山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 17

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映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第三話です。

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問題文

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(けいだいをひとまわりしたうえ、ずいしんもんからそとへでると、)

境内を一と廻りしたうえ、随身門(ずいしんもん)から外へ出ると、

(さはちはそばやをみつけて、おなかといっしょにはいり、)

佐八は蕎麦屋をみつけて、おなかといっしょにはいり、

(そのにかいへあがった。にかいにはきゃくがいず、おなかはあかごをおろして、)

その二階へあがった。二階には客がいず、おなかは赤児をおろして、

(ちちをふくませた。)

乳を含ませた。

(ーーおまえのこだね。)

ーーおまえの子だね。

(ーーええ、たきちっていうんです。)

ーーええ、太吉っていうんです。

(ーーもうたんじょうぐらいか。)

ーーもう誕生ぐらいか。

(ーーくがつめです。)

ーー九月めです。

(さはちはむねをえぐられるようにかんじた。)

佐八は胸を抉(えぐ)られるように感じた。

(「のみかなんかつっこまれて、ぐいぐいえぐられるようなきもちでした」)

「鑿(のみ)かなんか突込まれて、ぐいぐい抉られるような気持でした」

(さはちはちょっとまゆをしかめた、)

佐八はちょっと眉をしかめた、

(「ーーにくらしいとか、くやしいとかいうのではなく、)

「ーー憎らしいとか、くやしいとかいうのではなく、

(ただもういじらしくってあわれで、・・・・・・おかしなはなしです、)

ただもういじらしくって哀れで、……おかしなはなしです、

(じぶんのにょうぼうがたにんのこをうみ、めのまえでそのこにちちをのませているんですから、)

自分の女房が他人の子を産み、眼の前でその子に乳を飲ませているんですから、

(ほんとうならおもうぞんぶんやりこめたうえ、はんごろしにでもしてやるところでしょう、)

本当なら思う存分やりこめたうえ、半殺しにでもしてやるところでしょう、

(それがただもうあわれで、あわれで、もしできることなら、)

それがただもう哀れで、哀れで、もしできることなら、

(だきしめていっしょにないてやりたいようなきもちでした」)

抱き緊めていっしょに泣いてやりたいような気持でした」

(のぼるはふところしをだして、そっとさはちのひたいのあせをふいてやった。)

登はふところ紙を出して、そっと佐八の額の汗を拭いてやった。

(そのときはそれでわかれた。さはちはなにもきかず、おなかもなにもはなさなかった。)

そのときはそれで別れた。佐八はなにも訊かず、おなかもなにも話さなかった。

(そばがきたが、ふたりともはしをつけないままで、やがてたちあがり、)

蕎麦が来たが、二人とも箸をつけないままで、やがて立ちあがり、

など

(さはちがあかごをせおわせてやった。)

佐八が赤児を背負わせてやった。

(ーーしあわせにやってるんだね、とさはちがきいた。)

ーー仕合せにやってるんだね、と佐八が訊いた。

(ーーええ、とおなかはくちのなかでこたえた。)

ーーええ、とおなかは口の中で答えた。

(ーーもうあえないだろうな。)

ーーもう逢えないだろうな。

(おなかはこたえずに、せなかのこをゆすっていた。そばやをでたところでわかれ、)

おなかは答えずに、背中の子をゆすっていた。蕎麦屋を出たところで別れ、

(さはちがみおくっていると、まがりかどのところでおなかがふりかえり、)

佐八が見送っていると、曲り角のところでおなかが振返り、

(こっちをみておじぎをした。)

こっちを見ておじぎをした。

(「それからごろくにち、わたしはまったくしごとがてにつかず、)

「それから五六日、私はまったく仕事が手につかず、

(ひさしいことくちにしなかったさけをのんで、よってはね、)

久しいこと口にしなかった酒を飲んで、酔っては寝、

(よってはねるというしまつでした」さはちはそっとあたまをふった、)

酔っては寝るという始末でした」佐八はそっと頭を振った、

(「じぶんのからだのはんぶんがおなかのほうへとられて、)

「自分の躯の半分がおなかのほうへ取られて、

(おなかのやつといっしょにくるしんでいる、といったようなきもちでした、)

おなかのやつといっしょに苦しんでいる、といったような気持でした、

(どういうわけなのか、やっぱりにくいとかくやしいというきはすこしもおこらない、)

どういうわけなのか、やっぱり憎いとかくやしいという気は少しも起こらない、

(わかれたときのうしろすがた、ふりかえっておじぎをしたすがたがめにうかぶと、)

別れたときのうしろ姿、振返っておじぎをした姿が眼にうかぶと、

(ただもうあわれであわれで、いきがとまるようにくるしくなるんです」)

ただもう哀れで哀れで、息が止まるように苦しくなるんです」

(そしてあるひのゆうがた、むじなながやへおなかがたずねてきた。)

そして或る日の夕方、むじな長屋へおなかが訪ねて来た。

(さはちはよってねころんでいた。)

佐八は酔って寝ころんでいた。

(おなかはあかごをつれていず、うちへはいるとそのてでいりぐちのあまどをしめ、)

おなかは赤児を伴(つ)れていず、うちへはいるとその手で入口の雨戸を閉め、

(あがってきて、そっとさはちのそばへすわった。)

あがって来て、そっと佐八の側へ坐った。

(さはちはおなかだということにすぐかんづいた。)

佐八はおなかだということにすぐ感づいた。

(あまどをしめるおとでおなかだなとおもい、それがすこしもいがいでないことにきづいて、)

雨戸を閉める音でおなかだなと思い、それが少しも意外でないことに気づいて、

(かえっておどろいたくらいであった。)

却っておどろいたくらいであった。

(ーーくるまざかのりすけさんにきいてきました、とおなかはささやきこえでいった。)

ーー車坂の利助さんに訊いて来ました、とおなかは囁き声で云った。

(ーーああ、りすけにはいろいろせわになった。)

ーーああ、利助にはいろいろ世話になった。

(ーーそのはなしもききました、すみません、かんにんしてください。)

ーーその話も聞きました、済みません、かんにんして下さい。

(さはちはうめきごえのもれるのをおさえるために、ぜんしんのちからをふりしぼった。)

佐八は呻き声のもれるのを抑えるために、全身の力をふり絞った。

(かれはしずかにおきあがって、あんどんをひきよせた。すでにじこくでもあるし、)

彼は静かに起きあがって、行燈をひきよせた。すでに時刻でもあるし、

(おもてのあまどをしめたので、へやのなかはよるのようにくらかったのだ。)

表の雨戸を閉めたので、部屋の中は夜のように暗かったのだ。

(ーーどうかあかりをつけないでください。)

ーーどうか灯をつけないで下さい。

(おなかはそういってなきだした。)

おなかはそう云って泣きだした。

(ーーかんにんしてくださらないんですか。)

ーーかんにんして下さらないんですか。

(ーーわからない、とさはちはうめくようにいった。じぶんでもそこがわからない、)

ーーわからない、と佐八は呻くように云った。自分でもそこがわからない、

(けれども、いきていてくれてうれしかったとはおもうよ。)

けれども、生きていてくれてうれしかったとは思うよ。

(ーーわけをきいてくださいますか。)

ーーわけを聞いて下さいますか。

(ーーおまえがつらくなければな。)

ーーおまえがつらくなければな。

(おなかはちんもくした。)

おなかは沈黙した。

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