契りきぬ 山本周五郎 ⑮

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不遇を脱する一心で、ある侍を口説く賭けにのる花街の女の話。

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(いまへゆくとせいのすけのすがたがみえなかった。)

居間へゆくと精之助の姿がみえなかった。

(どうしたのかとおもっていると、となりのぶつまのふすまがあいていて、)

どうしたのかと思っていると、隣りの仏間の襖があいていて、

(そこからかれのこえがきこえた。「ありがとう、いますぐゆくから」)

そこから彼の声が聞えた。「有難う、いますぐゆくから」

(そうしてすぐにかれはでてきた。)

そうしてすぐに彼は出て来た。

(すでにねまきになっていて、こっちへきてすわると、)

すでに寝衣になっていて、こっちへ来て坐ると、

(「ねているところをすまなかった。すこしあいてをしてもらいたいんだが」)

「寝ているところを済まなかった。少し相手をして貰いたいんだが」

(「こんなみぐるしいかっこうでございまして」)

「こんな見ぐるしい恰好でございまして」

(「それでけっこうだよ。そのほうがいい、かざらないほうがよほどうつくしいよ」)

「それで結構だよ。そのほうがいい、飾らないほうがよほど美しいよ」

(かれはこういってまぶしそうなめをした。)

彼はこう云って眩しそうな眼をした。

(「ひとつうけないか」しばらくするとかれはふいにさかずきをだした。)

「ひとつ受けないか」 暫くすると彼はふいに盃を出した。

(こんなことははじめてである。じたいしようとおもったが、)

こんなことは初めてである。辞退しようと思ったが、

(もうわかれるのだときづき、しずかにひざをすすめてそれをうけた。)

もう別れるのだと気づき、静かに膝をすすめてそれを受けた。

(「よくふる、しずかなあめだ、これですっかりあきらしくなるだろう」)

「よく降る、しずかな雨だ、これですっかり秋らしくなるだろう」

(かれはめをつむり、こがいのあめをきくようにいっときしんとした。)

彼は眼をつむり、戸外の雨を聞くようにいっときしんとした。

(そうして、めをつむったまま、ささやくように「なつーー」とよび、)

そうして、眼をつむったまま、囁くように「なつーー」と呼び、

(かたほうのてをこちらへさしのばした。)

片方の手をこちらへさし伸ばした。

(おなつはもうひとひざすすんで、そのてへさかずきをかえした。)

おなつはもうひと膝すすんで、その手へ盃を返した。

(すると、そのかれはさかずきごとおなつのてをにぎり、)

すると、その彼は盃ごとおなつの手を握り、

(じぶんもみをおこすようにしてひきよせた。)

自分も身を起すようにしてひき寄せた。

(おなつはめがくらむようにおもった。)

おなつは眼がくらむように思った。

など

(てをにぎられ、つよいちからでひきよせられたとき、あいてをつきのけ、)

手を握られ、つよい力でひき寄せられたとき、相手をつきのけ、

(さけぼうとした。ほんとうにつきのけ、さけんだかもしれない、)

叫ぼうとした。本当につきのけ、叫んだかもしれない、

(だがぎゃくになんにもしなかったかもわからない、)

だが逆になんにもしなかったかもわからない、

(いっしゅんにぜんしんのちからがぬけ、かんかくがじぶんのものでなくなった。)

一瞬に全身の力がぬけ、感覚が自分のものでなくなった。

(くらくらとめがみえなくなりみみのなかできみのわるいほど)

くらくらと眼が見えなくなり耳の中できみのわるいほど

(ちのさわぐおとがした。ふしぎなことには、ぶつまのふすまがすこしあいていて、)

血の騒ぐ音がした。ふしぎなことには、仏間の襖が少しあいていて、

(そこからほのかなひかりがもれるのをおぼえているし、またいよが)

そこから仄かな光がもれるのを覚えているし、また伊代が

(おきてきはしまいかと、きがかりだったこともきおくにある。)

起きて来はしまいかと、気がかりだったことも記憶にある。

(しかしそのほかのことはみんなむちゅうだった。)

しかしそのほかのことはみんな夢中だった。

(きらきらとたさいなひかりのまう、ふかいたにそこへ、)

きらきらと多彩な光の舞う、深い谷底へ、

(あたまのほうからうしろざまにおちるような、)

頭のほうからうしろざまに落ちるような、

(こんとんとしたいようなかんかくのなかで、おなつはほとんどきをうしなっていた。)

混沌とした異様な感覚のなかで、おなつは殆ど気を喪っていた。

(よあけがちかいのだろう、きおんがにわかにさがったようで、)

夜明けが近いのだろう、気温がにわかに下ったようで、

(いくらかきあわせてもえりもとがさむく、ふとするとはげしくみがふるえた。)

幾らかき合せても衿元が寒く、ふとすると激しく身がふるえた。

(からだのなかはもえるようだ。)

体のなかは燃えるようだ。

(あたまもひのようにあつい、それでいてふるえるほどさむい。)

頭も火のように熱い、それでいてふるえるほど寒い。

(おなつはてゆびをひたいであたためながらてがみをかきおわりふうをすると、)

おなつは手指を額で温めながら手紙を書き終り封をすると、

(おわれるようなきもちでたちあがった。)

追われるような気持で立ちあがった。

(そうしてうらきどからぬけだすつもりで、しょうじをそっとあけるなり、)

そうして裏木戸からぬけ出すつもりで、障子をそっとあけるなり、

(ああとさけんでうしろへよろめいた。そこにせいのすけがいたのである、)

ああと叫んでうしろへよろめいた。そこに精之助がいたのである、

(ねまきのままでしんとたってこちらをみていた。)

寝衣のままでしんと立ってこちらを見ていた。

(「そこにあるのはおきてがみだね」かれはこういってこづくえのうえをみやった。)

「そこにあるのは置き手紙だね」彼はこう云って小机の上を見やった。

(「やいておしまい、もうふひつようだよ」おなつはいきがつまるようにおもった。)

「焼いておしまい、もう不必要だよ」 おなつは息が詰るように思った。

(したがこわばってなにもいうことができず、)

舌が硬ばってなにも云うことができず、

(ただあいてのめをみつめたままたちすくんでいた。)

ただ相手の眼を見つめたまま立竦んでいた。

(せいのすけはびしょうし、うなずきながら、いたわるようにいった。)

精之助は微笑し、頷きながら、いたわるように云った。

(「はなすことがある、こっちへおいで」)

「話すことがある、こっちへおいで」

(おなつはいしをうしなったもののように、あたまをたれてついていった。)

おなつは意志を失った者のように、頭を垂れてついていった。

(せいのすけはいまへはいり、そこへおすわりといって、)

精之助は居間へはいり、そこへお坐りと云って、

(じぶんのつくえからなにかとってきた。)

自分の机からなにか取って来た。

(そうしてさしむかいになると、もってきたかみをそこへだして、)

そうしてさし向いになると、持って来た紙をそこへ出して、

(やはりしずかにびしょうしながらいった。)

やはり静かに微笑しながら云った。

(「もうあのいえへかえるひつようはないんだ。)

「もうあの家へ帰る必要はないんだ。

(あっちのほうはおれがきれいにしてある。)

あっちのほうはおれがきれいにしてある。

(それをみて、みたらそれもやいてしまうがいい」)

それを見て、見たらそれも焼いてしまうがいい」

(おなつにはそのことばのいみがすぐにはわからなかった。)

おなつにはその言葉の意味がすぐにはわからなかった。

(そして、かれにうながされてそのかみをとってみて、)

そして、彼に促されてその紙を取って見て、

(それが「みよし」におけるじぶんのねんきしょうもんであることをしると、)

それが『みよし』における自分の年季証文であることを知ると、

(さっとあおくなり、おもわずさけびごえをあげた。)

さっと蒼くなり、思わず叫びごえをあげた。

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