日本史:飛鳥時代2

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律令と官僚制、および文化は割愛。youtubeとかみてね

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(じゅうじつしたこっかたいせいをととのえたとうが7せいきなかばにこうくりへのしんこうをはじめると)

充実した国家体制を整えた唐が7世紀半ばに高句麗への侵攻を始めると、

(こくさいてききんちょうでしゅうへんしょこくはちゅうおうしゅうけんとこくないとういつのひつようにせまられた)

国際的緊張で周辺諸国は中央集権と国内統一の必要に迫られた。

(わではそがのいるかがうまやとおうのこやましろのおおえのおうをほろぼしてけんりょくしゅうちゅうをはかったが)

倭では蘇我入鹿が厩戸王の子、山背大兄王を滅ぼして権力集中を図ったが、

(なかのおおえのみこはそがのくらやまだのいしかわまろやなかとみのかまたりのきょうりょくをえて)

中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、

(おうぞくちゅうしんのちゅうおうしゅうけんをめざし645ねんにそがのえみしいるかをほろぼした)

王族中心の中央集権を目指し、645年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした。

(これをいっしのへんというそしてこうぎょくてんのうのじょういをうけておうぞくのかるのみこが)

これを乙巳の変という。そして皇極天皇の譲位を受けて、王族の軽皇子が

(こうとくてんのうとなりなかのおおえのみこをこうたいしあべのうちまろそがのくらやまだのいしかわまろを)

孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子、阿部内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂を

(さうだいじんなかとみのかまたりをうちつおみみんとたかむこのげんりをくにはかせとするしんせいけん)

左・右大臣、中臣鎌足を内臣、旻と高向玄理を国博士とする新政権

(がせいりつしおおきみきゅうをあすかからなにわにうつしてせいじかいかくをすすめた)

が成立し、大王宮を飛鳥から難波に移して政治改革を進めた。

(646ねんしょうがつにはかいしんのみことのりがだされごうぞくのたどころかきべをはいしして)

646年正月には「改新の詔」が出され、豪族の田荘・部曲を廃止して

(こうちこうみんせいへのいこうをめざすせいさくほうしんがしめされたぜんこくてきなじんみんでんちの)

公地公民制への移行を目指す政策方針が示された。全国的な人民・田地の

(ちょうさとういつてきぜいせいのしこうがめざされちほうぎょうせいそしきのこおりがかくちにせっち)

調査、統一的税制の施行が目指され、地方行政組織の「評」が各地に設置

(されるとともにちゅうおうのかんせいもせいびされてだいきぼななにわのみやがいとなまれた)

されるとともに、中央の官制も整備されて大規模な難波宮が営まれた。

(おうけんやなかのおおえのみこのけんりょくがきゅうそくにかくだいするなかでちゅうおうしゅうけんかがめざされ)

王権や中大兄皇子の権力が急速に拡大する中で、中央集権化が目指され、

(こうしたこうとくてんのうのじだいのしょかいかくはたいかかいしんといわれる)

こうした孝徳天皇の時代の諸改革は、大化改新と言われる。

(ちょうせんはんとうではとうとしらぎがむすんで660ねんにくだらを668ねんにはこうくりを)

朝鮮半島では、唐と新羅が結んで660年に百済を、668年には高句麗を

(ほろぼしたこうとくてんのうのぼつごあすかでそくいしたさいめいてんのうこうぎょくてんのうちょうそのもとで)

滅ぼした。孝徳天皇の没後飛鳥で即位した斉明天皇(皇極天皇重祚)のもとで、

(わはとうしらぎにたいしねづよいていこうをしめすきゅうくだらせいりょくによるくだらふっこうをしえん)

倭は唐・新羅に対し根強い抵抗を示す旧百済勢力による百済復興を支援

(するためたいぐんをはけんしたが663ねんにはくそんこうのたたかいでとうしらぎれんごうぐんにたいはい)

するため大軍を派遣したが、663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗。

(このあとしらぎがちょうせんはんとうのしはいけんをかくりつし676ねんにはんとうをとういつした)

この後、新羅が朝鮮半島の支配権を確立し、676年に半島を統一した。

など

(わでははくそんこうのはいせんをうけてぼうえいせいさくがすすめられ664ねんにはつしまいき)

倭では白村江の敗戦を受けて防衛政策が進められ、664年には対馬・壱岐・

(つくしにさきもりととぶひがおかれたまたくだらからのぼうめいきぞくのしどうかに)

筑紫に防人と烽が置かれた。また、百済からの亡命貴族の指導下に、

(きゅうしゅうのようちをまもるみずきやおおのじょうきいじょうがきずかれつしまからやまとにかけて)

九州の要地を守る水城や大野城・基肄城が築かれ、対馬から大和にかけて

(こだいちょうせんしきやまじろがきずかれたなかのおおえのみこは667ねんにみやこをおうみおおつのみやに)

古代朝鮮式山城が築かれた。中大兄皇子は667年に都を近江大津宮に

(うつしよくねんそくいしててんじてんのうとなり670ねんにはさいしょのこせきであるこうごねんじゃく)

移し、翌年即位して天智天皇となり、670年には最初の戸籍である庚午年籍

(をさくせいしたてんじてんのうがなくなるとよく672ねんにてんじてんのうのこでおうみちょうていを)

を作成した。天智天皇が亡くなると、翌672年に天智天皇の子で近江朝廷を

(ひきいるおおとものみことてんじてんのうのおとうとおおあまのみことのあいだでこういけいしょうをめぐるたたかい)

率いる大友皇子と天智天皇の弟大海人皇子との間で皇位継承をめぐる戦い

(であるじんしんのらんがおきたおおあまのみこはとうごくのみのにうつりとうごくごうぞくたちの)

である壬申の乱が起きた。大海人皇子は東国の美濃に移り東国豪族たちの

(ぐんじどういんにせいこうしておおとものみこをたおしよくねんあすかきよみはらのみやでそくいして)

軍事動員に成功して大友皇子を倒し、翌年飛鳥浄御原宮で即位して

(てんむてんのうとなったらんのけっかおうみちょうていがわについたゆうりょくちゅうおうごうぞくはしっけんし)

天武天皇となった。乱の結果、近江朝廷側についた有力中央豪族は失権し

(けんりょくをてにしたてんむてんのうをちゅうしんにちゅうおうしゅうけんたいせいのけいせいがすすんだ)

権力を手にした天武天皇を中心に中央集権体制の形成が進んだ。

(てんむてんのうは675ねんにごうぞくりょうゆうみんをやめかんじんのいかいやしょうしんせいどをさだめて)

天武天皇は675年に豪族領有民をやめ、官人の位階や昇進制度を定めて

(かんりょうせいのけいせいをすすめた684ねんにはやくさのかばねをさだめてごうぞくたちをてんのうを)

官僚制の形成を進めた。684年には八色の姓を定めて豪族たちを天皇を

(ちゅうしんとしたあたらしいみぶんちつじょにへんせいしたまたこっかたいせいのじゅうじつをはかり)

中心とした新しい身分秩序に編成した。また国家体制の充実を図り、

(ふほんせんえだぜにのちゅうぞうをおこないちゅうごくのとじょうせいにならったふじわらきょうのぞうえいを)

富本銭(枝銭)の鋳造を行い、中国の都城制に倣った藤原京の造営を

(すすめたがかんせいまえになくなったてんむてんのうのあとをついだこうごうのじとうてんのうは)

進めたが完成前に亡くなった。天武天皇の後を継いだ皇后の持統天皇は

(しょせいさくをひきつぎ689ねんにはあすかきよみはらりょうをしこうしよく690ねんには)

諸政策を引き継ぎ、689年には飛鳥浄御原令を施行し、翌690年には

(こういんねんじゃくをしこうしてみんしゅうのはあくをすすめたそして694ねんにはあすかから)

庚寅年籍を施行して民衆の把握を進めた。そして694年には飛鳥から

(じょうぼうせいによるほんかくてきなきゅうとふじわらきょうにせんとした)

条坊制による本格的な宮都藤原京に遷都した。

(701ねんにおさべしんのうやふじわらのふひとらによってたいほうりつりょうがかんせいりつはこんにちのけいほう)

701年に刑部親王や藤原不比等らによって大宝律令が完成。律は今日の刑法

(にあたりりょうはぎょうせいほうきにあたる718ねんにふじわらのふひとらによりまとめられた)

にあたり、令は行政法規にあたる。718年に藤原不比等らによりまとめられた

(ようろうりつりょうはたいほうりつりょうをおおきくかえたものではなく757ねんにしこうされた)

養老律令は、大宝律令を大きく変えたものではなく、757年に施行された。

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