菊千代抄 山本周五郎 ⑫

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武家の因習で男として育てられた娘の話。
自分は男であると疑わず育った菊千代。
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。

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問題文

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(じぶんをこのようにしたのはちちではないか、)

自分をこのようにしたのは父ではないか、

(はじめからりゆうをしらせてくれたのならともかく、)

初めから理由を知らせて呉れたのならともかく、

(じゅうごまでなにもおしえず、おとこであることにいささかのうたがいももたなかったものに、)

十五までなにも教えず、男であることに些かの疑いももたなかった者に、

(いきなりおんなになることができるであろうか。)

いきなり女になることができるであろうか。

(そのうえ、おとこでいっしょうくらすのもよかろうと、)

そのうえ、男で一生くらすのもよかろうと、

(ちちがみずからすすめたのではないか。)

父が自らすすめたのではないか。

(「ぶんぽうしていただけるのはいつのことでございますか」)

「分封して頂けるのはいつのことでございますか」

(はんこうしんがおこるときくちよはよくこういった。)

反抗心が起こると菊千代はよくこう云った。

(「まだぶんぽうしてはいただけないのですか」)

「まだ分封しては頂けないのですか」

(さだながはあきらかにまよいだしたようだ。)

貞良は明らかに迷いだしたようだ。

(そうかんたんにはゆかぬとか、かんがえているとか、)

そう簡単にはゆかぬとか、考えているとか、

(もうしばらくまてとか、なかなかはっきりしたへんじはしなかった。)

もう暫く待てとか、なかなかはっきりした返辞はしなかった。

(そうしてきくちよがじゅうはっさいになったしょうがつ、)

そうして菊千代が十八歳になった正月、

(いつものれいでかみやしきへしゅうぎにゆくと、)

いつもの例で上屋敷へ祝儀にゆくと、

(さだながはうちとけたそうだんをするというちょうしで、)

貞良はうちとけた相談をするという調子で、

(こちらのめをやさしくみながらいった。)

こちらの眼をやさしく見ながらいった。

(「やっぱりおとこでとおすつもりか、おんなになるきはないか、)

「やっぱり男でとおすつもりか、女になる気はないか、

(いじをぬいてしょうじきにいってみないか」)

意地をぬいて正直にいってみないか」

(きくちよはちちのめをみつめたままだまっていた。)

菊千代は父の眼をみつめたまま黙っていた。

(こたえるひつようがなかったのである、いまさらなにをというきもちだった。)

答える必要がなかったのである、いまさらなにをという気持だった。

など

(さだながはそのぎょうしにたえられず、ぜつぼうしたようにめをそらした。)

貞良はその凝視に耐えられず、絶望したように眼をそらした。

(まきのけはひたちのくにかさまりょうではちまんさんぜんごくだった。)

巻野家はひたちのくに嵩間領で八万三千石だった。

(きくちよははたちのとし、そのうちからはっせんごくぶんぽうしてもらった。)

菊千代は二十歳の年、そのうちから八千石分封して貰った。

(はまちょうのなかやしきと、べっけおうみのかみのやしきとのあいだに、)

浜町の中屋敷と、別家遠江守の屋敷とのあいだに、

(かのじょのためのやしきができ、またかさまりょうのなかやまというところに)

彼女のための屋敷が出来、また嵩間領の中山という処に

(やかたとりょうちじむのためのやくしょがたった。)

屋形と領地事務のための役所が建った。

(あたらしいやしきでは、ひぐちじろうべえがつけがろうというかたちで、)

新しい屋敷では、樋口次郎兵衛が付家老というかたちで、

(そばにはやはりまつおのほかにおんなをおかず、)

側にはやはり松尾のほかに女を置かず、

(きんじゅはさんにんのしょうねんのうち、さいはじけたすえつぐいのすけをやめて、)

近習は三人の少年のうち、才はじけた末次猪之助をやめて、

(やじまやいちというすこしどんかんなしょうねんをもらった。)

矢島弥市という少し鈍感な少年を貰った。

(はっせんごくのたてぬしではあるがにんかんしないので、)

八千石の館主ではあるが任官しないので、

(こうしきにはさいしょうげんのぎむしかなく、)

公式には最小限の義務しかなく、

(かしんもえどとなかやまのりょうちをあわせて、)

家臣も江戸と中山の領地を合わせて、

(せいぜいよんじゅうにんをでいりするくらいのものだった。)

せいぜい四十人を出入りするくらいのものだった。

(じぶんのやしきをもってからやくにねんくらいきくちよは)

自分の屋敷を持ってから約二年くらい菊千代は

(ひかくてきおちついたきもちですごした。)

比較的おちついた気持で過した。

(しんぞくのあいだではやかたのちめいをとって)

親族のあいだでは屋形の地名を取って

(「なかやまどの」といわれていたが、)

「中山殿」といわれていたが、

(かのじょはちちにあういがいはけっしてしんぞくといききしなかった。)

彼女は父に会う以外は決して親族と往来しなかった。

(かぶきしばいをみたり、ゆうげいにんをよんでしゅえんをしたり、)

歌舞伎芝居を観たり、遊芸人を呼んで酒宴をしたり、

(しちゅうのさかりばをみてまわったり、)

市中の盛り場を見てまわったり、

(ふえのけいこをしたりしたのはこのきかんのことである、)

笛の稽古をしたりしたのはこの期間のことである、

(だがふえのほかはみなすぐにあきた、)

だが笛のほかはみなすぐに飽きた、

(こころからひきつけられるようなものはひとつもなかった。)

心からひきつけられるようなものは一つもなかった。

(ひとのよとはこんなものだろうか。)

人の世とはこんなものだろうか。

(じぶんでおもいつくこと、まわりからすすめられること、)

自分で思いつくこと、まわりからすすめられること、

(かのじょのみぶんでかのうなことはたいていやってみたが、)

彼女の身分で可能なことはたいていやってみたが、

(やってみるにしたがってしつぼうがおおきくなるばかりだった。)

やってみるにしたがって失望が大きくなるばかりだった。

(もっとなにかあるはずだ。)

もっとなにかあるはずだ。

(このむねをどきどきたかならせてくれるような、なにかが、)

この胸をどきどき高鳴らせてくれるような、なにかが、

(それともこれがよのなかというものなのだろうか、)

それともこれが世の中というものなのだろうか、

(じぶんをむちゅうにさせてくれるようなもの、)

自分を夢中にさせてくれるようなもの、

(ぜんしんでうちこめるようなものはないのだろうか。)

全身でうちこめるようなものはないのだろうか。

(そのころしょうへいこうのきょうかんでひらまつなにがしというがくしゃがいた。)

そのころ昌平黌の教官で平松なにがしという学者がいた。

(ようめいをおしえたのでがくもんじょをおわれたということをきき、)

陽明を教えたので学問所を追われたということを聞き、

(きくちよがかれをまねいてろうしのこうぎをきいた。)

菊千代が彼を招いて老子の講義を聴いた。

(またしばのしょうがんじへかよってぜんもまなんでみた。)

また芝の正眼寺へかよって禅もまなんでみた。

(けれどもやはりかのじょにはえんのとおいもので、)

けれどもやはり彼女には縁の遠いもので、

(どちらもいたずらにはんさであり、くうそなものにしかおもえなかった。)

どちらもいたずらに煩瑣であり、空疎なものにしか思えなかった。

(こうしてへいせいなじきがけいかし、きくちよはにじゅうさんさいになった。)

こうして平静な時期が経過し、菊千代は二十三歳になった。

(そのとしのしがつのあるよあけ、)

その年の四月の或る夜明け、

(かのじょのぜんしんけいをわくらんさせるようなできごとがおこった。)

彼女の全神経を惑乱させるような出来事が起こった。

(しょかのきおんのたかいみめいのしんじょで、)

初夏の気温の高い未明の寝所で、

(きくちよはさけびごえをあげてめをさました。)

菊千代は叫び声をあげて眼をさました。

(ゆめだったとおもい、おきようとしたが、)

夢だったと思い、起きようとしたが、

(かんせつやすじがばらばらにほぐれたようで、)

関節や筋がばらばらにほぐれたようで、

(みうごきすることもできない。それだけではなかった。)

身うごきすることもできない。それだけではなかった。

(ゆめのなかでうけたむほうなぼうりょくが、)

夢の中でうけた無法な暴力が、

(じぶんのからだのいちぶにまだのこっていた。)

自分のからだの一部にまだ残っていた。

(そのいちぶぶんにうけたぼうりょくがげんじつであるかのように、)

その一部分に受けた暴力が現実であるかのように、

(かのじょのいしとはむかんけいなつよいはんのうをしめしている。)

彼女の意志とは無関係なつよい反応を示している。

(そしてそれはぜんしんをしばりつけ、しびれさせ、)

そしてそれは全身を縛りつけ、痺れさせ、

(とうすいにまでひきこんでいった。)

陶酔にまでひきこんでいった。

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