戯作三昧(一)

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投稿者投稿者鳴きウサギ(鹿の声)いいね2お気に入り登録
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芥川龍之介

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問題文

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(いち)

(てんぽうにねんくがつのあるごぜんである。かんだどうぼうちょうのせんとうまつのゆでは、あさからあいかわらず)

天保二年九月のある午前である。神田同朋町の銭湯松の湯では、朝から相変らず

(きゃくがおおかった。しきていさんばがなんねんかまえにしゅっぱんしたこっけいぼんのなかで、「しんぎ、)

客が多かった。式亭三馬が何年か前に出版した滑稽本の中で、「神祇、

(しゃっきょう、こい、むじょう、みないりごみのうきよぶろ」といったこうけいは、いまもそのころと)

釈教、恋、無常、みないりごみの浮世風呂」といった光景は、今もそのころと

(かわりはない。ふろのなかでうたざいもんをうたっているかかあたばね、あがりゆでてぬぐいを)

変りはない。風呂の中で歌祭文を唄っている嚊たばね、上がり湯で手拭を

(しぼっているちょんまげほんだ、ほりもののせなかをながさせているまるびたいのおおいちょう、)

しぼっているちょん髷本多、文身の背中を流させている丸額の大銀杏、

(さっきからかおばかりあらっているよしべえやっこ、みずぶねのまえにこしをすえて、しきりに)

さっきから顔ばかり洗っている由兵衛奴、水槽の前に腰を据えて、しきりに

(みずをかぶっているぼうずあたま、たけのておけとやきもののきんぎょとで、よねんなくあそんでいる)

水をかぶっている坊主頭、竹の手桶と焼き物の金魚とで、余念なく遊んでいる

(あぶはちとんぼ、ーーせまいながしにはそういうしゅじゅざったなにんげんがいずれもぬれたからだを)

虻蜂蜻蛉、ーー狭い流しにはそういう種々雑多な人間がいずれも濡れた体を

(なめらかにひからせながら、もうもうとたちあがるゆけむりとまどからさすあさひのひかりとのなかに、)

滑らかに光らせながら、濛々と立ち上がる湯煙と窓からさす朝日の光との中に、

(もことしてうごいている。そのまたさわぎが、ひととおりでない。だいいちにゆをつかうおとや)

模糊として動いている。そのまた騒ぎが、一通りでない。第一に湯を使う音や

(おけをうごかすおとがする。それからはなしごえやうたのこえがする。さいごにときどきばんだいでならす)

桶を動かす音がする。それから話し声や唄の声がする。最後に時々番台で鳴らす

(ひょうしぎのおとがする。だからざくろぐちのうちそとは、すべてがまるでせんじょうのように)

拍子木の音がする。だから柘榴口の内外は、すべてがまるで戦場のように

(そうぞうしい。そこへのれんをくぐって、あきうどがくる。ものもらいがくる。)

騒々しい。そこへ暖簾をくぐって、商人が来る。物貰いが来る。

(きゃくのでいりはもちろんあった。そのこんざつのなかにーー)

客の出入りはもちろんあった。その混雑の中にーー

(つつましくすみへよって、そのこんざつのなかに、しずかにあかをおとしている、)

つつましく隅へ寄って、その混雑の中に、静かに垢を落している、

(ろくじゅうあまりのろうじんがひとりあった。としのころはろくじゅうをこしていよう。)

六十あまりの老人が一人あった。年のころは六十を越していよう。

(びんのけがみぐるしくきばんだうえに、めもすこしわるいらしい。が、やせてはいるものの)

鬢の毛が見苦しく黄ばんだ上に、眼も少し悪いらしい。が、痩せてはいるものの

(ほねぐみのしっかりした、むしろいかついというたいかくで、かわのたるんだてや)

骨組みのしっかりした、むしろいかついという体格で、皮のたるんだ手や

(あしにも、どこかまだろうねんにていこうするそこぢからがのこっている。これはかおでもおなじ)

足にも、どこかまだ老年に抵抗する底力が残っている。これは顔でも同じ

など

(ことで、かがくこつのはったほおのあたりや、ややおおきいくちのしゅういに、おうせいな)

ことで、下顎骨の張った頬のあたりや、やや大きい口の周囲に、旺盛な

(どうぶつてきせいりょくが、おそろしいひらめきをみせていることは、ほとんど)

動物的精力が、恐ろしいひらめきを見せていることは、ほとんど

(そうねんのむかしとかわりがない。)

壮年の昔と変りがない。

(ろうじんはていねいにじょうはんしんのあかをおとしてしまうと、とめおけのゆもあびずに、)

老人はていねいに上半身の垢を落してしまうと、止め桶の湯も浴びずに、

(こんどはかはんしんをあらいはじめた。が、くろいあかすりのかいきがなんどとなくうえを)

今度は下半身を洗いはじめた。が、黒い垢すりの甲斐絹が何度となく上を

(こすっても、あぶらけのぬけた、こじわのおおいひふからは、あかというほどのあかも)

こすっても、脂気の抜けた、小皺の多い皮膚からは、垢というほどの垢も

(でてこない。それがふとあきらしいさびしいきをおこさせたのであろう。ろうじんは)

出て来ない。それがふと秋らしい寂しい気を起させたのであろう。老人は

(かたかたのあしをあらったばかりで、きゅうにちからがぬけたようにてぬぐいのてをとめてしまった。)

片々の足を洗ったばかりで、急に力がぬけたように手拭の手を止めてしまった。

(そうして、にごったとめおけのゆに、あざやかにうつっているまどのそとのそらへめをおとした。)

そうして、濁った止め桶の湯に、鮮かに映っている窓の外の空へ眼を落した。

(そこにはまたあかいかきのみが、かわらやねのいっかくをしたにみながら、)

そこにはまた赤い柿の実が、瓦屋根の一角を下に見ながら、

(まばらにすいたえだをつづっている。)

疎らに透いた枝を綴っている。

(ろうじんのこころには、このとき「し」のかげがさしたのである。が、その「し」は、)

老人の心には、この時「死」の影がさしたのである。が、その「死」は、

(かつてかれをおどかしたそれのように、いまわしいなにものをもぞうしていない。)

かつて彼を脅かしたそれのように、いまわしい何物をも蔵していない。

(いわばこのおけのなかのそらのように、しずかながらしたわしい、やすらかなじゃくめつのいしきで)

いわばこの桶の中の空のように、静かながら慕わしい、安らかな寂滅の意識で

(あった。いっさいのじんろうをだっして、その「し」のなかにねむることができたならばーー)

あった。一切の塵労を脱して、その「死」の中に眠ることが出来たならばーー

(むしんのこどものようにゆめもなくねむることができたならば、どんなに)

無心の子供のように夢もなく眠ることが出来たならば、どんなに

(よろこばしいことであろう。じぶんはせいかつにつかれているばかりではない。)

悦ばしいことであろう。自分は生活に疲れているばかりではない。

(なんじゅうねんらい、たえまないそうさくのくるしみにも、つかれている。・・・・・・)

何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れている。……

(ろうじんはぶぜんとして、めをあげた。あたりではやはりにぎやかなだんしょうのこえにつれて、)

老人は憮然として、眼をあげた。あたりではやはり賑かな談笑の声につれて、

(おおぜいのはだかのにんげんが、めまぐるしくゆげのなかにうごいている。)

大ぜいの裸の人間が、目まぐるしく湯気の中に動いている。

(ざくろぐちのなかのうたざいもんにも、めりやすやよしこののこえがくわわった。)

柘榴口の中の歌祭文にも、めりやすやよしこのの声が加わった。

(ここにはもちろん、いまかれのこころにかげをおとしたゆうきゅうなもののすがたは、みじんもない。)

ここにはもちろん、今彼の心に影を落した悠久なものの姿は、微塵もない。

(「いや、せんせい、こりゃとんだところでおめにかかりますな。どうも)

「いや、先生、こりゃとんだところでお眼にかかりますな。どうも

(きょくていせんせいがあさゆにおいでになろうなんぞとはてまえゆめにもおもいませんでした。」)

曲亭先生が朝湯にお出でになろうなんぞとは手前夢にも思いませんでした。」

(ろうじんは、とつぜんこうよびかけるこえにおどろかされた。みるとかれのかたわらには、)

老人は、突然こう呼びかける声に驚かされた。見ると彼の傍には、

(けっしょくのいい、ちゅうぜいのほそいちょうが、とめおけをまえにひかえながら、)

血色のいい、中背の細銀杏が、止め桶を前に控えながら、

(ぬれてぬぐいをかたへかけて、げんきよくわらっている。これは)

濡れ手拭を肩へかけて、元気よく笑っている。これは

(ふろからでて、ちょうどあがりゆをつかおうとしたところらしい。)

風呂から出て、ちょうど上がり湯を使おうとしたところらしい。

(「あいかわらずごきげんでけっこうだね。」)

「相変らず御機嫌で結構だね。」

(ばきんたきざわさきちは、びしょうしながら、ややひにくにこうこたえた。)

馬琴滝沢瑣吉は、微笑しながら、やや皮肉にこう答えた。

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