめるがこうりゃくできず。(だいにじいせながしませめ))

再び伊勢国長島の一向一揆を攻めるが攻略できず。(第二次伊勢長島攻め)

(1582ねん6がつ21にち(てんしょう10ねん6がつ2にち)(きょうねん49さい))

1582年6月21日(天正10年6月2日) (享年49歳)

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