ツルゲーネフ はつ恋 ⑪

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問題文

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(「まいだーのふさん」とれいじょうは、せのたかいせいねんにむかっていった。)

「マイダーノフさん」と令嬢は、背の高い青年に向って言った。

(これはやせこけたかおに、ちいさなめをしょぼつかせて、くろいかみのけをおそろしく)

これは痩せこけた顔に、小さな眼をしょぼつかせて、黒い髪のけをおそろしく

(ながくのばしたおとこである。--「あなたはしじんなんですから、きまえのいいとこを)

長く伸ばした男である。--「あなたは詩人なんですから、気前のいいとこを

(はっきして、あなたのふだをむっしゅー・ヴぉるでまーるにゆずってあげるべきだわ。)

発揮して、あなたの札をムッシュー・ヴォルデマールに譲って上げるべきだわ。

(するとこのかたのちゃんすはふたつになって、ひとつじゃなくなるんですもの」)

するとこの方のチャンスは二つになって、一つじゃなくなるんですもの」

(が、まいだーのふは、くびをふって、ちょうはつをさっとゆりあげた。)

が、マイダーノフは、首を振って、長髪をさっと揺り上げた。

(わたしはいちばんあとからてをぼうしのなかへいれて、つかんで、さてふだを)

わたしは一番あとから手を帽子の中へ入れて、つかんで、さて札を

(ひろげてみたが・・・ああ!とたんにふらふらっとしてしまった。)

ひろげてみたが・・・ああ!途端にふらふらっとしてしまった。

(みよ、そのふだには”きす”とかいてあるではないか!)

見よ、その札には”キス”と書いてあるではないか!

(「きす!」と、わたしはおもわずおおごえをあげた。「ぶらヴぉー!このひとあたったわ」)

「キス!」と、わたしは思わず大声を上げた。「ブラヴォー!この人当ったわ」

(と、れいじょうがすかさずひきとってーー「まあうれしい!」--そしていすをおりると、)

と、令嬢がすかさず引取ってーー「まあ嬉しい!」--そして椅子を下りると、

(なんともいえずはれやかなあまいかおつきで、じっとわたしのめをのぞきこんだので、)

なんともいえず晴れやかな甘い顔つきで、じっと私の眼をのぞきこんだので、

(わたしのしんぞうはわっとばかりおどりたった。)

わたしの心臓はワッとばかり踊り立った。

(「あなたはうれしくって?」と、かのじょはわたしにきいた。)

「あなたは嬉しくって?」と、彼女はわたしに訊いた。

(「ぼく?・・・」うまくしたがまわらなかった。「そのふだはぼくにうってくれたまえ」)

「僕?・・・」うまく舌が回らなかった。「その札は僕に売ってくれたまえ」

(と、とつぜんわたしのみみのすぐうえで、べろうぞーろふのがらがらしたこえがした。--)

と、突然わたしの耳のすぐ上で、ベロウゾーロフのがらがらした声がした。--

(「ひゃくるーぶるだすぜ」わたしがけいきへいのへんじに、ひじょうなふんがいのいちべつをくれたので)

「百ルーブル出すぜ」わたしが軽騎兵の返事に、非常な憤慨の一瞥をくれたので

(じないーだはてをたたくし、るーしんは「でかした!」とぜっきょうするさわぎだった。)

ジナイーダは手をたたくし、ルーシンは「でかした!」と絶叫する騒ぎだった。

(「それはそうと」と、るーしんはつづけた。--「わたしはしきぶかんとして、)

「それはそうと」と、ルーシンは続けた。--「わたしは式部官として、

(すべてがきていどおりおこなわれるようさいりょうせねばなりません。)

すべてが規定通り行われるよう宰領せねばなりません。

など

(むっしゅうー・ぼるでまーる、かたひざをおつきなさい。)

ムッシュウー・ボルデマール、片膝をおつきなさい。

(そういうきまりになっているのです」じないーだはわたしのまえにたつと、)

そういう決まりになっているのです」ジナイーダはわたしの前に立つと、

(わたしをいっそうよくみようとするかのようにくびをすこしよこにかしげ、いともそうちょうに)

わたしを一層よく見ようとするかのように首を少し横にかしげ、いとも荘重に

(かたてをさしのべた。わたしはめのなかがくらくなった。かたひざをつこうとしたが、)

片手を差し伸べた。わたしは眼の中が暗くなった。片膝をつこうとしたが、

(べったりりょうひざついてしまって、おそろしくぶきようにくちびるをじないーだのゆびに)

べったり両膝ついてしまって、おそろしく不器用に唇をジナイーダの指に

(ふれたので、むこうのつめでじぶんのはなさきに、かるいひっかききずをこしらえて)

触れたので、むこうの爪で自分の鼻さきに、かるい引っかき疵をこしらえて

(しまったほどだった。「よろしい!」とるーしんはさけんで、)

しまったほどだった。「よろしい!」とルーシンは叫んで、

(わたしをたすけおこした。)

わたしを助け起こした。

(ばっきんごっこはつづいていった。じないーだはわたしをじぶんのそばのせきにつかせた。)

罰金ごっこは続いていった。ジナイーダはわたしを自分のそばの席に着かせた。

(てをかえしなをかえ、じつにいろんなばっきんをかのじょはおもいついたものである!)

手を変え品を変え、実にいろんな罰金を彼女は思いついたものである!

(そのうちにかのじょは”りつぞう”をやってみせることになったがーーするとかのじょは)

そのうちに彼女は”立像”をやって見せることになったがーーすると彼女は

(じぶんのだいざに、ぶおとこのにるまーつきいをえらびだして、うつぶせにねるように)

自分の台座に、醜男のニルマーツキイを選び出して、うつ伏せに寝るように

(めいじたばかりか、かおをむねへたくしこませさえしたものである。)

命じたばかりか、顔を胸へたくし込ませさえしたものである。

(わらいごえはこやみもなしにつづいた。)

笑い声は小やみもなしに続いた。

(しかくしめんのじぬしやしきにおいたって、ひとりぼっちのきまじめなきょういくをうけてきた)

四角四面の地主屋敷に生い立って、一人ぼっちの生真面目な教育を受けてきた

(しょうねんのわたしは、こうしたらんちきさわぎや、ほとんどきょうぼうともいうべきぶえんりよな)

少年のわたしは、こうしたらんちき騒ぎや、ほとんど狂暴ともいうべき無遠慮な

(うかれきぶんや、みずしらずのれんちゅうとのへそのおきってはじめてのこうさいやの)

浮かれ気分や、見ず知らずのれんちゅうとの臍の緒切って初めての交際やの

(おかげで、たちまちあたまがかーっとなった。わたしはさけでものんだように)

お陰で、たちまち頭がカーッとなった。わたしは酒でも飲んだように

(てもなくよっぱらってしまった。わたしがほかのだれよりもおおきなこえで、)

手もなく酔っぱらってしまった。わたしがほかの誰よりも大きな声で、

(わらったり、しゃべったりしはじめたので、となりのへやにいたろうふじんまでが、)

笑ったり、喋ったりし始めたので、隣の部屋にいた老夫人までが、

(わざわざわたしをみにでてきたほどだった。ふじんは、そうだんごとのために)

わざわざわたしを見に出てきたほどだった。夫人は、相談ごとのために

(よびよせたいヴぇーるすきいもんあたりのこやくにんと、なにやらはなしこんで)

呼び寄せたイヴェールスキイ門あたりの小役人と、何やら話し込んで

(いたのである。しかしわたしは、すっかりもうこうふくかんによいしれていたので、)

いたのである。しかしわたしは、すっかりもう幸福感に酔いしれていたので、

(だれがれいしょうしようがだれがしろいめでにらもうが、げせわにいうとおり、)

誰が冷笑しようが誰が白い眼でにらもうが、下世話に言うとおり、

(どこふくかぜで、いちもんのかちもみとめなかった。)

どこ吹く風で、一文の価値も認めなかった。

(じないーだはあいかわらず、わたしをひいきにして、すんじもそばからはなさなかった。)

ジナイーダは相変わらず、私をひいきにして、寸時もそばから離さなかった。

(あるばっきんにあたったとき、わたしはかのじょとならんで、ひとつぎぬのぷらとーくに)

ある罰金に当たった時、わたしは彼女と並んで、ひとつ絹のプラトークに

(くるまるはめになったことがある。つまりわたしは、じぶんのひみつをかのじょに)

くるまる羽目になったことがある。つまりわたしは、自分の秘密を彼女に

(うちあけなければならなかったのであった。わすれもしない。わたしたちふたりのあたまが、)

打ち明けなければならなかったのであった。忘れもしない。私たち二人の頭が、

(とつぜんもやもやした、はんとうめいのにおやかなもやにつつまれたかとおもうと、そのもやのなかで、)

突然もやもやした、半透明の匂やかな靄に包まれたかと思うと、その靄の中で、

(ちかぢかとやわらかにかのじょのめがひかって、ひらたいくちびるがねつっぽくいきづき、はがだんだん)

近々と柔らかに彼女の眼が光って、ひらたい唇が熱っぽく息づき、歯がだんだん

(みえてきて、ほつれげがやけつくようにわたしのほおをくすぐった。)

見えてきて、ほつれ毛が焼けつくようにわたしの頬をくすぐった。

(わたしはだまっていた。かのじょはしんぴめいたずるそうなびしょうをうかべていたが、)

わたしは黙っていた。彼女は神秘めいた狡そうな微笑をうかべていたが、

(やがて、「ね、どうしたの?」とささやいた。わたしはあかくなって、)

やがて、「ね、どうしたの?」とささやいた。わたしは赤くなって、

(ふふとわらっただけで、かおをそむけ、じっといきをころしていた。)

ふふと笑っただけで、顔をそむけ、じっと息を殺していた。

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