有島武郎 或る女㊵

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(きむらはそのくらいなことでようこからてをひくようなはきはきしたきしょうのおとこでは)

木村はそのくらいな事で葉子から手を引くようなはきはきした気象の男では

(ない。これまでもずいぶんいろいろなうわさがみみにはいったはずなのに「ぼくは)

ない。これまでもずいぶんいろいろなうわさが耳にはいったはずなのに「僕は

(あのおんなのけっかんもじゃくてんもみんなしょうちしている。しせいじのあるのももとよりしって)

あの女の欠陥も弱点もみんな承知している。私生児のあるのももとより知って

(いる。ただぼくはくりすちゃんであるいじょう、なんとでもしてようこをすくいあげる。)

いる。ただ僕はクリスチャンである以上、なんとでもして葉子を救い上げる。

(すくわれたようこをそうぞうしてみたまえ。ぼくはそのときいちばんりそうてきな)

救われた葉子を想像してみたまえ。僕はその時いちばん理想的な

(betterhalfをもちうるとしんじている」といったことをきいている。)

better halfを持ちうると信じている」といった事を聞いている。

(とうほくじんのねんじりむっつりしたそのきしょうが、ようこにはだいいちがまんのしきれない)

東北人のねんじりむっつりしたその気象が、葉子には第一我慢のしきれない

(けんおのたねだったのだ。ようこはだまってみんなのいうことをきいているうちに、こうろくの)

嫌悪の種だったのだ。葉子は黙ってみんなのいう事を聞いているうちに、興録の

(ぐんりゃくがいちばんじっさいてきだとかんがえた。そしてなれなれしいちょうしでこうろくをみやり)

軍略がいちばん実際的だと考えた。そしてなれなれしい調子で興録を見やり

(ながら、「こうろくさん、そうおっしゃればわたしけびょうじゃないんですの。このあいだ)

ながら、「興録さん、そうおっしゃればわたし仮病じゃないんですの。この間

(じゅうからみていただこうかしらといくどかおもったんですけれども、あんまり)

じゅうから診ていただこうかしらと幾度か思ったんですけれども、あんまり

(おおげさらしいんでがまんしていたんですが、どういうもんでしょう・・・すこしは)

大げさらしいんで我慢していたんですが、どういうもんでしょう・・・少しは

(ふねにのるまえからでしたけれども・・・おなかのここがみょうにときどきいたむんですのよ」)

船に乗る前からでしたけれども・・・お腹のここが妙に時々痛むんですのよ」

(というと、しんだいにまがりこんだおとこはそれをききながらにやりにやりわらいはじめた。)

というと、寝台に曲がりこんだ男はそれを聞きながらにやりにやり笑い始めた。

(ようこはちょっとそのおとこをにらむようにしていっしょにわらった。「まあしおの)

葉子はちょっとその男をにらむようにして一緒に笑った。「まあ機(しお)の

(わるいときにこんなことをいうもんですから、いたいはらまでさぐられますわね・・・じゃ)

悪い時にこんな事をいうもんですから、痛い腹まで探られますわね・・・じゃ

(こうろくさんのちほどみていただけて?」じむちょうのそうだんというのはこんなたわいもない)

興録さん後ほど診ていただけて?」事務長の相談というのはこんなたわいもない

(ことですんでしまった。ふたりきりになってから、「ではわたしこれからほんとうの)

事で済んでしまった。二人きりになってから、「ではわたしこれからほんとうの

(びょうにんになりますからね」ようこはちょっとくらちのかおをつついて、そのくちびるに)

病人になりますからね」葉子はちょっと倉地の顔をつついて、その口びるに

(ふれた。そしてしやとるのしがいからおこるばいえんがとおくにぼんやりのぞまれるように)

触れた。そしてシヤトルの市街から起こる煤煙が遠くにぼんやり望まれるように

など

(なったので、ようこはじぶんのへやにかえった。そしてようふうのしろいねまきに)

なったので、葉子は自分の部屋に帰った。そして洋風の白い寝衣(ねまき)に

(きかえて、かみをながいあみさげにしてねどこにはいった。じょうだんの)

着かえて、髪を長い編み下げにして寝床にはいった。戯談(じょうだん)の

(ようにしてこうろくにびょうきのはなしをしたものの、ようこはじっさいかなりながいいぜんからしきゅうを)

ようにして興録に病気の話をしたものの、葉子は実際かなり長い以前から子宮を

(がいしているらしかった。こしをひやしたり、かんじょうがげきこうしたりしたあとでは、)

害しているらしかった。腰を冷やしたり、感情が激昂したりしたあとでは、

(きっとしゅうしゅくするようないたみをかふくぶにかんじていた。ふねにのったとうざは、)

きっと収縮するような痛みを下腹ぶに感じていた。船に乗った当座は、

(しばらくのあいだはわすれるようにこのふかいないたみからとおざかることができて、いくねんぶり)

しばらくの間は忘れるようにこの不快な痛みから遠ざかる事ができて、幾年ぶり

(かでもうしどころのないけんこうのよろこびをあじわったのだったが、ちかごろはまただんだん)

かで申し所のない健康のよろこびを味わったのだったが、近ごろはまただんだん

(いたみがはげしくなるようになってきていた。はんしんがまひしたり、あたまがきゅうにぼーっと)

痛みが激しくなるようになって来ていた。半身が麻痺したり、頭が急にぼーっと

(とおくなることもめずらしくなかった。ようこはねどこにはいってから、かるいいたみ)

遠くなることも珍しくなかった。葉子は寝床にはいってから、軽い疼(いた)み

(のあるところをそっとひらてでさすりながら、ふねがしやとるのはとばにつくときの)

のある所をそっと平手でさすりながら、船がシヤトルの波止場に着く時の

(ありさまをそうぞうしてみた。しておかなければならないことがかずかぎりなくある)

ありさまを想像してみた。しておかなければならない事が数かぎりなくある

(らしかったけれども、なにをしておくということもなかった。ただなんでもいい)

らしかったけれども、何をしておくという事もなかった。ただなんでもいい

(せっせとてあたりしだいしたくをしておかなければ、それだけのこころづくしをみせて)

せっせと手当たり次第したくをしておかなければ、それだけの心尽くしを見せて

(おかなければ、もくろみどおりしゅびがはこばないようにおもったので、いっぺんよこに)

置かなければ、目論見どおり首尾が運ばないように思ったので、一ぺん横に

(なったものをまたむくむくとおきあがった。まずきのうきたはでないるいが)

なったものをまたむくむくと起き上がった。まずきのう着た派手な衣類が

(そのままちらかっているのをたたんでとらんくのなかにしまいこんだ。ねるとき)

そのまま散らかっているのを畳んでトランクの中にしまい込んだ。臥(ね)る時

(まできていたきものは、わざとはなやかなながじゅばんやうらじがみえるようにえもんだけに)

まで着ていた着物は、わざとはなやかな長襦袢や裏地が見えるように衣紋竹に

(とおしてかべにかけた。じむちょうのおきわすれていったぱいぷやちょうぼのようなものは)

通して壁にかけた。事務長の置き忘れて行ったパイプや帳簿のようなものは

(ていねいにひきだしにかくした。ことうがきむらとじぶんとにあててかいたにつうのてがみを)

丁寧に抽き出しに隠した。古藤が木村と自分とにあてて書いた二通の手紙を

(とりだして、ことうがしておいたように、まくらのしたにさしこんだ。かがみのまえにはふたりの)

取り出して、古藤がしておいたように、枕の下に差しこんだ。鏡の前には二人の

(いもうとときむらとのしゃしんをかざった。それからだいじなことをわすれていたのにきがついて、)

妹と木村との写真を飾った。それから大事な事を忘れていたのに気がついて、

(ろうかごしにこうろくをよびだしてくすりびんやびょうしょうにっきをととのえるようにたのんだ。こうろくの)

廊下越しに興録を呼び出して薬びんや病床日記を調えるように頼んだ。興録の

(もってきたくすりびんからくすりをはんぶんがたたんつぼにすてた。にほんからきむらに)

持って来た薬びんから薬を半分がた痰壺(たんつぼ)に捨てた。日本から木村に

(もっていくようにたくされたしなじなをとらんくからとりわけた。そのなかからはこきょうを)

持って行くように託された品々をトランクから取り分けた。その中からは故郷を

(おもいださせるようないろいろなものがでてきた。においまでがにほんというものを)

思い出させるようないろいろな物が出て来た。香いまでが日本というものを

(ほのかにこころにふれさせた。ようこはせわしくはたらかしていたてをやすめて、)

ほのかに心に触れさせた。葉子は忙(せわ)しく働かしていた手を休めて、

(へやのまんなかにたってあたりをみまわしてみた。しぼんだはなたばがとりのけられて)

部屋のまん中に立ってあたりを見回して見た。しぼんだ花束が取りのけられて

(なくなっているばかりで、あとはよこはまをでたときのとおりのへやのすがたになって)

なくなっているばかりで、あとは横浜を出た時のとおりの部屋の姿になって

(いた。ふるいきおくがこうのようにしみこんだそれらのものをみると、ようこの)

いた。旧い記憶が香(こう)のようにしみこんだそれらの物を見ると、葉子の

(こころはわれにもなくふとぐらつきかけたが、なみだもさそわずにあわくきえていった。)

心はわれにもなくふとぐらつきかけたが、涙もさそわずに淡く消えて行った。

(ふぉくするできじゅうきのおとがかすかにひびいてくるだけで、ようこのへやはみょうにしずか)

フォクスルで起重機の音がかすかに響いて来るだけで、葉子の部屋は妙に静か

(だった。ようこのこころはかぜのないいけかぬまのおもてのようにただどんよりと)

だった。葉子の心は風のない池か沼の面(おもて)のようにただどんよりと

(よどんでいた。からだはなんのわけもなくだるくものうかった。しょくどうの)

よどんでいた。からだはなんのわけもなくだるく物懶(ものう)かった。食堂の

(とけいがひきしまったおとでさんじをうった。それをあいずのようにきてきがすさまじく)

時計が引きしまった音で三時を打った。それを相図のように汽笛がすさまじく

(なりひびいた。みなとにはいったあいずをしているのだなとおもった。とおもうといままでにぶく)

鳴り響いた。港にはいった相図をしているのだなと思った。と思うと今まで鈍く

(みゃくうつようにみえていたむねがきゅうにはげしくさわぎうごきだした。それがようこのおもいも)

脈打つように見えていた胸が急に激しく騒ぎ動き出した。それが葉子の思いも

(もうけぬほうこうにうごきだした。もうこのながいふなたびもおわったのだ。じゅうしごのときから)

設けぬ方向に動き出した。もうこの長い船旅も終わったのだ。十四五の時から

(しんぶんきしゃになるしゅぎょうのためにきたいきたいとおもっていたべいこくについたのだ。)

新聞記者になる修業のために来たい来たいと思っていた米国に着いたのだ。

(きたいとはおもいながらほんとうにこようとはゆめにもおもわなかったべいこくについた)

来たいとは思いながらほんとうに来ようとは夢にも思わなかった米国に着いた

(のだ。それだけのことでようこのこころはもうしみじみとしたものになっていた。きむらは)

のだ。それだけの事で葉子の心はもうしみじみとしたものになっていた。木村は

(くるうようなこころをしいておししずめながら、ふねのつくのをふとうにたってなみだぐみつつ)

狂うような心をしいて押ししずめながら、船の着くのを埠頭に立って涙ぐみつつ

(まっているだろう。そうおもいながらようこのめはきむらやふたりのいもうとのしゃしんのほうに)

待っているだろう。そう思いながら葉子の目は木村や二人の妹の写真のほうに

(さまよっていった。それとならべてしゃしんをかざっておくこともできないさだこのこと)

さまよって行った。それとならべて写真を飾っておく事もできない定子の事

(までが、あわれぶかくおもいやられた。せいかつのほしょうをしてくれるちちおやもなく、ひざに)

までが、哀れ深く思いやられた。生活の保障をしてくれる父親もなく、膝に

(だきあげてあいぶしてやるははおやにもはぐれたあのこはいまいけのはたのさびしいこいえで)

抱き上げて愛撫してやる母親にもはぐれたあの子は今池の端のさびしい小家で

(なにをしているのだろう。わらっているかとそうぞうしてみるのもかなしかった。ないて)

何をしているのだろう。笑っているかと想像してみるのも悲しかった。泣いて

(いるかとそうぞうしてみるのもあわれだった。そしてむねのなかがきゅうにわくわくと)

いるかと想像してみるのもあわれだった。そして胸の中が急にわくわくと

(ふさがってきて、せきとめるひまもなくなみだがはらはらとながれでた。ようこはおおいそぎで)

ふさがって来て、せきとめる暇もなく涙がはらはらと流れ出た。葉子は大急ぎで

(しんだいのそばにかけよって、まくらもとにおいといたはんけちをひろいあげてめがしらに)

寝台のそばに駆けよって、枕もとにおいといたハンケチを拾い上げて目がしらに

(おしあてた。すなおなかんしょうてきななみだがただわけもなくあとからあとからながれた。)

押しあてた。素直な感傷的な涙がただわけもなくあとからあとから流れた。

(このふいのかんじょうのうらぎりにはしかしひきいれられるようなゆうわくがあった。)

この不意の感情の裏切りにはしかし引き入れられるような誘惑があった。

(だんだんそこふかくしずんでかなしくなっていくそのおもい、なんのおもいともさだめかねた)

だんだん底深く沈んで哀しくなって行くその思い、なんの思いとも定めかねた

(ふかい、わびしい、かなしいおもい。うらみやいかりをきれいにぬぐいさって、あきらめ)

深い、わびしい、悲しい思い。恨みや怒りをきれいにぬぐい去って、あきらめ

(きったようにすべてのものをただしみじみとなつかしくみせるそのおもい。)

きったようにすべてのものをただしみじみとなつかしく見せるその思い。

(いとしいさだこ、いとしいいもうと、いとしいふぼ、・・・なぜこんななつかしいよに)

いとしい定子、いとしい妹、いとしい父母、・・・なぜこんななつかしい世に

(じぶんのこころだけがこうかなしくひとりぼっちなのだろう。そんなかんじのれいさいなだんぺんが)

自分の心だけがこう哀しく一人ぼっちなのだろう。そんな感じの零細な断片が

(つぎつぎになみだにぬれてむねをひきしめながらとおりすぎた。ようこはしらずしらず)

つぎつぎに涙にぬれて胸を引きしめながら通り過ぎた。葉子は知らず知らず

(それらのかんじにしっかりすがりつこうとしたけれどもむえきだった。)

それらの感じにしっかりすがり付こうとしたけれども無益だった。

(かんじとかんじとのあいだには、ほしのないよるのような、なみのないうみのような、くらいふかい)

感じと感じとの間には、星のない夜のような、波のない海のような、暗い深い

(はてしのないひあいが、あいぞうのすべてをただいっしょくにそめなして、)

際涯(はてし)のない悲哀が、愛憎のすべてをただ一色に染めなして、

(どんよりとひろがっていた。せいをのろうよりもしがねがわれるようなおもいが、せまるでも)

どんよりと広がっていた。生を呪うよりも死が願われるような思いが、逼るでも

(なくはなれるでもなく、ようこのこころにまつわりついた。ようこははてはまくらにかおを)

なく離れるでもなく、葉子の心にまつわり付いた。葉子は果ては枕に顔を

(ふせて、ほんとうにじぶんのためにさめざめとなきつづけた。こうしてこはんときも)

伏せて、ほんとうに自分のためにさめざめと泣き続けた。こうして小半時も

(たったとき、ふねはさんばしにつながれたとみえて、にどめのきてきがなりはためいた。)

たった時、船は桟橋につながれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。

(ようこはものうげにあたまをもたげてみた。はんけちはなみだのためにしぼるほど)

葉子は物懶(ものう)げに頭をもたげて見た。ハンケチは涙のためにしぼるほど

(ぬれてまるまっていた。すいふらがつなぎづなをうけたりやったりするおとと、びょうくぎを)

ぬれて丸まっていた。水夫らが繋ぎ綱を受けたりやったりする音と、鋲釘を

(うちつけたくつでかんぱんをあるきまわるおととがいりみだれて、あたまのうえはさながらかじばの)

打ちつけた靴で甲板を歩き回る音とが入り乱れて、頭の上はさながら火事場の

(ようなさわぎだった。ないてないてなきつくしたこどものようなぼんやりとした)

ような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽くした子供のようなぼんやりとした

(とりとめのないこころもちで、ようこはなにをおもうともなくそれをきいていた。ととつぜん)

取りとめのない心持ちで、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。と突然

(とがいでじむちょうの、「ここがおへやです」というこえがした。それがまるでかみなりか)

戸外で事務長の、「ここがお部屋です」という声がした。それがまるで雷か

(なにかのようにおそろしくきこえた。ようこはおもわずぎょっとなった。じゅんびをしておく)

何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっとなった。準備をしておく

(つもりでいながらなんのじゅんびもできていないこともおもった。いまのこころもちはへいきで)

つもりでいながらなんの準備もできていない事も思った。今の心持ちは平気で

(きむらにあえるこころもちではなかった。おろおろしながらたちはあがったが、)

木村に会える心持ちではなかった。おろおろしながら立ちは上がったが、

(たちあがってもどうすることもできないのだとおもうと、おいつめられたざいにんの)

立ち上がってもどうする事もできないのだと思うと、追いつめられた罪人の

(ように、あたまのけをりょうてでおさえて、かみのけをむしりながら、しんだいのうえにがばと)

ように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがばと

(ふさってしまった。)

伏さってしまった。

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