芥川龍之介 藪の中④ (終)

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(みこのくちをかりたるしりょうのものがたり)

【巫女の口を借りたる死霊の物語】

(ーーぬすびとはつまをてごめにすると、そこへこしをおろしたまま、いろいろつまを)

ーー盗人は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を

(なぐさめだした。おれはもちろんくちはきけない。からだもすぎのねにしばられている。が、おれは)

慰め出した。おれは勿論口は利けない。体も杉の根に縛られている。が、おれは

(そのあいだに、なんどもつまへめくばせをした。このおとこのいうことをまにうけるな、なにを)

その間に、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事を真に受けるな、何を

(いってもうそとおもえ、ーーおれはそんないみをつたえたいとおもった。しかしつまは)

云っても嘘と思え、ーーおれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は

(しょうぜんとささのらくようにすわったなり、じっとひざへめをやっている。それがどうもぬすびとの)

悄然と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の

(ことばに、ききいっているようにみえるではないか?おれはねたましさにみもだえを)

言葉に、聞き入っているように見えるではないか?おれは妬ましさに身悶えを

(した。が、ぬすびとはそれからそれへと、こうみょうにはなしをすすめている。いちどでもはだみを)

した。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を

(けがしたとなれば、おっととのなかもおりあうまい。そんなおっとにつれそっているより、)

汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、

(じぶんのつまになるきはないか?じぶんはいとしいとおもえばこそ、だいそれたまねも)

自分の妻になる気はないか?自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も

(はたらいたのだ、ーーぬすびとはとうとうだいたんにも、そういうはなしさえもちだした。ぬすびとに)

働いたのだ、ーー盗人はとうとう大胆にも、そう云う話さえ持ち出した。盗人に

(こういわれると、つまはうっとりとかおをもたげた。おれはまだあのときほど、)

こう云われると、妻はうっとりと顔を擡げた。おれはまだあの時ほど、

(うつくしいつまをみたことがない。しかしそのうつくしいつまは、げんざいしばられたおれをまえに、)

美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、

(なんとぬすびとにへんじをしたか?おれはちゅううにまよっていても、つまのへんじをおもいだすごとに)

何と盗人に返事をしたか?俺は中有に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに

(しんいにもえなかったためしはない。つまはたしかにこういった、)

瞋恚に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、

(ーー「ではどこへでもつれていってください。」(ながきちんもく))

ーー「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)

(つまのつみはそれだけではない。それだけならばこのやみのなかに、いまほどおれも)

妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇の中に、いまほどおれも

(くるしみはしまい。しかしつまはゆめのように、ぬすびとにてをとられながら、やぶのそとへ)

苦しみはしまい。しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ

(いこうとすると、たちまちがんしょくをうしなったなり、すぎのねのおれをゆびさした。)

行こうとすると、たちまち顔色を失ったなり、杉の根のおれを指さした。

(「あのひとをころしてください。わたしはあのひとがいきていては、あなたといっしょには)

「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一緒には

など

(いられません。」ーーつまはきがくるったように、なんどもこうさけびたてた。)

いられません。」ーー妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。

(「あのひとをころしてください。」ーーこのことばはあらしのように、いまでもとおいやみのそこへ、)

「あの人を殺して下さい。」ーーこの言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、

(まっさかさまにおれをふきおとそうとする。いちどでもこのくらいにくむべきことばが、)

まっ逆様におれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、

(にんげんのくちをでたことがあろうか?いちどでもこのくらいのろわしいことばが、にんげんの)

人間の口を出たことがあろうか?一度でもこのくらい呪わしい言葉が、人間の

(みみにふれたことがあろうか?いちどでもこのくらい、ーー(とつぜんほとばしるごときちょうしょう))

耳に触れた事があろうか?一度でもこのくらい、ーー(突然迸るごとき嘲笑)

(そのことばをきいたときは、ぬすびとさえいろをうしなってしまった。「あのひとをころして)

その言葉を聞いたときは、盗人さえ色を失ってしまった。「あの人を殺して

(ください。」ーーつまはそうさけびながら、ぬすびとのうでにすがっている。ぬすびとはじっとつまを)

下さい。」ーー妻はそう叫びながら、盗人の腕に縋っている。盗人はじっと妻を

(みたまま、ころすともころさぬともへんじをしない。ーーとおもうかおもわないうちに、つまは)

見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。ーーと思うか思わない内に、妻は

(たけのらくようのうえへ、ただひとけりにけたおされた。(ふたたびほとばしるごときちょうしょう)ぬすびとは)

竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒された。(再び迸るごとき嘲笑)盗人は

(しずかにりょううでをくむと、おれのすがたへめをやった。「あのおんなはどうするつもりだ?)

静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あの女はどうするつもりだ?

(ころすか、それともたすけてやるか?へんじはただうなずけばよい。ころすか?」ーーおれは)

殺すか、それとも助けてやるか?返事はただ頷けば好い。殺すか?」ーーおれは

(このことばだけでも、ぬすびとのつみはゆるしてやりたい。(ふたたび、ながきちんもく))

この言葉だけでも、盗人の罪は赦してやりたい。(再び、長き沈黙)

(つまはおれがためらううちに、なにかひとこえさけぶがはやいか、たちまちやぶのおくへはしりだした。)

妻は俺がためらう内に、何か一声叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。

(ぬすびともとっさにとびかかったが、これはそでさえとらえなかったらしい。おれはただ)

盗人も咄嗟に飛びかかったが、これは袖さえ捉えなかったらしい。おれはただ

(まぼろしのように、そういうけしきをながめていた。ぬすびとはつまがにげさったのち、たちや)

幻のように、そう云う景色を眺めていた。盗人は妻が逃げ去った後、太刀や

(ゆみやをとりあげると、いっかしょだけおれのなわをきった。「こんどはおれのみのうえだ。」)

弓矢を取り上げると、一箇所だけ俺の縄を切った。「今度はおれの身の上だ。」

(ーーおれはぬすびとがやぶのそとへすがたをかくしてしまうときに、こうつぶやいたのをおぼえている。)

ーーおれは盗人が藪の外へ姿を隠してしまう時に、こう呟いたのを覚えている。

(そのあとはどこもしずかだった。いや、まだだれかのなくこえがする。おれはなわを)

その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄を

(ときながら、じっとみみをすませてみた。が、そのこえもきがついてみれば、)

解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、

(おれじしんのないているこえだったではないか?(みたび、ながきちんもく))

おれ自身の泣いている声だったではないか?(三度、長き沈黙)

(おれはやっとすぎのねから、つかれはてたからだをおこした。おれのまえにはつまがおとした、)

おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、

(さすががひとつひかっている。おれはそれをてにとると、ひとつきにおれのむねへさした。)

小刀が一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺した。

(なにかなまぐさいかたまりがおれのくちへこみあげてくる。が、くるしみはすこしもない。ただむねが)

何か腥い塊がおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が

(つめたくなるといっそうあたりがしんとしてしまった。ああ、なんというしずかさだろう。)

冷たくなると一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。

(このやまかげのやぶのそらには、ことりいちわさえずりにこない。ただすぎやたけのうらに、)

この山陰の藪の空には、小鳥一羽囀りに来ない。ただ杉や竹の杪に、

(さびしいひかげがただよっている。ひかげが、ーーそれもしだいにうすれてくる。ーーもうすぎや)

寂しい日影が漂っている。日影が、ーーそれも次第に薄れて来る。ーーもう杉や

(たけもみえない。おれはそこにたおれたまま、ふかいしずかさにつつまれている。)

竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。

(そのときだれかしのびあしに、おれのそばへきたものがある。おれはそちらをみようと)

その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようと

(した。が、おれのまわりには、いつかうすやみがたちこめている。だれか、)

した。が、おれのまわりには、いつか薄闇が立ちこめている。誰か、

(ーーそのだれかはみえないてに、そっとむねのさすがをぬいた。どうじにおれのくちの)

ーーその誰かは見えない手に、そっと胸の小刀を抜いた。同時におれの口の

(なかには、もういちどちしおがあふれてくる。おれはそれぎりえいきゅうに、ちゅううのやみへ)

中には、もう一度血潮が溢れてくる。おれはそれぎり永久に、中有の闇へ

(しずんでしまった。)

沈んでしまった。

((たいしょうじゅうねんじゅうにがつ))

(大正十年十二月)

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