谷崎潤一郎 痴人の愛 60

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね0お気に入り登録
プレイ回数427難易度(4.5) 6537打 長文
谷崎潤一郎の中編小説です
私のお気に入りです
順位 名前 スコア 称号 打鍵/秒 正誤率 時間(秒) 打鍵数 ミス 問題 日付
1 ヤス 6307 S 6.6 94.4% 974.1 6526 382 100 2024/06/15
2 pinchapo 6272 S 6.4 97.4% 1033.1 6657 177 100 2024/05/17
3 やまちやまちゃん 4552 C++ 4.6 97.3% 1383.3 6472 175 100 2024/05/28

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問題文

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(わたしとなおみとのあいだにはがらすのかべがたっていて、どんなにせっきんしたように)

私とナオミとの間にはガラスの壁が立っていて、どんなに接近したように

(みえても、じつはとうていこえることのできないへだたりがある。うっかりてだしを)

見えても、実は到底踰えることの出来ない隔たりがある。ウッカリ手出しを

(しようものならかならずそのかべにつきあたって、いくらじれてもかのじょのはだには)

しようものなら必ずその壁に突き当たって、いくら懊れても彼女の肌には

(ふれるわけにはいかないのです。ときにはなおみはひょいとそのかべを)

触れる訳には行かないのです。時にはナオミはヒョイとその壁を

(のけそうにするので、「おや、いいのかな」とおもったりしますが、)

除けそうにするので、「おや、いいのかな」と思ったりしますが、

(ちかよっていけばやはりもとどおりしまってしまいます。)

近寄って行けば矢張元通り締まってしまいます。

(「じょうじさん、あなたいいこね、ひとつせっぷんしてあげるわ」)

「譲治さん、あなた好い児ね、一つ接吻して上げるわ」

(と、かのじょはからかいはんぶんによくそんなことをいったものです。からかわれるとは)

と、彼女はからかい半分によくそんなことを云ったものです。からかわれるとは

(しっていながら、かのじょがくちびるをむけてくるのでわたしもそれをすうようにすると、)

知っていながら、彼女が唇を向けて来るので私もそれを吸うようにすると、

(あわやというときそのくちびるはにげてしまって、はっとにさんすんはなれたところから)

アワヤと云う時その唇は逃げてしまって、はッと二三寸離れた所から

(わたしのくちへいきをふっかけ、)

私の口へ息を吹っかけ、

(「これがともだちのせっぷんよ」)

「これが友達の接吻よ」

(と、そういってかのじょはにやりとわらいます。)

と、そう云って彼女はニヤリと笑います。

(この「ともだちのせっぷん」というふうがわりなあいさつのしかた、おんなのくちびるをすうかわりに、)

この「友達の接吻」と云う風変りな挨拶の仕方、女の唇を吸う代りに、

(いきをすうだけでまんぞくしなければならないところのふしぎなせっぷん、これは)

息を吸うだけで満足しなければならないところの不思議な接吻、これは

(そのあとしゅうかんのようになってしまって、わかれぎわなどに、)

その後習慣のようになってしまって、別れ際などに、

(「じゃさようなら、またくるわよ」)

「じゃ左様なら、又来るわよ」

(と、かのじょがくちびるをさしむけると、わたしはそのまえへかおをつきだして、あたかもきゅうにゅうきに)

と、彼女が唇をさし向けると、私はその前へ顔を突き出して、あたかも吸入器に

(むかったようにぽかんとくちをあきます。そのくちのなかへかのじょがはっといきをふきこむ、)

向ったようにポカンと口を開きます。その口の中へ彼女がはッと息を吹き込む、

(わたしがそれをすうっとふかく、めをつぶって、おいしそうにむねのそこにのみくだします。)

私がそれをすうッと深く、眼を潰って、おいしそうに胸の底に嚥み下します。

など

(かのじょのいきはしめりけをおびてなまあたたかく、にんげんのはいからでたとはおもえない、)

彼女の息は湿り気を帯びて生温かく、人間の肺から出たとは思えない、

(あまいはなのようなかおりがします。かのじょはわたしをまよわせるように、そっとくちびるへ)

甘い花のような薫りがします。彼女は私を迷わせるように、そっと唇へ

(こうすいをぬっていたのだそうですが、そういうしかけがしてあることを)

香水を塗っていたのだそうですが、そう云う仕掛けがしてあることを

(むろんそのころはしりませんでした。わたしはこう、かのじょのようなようふになると、)

無論その頃は知りませんでした。私はこう、彼女のような妖婦になると、

(ないぞうまでもふつうのおんなとちがっているのじゃないかしらん、だからかのじょの)

内蔵までも普通の女と違っているのじゃないか知らん、だから彼女の

(たいないをとおって、そのこうこうにふくまれたくうきは、こんななまめかしいにおいがするのじゃ)

体内を通って、その口腔に含まれた空気は、こんななまめかしい匂がするのじゃ

(ないかしらん、と、よくそうおもいおもいしました。)

ないか知らん、と、よくそう思い思いしました。

(わたしのあたまはこうしてしだいにわくらんされ、かのじょのおもうぞんぶんにかきむしられていきました。)

私の頭はこうして次第に惑乱され、彼女の思う存分に掻き挘られて行きました。

(わたしはいまでは、せいしきなけっこんでなければいやだの、てだまにとられるだけではこまるのと、)

私は今では、正式な結婚でなければ厭だの、手玉に取られるだけでは困るのと、

(もうそんなことをいっているよゆうはなくなりました。いや、しょうじきをいうと)

もうそんなことを云っている余裕はなくなりました。いや、正直を云うと

(こうなることははじめからわかっていたはずなので、もしほんとうにかのじょのゆうわくを)

こうなることは始めから分っていた筈なので、若しほんとうに彼女の誘惑を

(おそれるなら、つきあわなければいいものを、かのじょのしんいをさぐるためだとか、)

恐れるなら、附き合わなければいいものを、彼女の真意を探るためだとか、

(ゆうりなきかいをうかがうためだとかいったのは、じぶんでじぶんをあざむこうとするこうじつに)

有利な機会を窺うためだとか云ったのは、自分で自分を欺こうとする口実に

(すぎなかったのです。わたしはゆうわくがこわいこわいといいながら、ほんねをはけば)

過ぎなかったのです。私は誘惑が恐い恐いと云いながら、本音を吐けば

(そのゆうわくをこころまちにしていたのです。ところがかのじょはいつまでたっても)

その誘惑を心待ちにしていたのです。ところが彼女はいつまで立っても

(そのつまらないともだちごっこをくりかえすばかりで、けっしてそれいじょうは)

そのつまらない友達ごッこを繰り返すばかりで、決してそれ以上は

(ゆうわくしません。これはかのじょがいやがうえにもわたしをじらすけいりゃくだろう、じらして)

誘惑しません。これは彼女がいやが上にも私を懊らす計略だろう、懊らして

(じらしぬいて、「じぶんはよし」とみたころにとつぜん「ともだち」のかめんをぬぎ、とくいの)

懊らし抜いて、「時分はよし」と見た頃に突然「友達」の仮面を脱ぎ、得意の

(まのてをのばすであろう、いまにかのじょはきっとてをだす、ださないですますおんなでは)

魔の手を伸ばすであろう、今に彼女はきっと手を出す、出さないで済ます女では

(ない、こっちはせいぜいかのじょのけいりゃくにのせられてやって「ちん/ちん」といえば)

ない、此方はせいぜい彼女の計略に載せられてやって「ちん/ちん」と云えば

(「ちん/ちん」をする、「おあずけ」といえば「おあずけ」をする、なんでもかのじょの)

「ちん/ちん」をする、「お預け」と云えば「お預け」をする、何でも彼女の

(ちゅうもんどおりにげいとうをやっていれば、しまいにはえものにありつけるだろうと、)

注文通りに芸当をやっていれば、しまいには獲物に有りつけるだろうと、

(まいにちまいにち、はなをうごめかしていましたが、わたしのよそうはよういにじつげんされそうも)

毎日々々、鼻をうごめかしていましたが、私の予想は容易に実現されそうも

(なく、きょうはいよいよかめんをぬぐか、あしたはまのてがとびだすかとおもっても、)

なく、今日はいよいよ仮面を脱ぐか、明日は魔の手が飛び出すかと思っても、

(そのひになるとききいっぱつというところでするりとにげられてしまうのです。)

その日になると危機一髪と云うところでスルリと逃げられてしまうのです。

(そうなるとわたしは、こんどはほんとうにじれだしました。「おれはこのとおりまちかねて)

そうなると私は、今度はほんとうに懊れ出しました。「己はこの通り待ちかねて

(いるんだ、ゆうわくするならはやくしてくれ」といわぬばかりに、からだじゅうにすきを)

いるんだ、誘惑するなら早くしてくれ」と云わぬばかりに、体中に隙を

(みせたり、じゃくてんをさらけだしたりして、はてはこっちからあべこべにさそいかけたり)

見せたり、弱点をさらけ出したりして、果ては此方からあべこべに誘いかけたり

(しました。しかしかのじょはいっこうとりあげてくれないで、)

しました。しかし彼女は一向取り上げてくれないで、

(「なによじょうじさん!それじゃやくそくがちがうじゃないの」)

「何よ譲治さん!それじゃ約束が違うじゃないの」

(と、こどもをたしなめるようなめつきで、わたしをしかりつけるのです。)

と、子供をたしなめるような眼つきで、私を叱りつけるのです。

(「やくそくなんかどうだっていい、おれはもう・・・・・・・・・」)

「約束なんかどうだっていい、己はもう・・・・・・・・・」

(「だめ、だめ!あたしたちはおともだちよ!」)

「駄目、駄目!あたしたちはお友達よ!」

(「ねえ、なおみ、・・・・・・・・・そんなことをいわないで、)

「ねえ、ナオミ、・・・・・・・・・そんなことを云わないで、

(・・・・・・・・・おねがいだから、・・・・・・・・・」)

・・・・・・・・・お願いだから、・・・・・・・・・」

(「まあ、うるさいわね!だめだったら!・・・・・・・・・さ、そのかわり)

「まあ、うるさいわね!駄目だったら!・・・・・・・・・さ、その代り

(きっすしてあげるわ」)

キッスして上げるわ」

(そしてかのじょは、れいのはっといういきをあびせて、)

そして彼女は、例のはッと云う息を浴びせて、

(「ね、いいでしょ?これでがまんしなけりゃだめよ、これだけだってともだちいじょうかも)

「ね、いいでしょ?これで我慢しなけりゃ駄目よ、これだけだって友達以上かも

(しれないけれど、じょうじさんだからとくべつにしてあげるんだわ」)

知れないけれど、譲治さんだから特別にして上げるんだわ」

(が、この「とくべつ」なあいぶのしゅだんは、かえってわたしのしんけいをいじょうにしげきするちからは)

が、この「特別」な愛撫の手段は、却って私の神経を異常に刺激する力は

(あっても、けっしてしずめてはくれません。)

あっても、決して静めてはくれません。

(「ちくしょう!きょうもだめだったか」)

「畜生!今日も駄目だったか」

(と、わたしはますますいらだってきます。かのじょがふいとかぜのようにでていって)

と、私はますます苛立って来ます。彼女がふいと風のように出て行って

(しまうと、しばらくのあいだはなにごともてにつかず、じぶんでじぶんにはらをたてて、おりに)

しまうと、暫くの間は何事も手に著かず、自分で自分に腹を立てて、檻に

(いれられたもうじゅうのごとくへやのなかをうろうろしながら、そこらじゅうのものを)

入れられた猛獣の如く部屋の中をウロウロしながら、そこらじゅうの物を

(やっつあたりにたたきつけたり、やぶいたりします。)

八つ中りに叩きつけたり、破いたりします。

(わたしはじつに、このきちがいじみた、おとこのひすてりーとでもいうべきほっさになやまされた)

私は実に、この気違いじみた、男のヒステリーとでも云うべき発作に悩まされた

(ものですが、かのじょのくるのがまいにちであるので、ほっさのほうもきまっていちにちに)

ものですが、彼女の来るのが毎日であるので、発作の方も極まって一日に

(いっぺんずつはおこるのでした。おまけにわたしのひすてりーはふつうのそれとせいしつがちがい、)

一遍ずつは起るのでした。おまけに私のヒステリーは普通のそれと性質が違い、

(ほっさがやんでしまっても、あとでけろりときがかるくなりはしませんでした。むしろ)

発作が止んでしまっても、後でケロリと気が軽くなりはしませんでした。寧ろ

(きぶんがおちついてくると、こんどはまえよりもいっそうめいりょうに、いっそうしつように、なおみの)

気分が落ち着いて来ると、今度は前よりも一層明瞭に、一層執拗に、ナオミの

(にくたいのこまごましたぶぶんがじーっとおもいだされました。きがえをしたときにちょいと)

肉体の細々した部分がじーッと思い出されました。着換えをした時にちょいと

(きもののすそからもれたあしであるとか、いきをふっかけてくれたときについにさんすんそばまで)

着物の裾から洩れた足であるとか、息を吹っかけてくれた時につい二三寸傍まで

(よってきたくちびるであるとか、そういうものがそれらをじっさいにみせてくれたときより、)

寄って来た唇であるとか、そう云うものがそれらを実際に見せてくれた時より、

(かえってあとになってひとしおまざまざとめのまえにうかび、そのくちびるやあしのせんをつたわって)

却って後になって一と入まざまざと眼の前に浮かび、その唇や足の線を伝わって

(しだいにくうそうをひろげていくと、ふしぎやじっさいにはみえなかったぶぶんまでも、)

次第に空想をひろげて行くと、不思議や実際には見えなかった部分までも、

(あたかもたねいたをげんぞうするようにだんだんとみえだして、ついにはまったくだいりせきの)

あたかも種板を現像するようにだんだんと見え出して、遂には全く大理石の

(ヴぃなすのぞうにもにたものが、こころのやみのそこにこつぜんとすがたをあらわすのです。わたしのあたまは)

ヴィナスの像にも似たものが、心の闇の底に忽然と姿を現すのです。私の頭は

(びろうどのとばりでかこまれたぶたいであって、そこに「なおみ」というひとりのじょゆうが)

天鵞絨の帷で囲まれた舞台であって、そこに「ナオミ」と云う一人の女優が

(とうじょうします。はっぽうからそそがれるぶたいのしょうめいはまっくらななかにゆらいでいるかのじょの)

登場します。八方から注がれる舞台の照明は真暗な中に揺らいでいる彼女の

(しろいからだだけを、かっきりとつよいえんこうをもってつつみます。わたしがいっしんに)

白い体だけを、カッキリと強い円光を以て包みます。私が一心に

(みつめていると、かのじょのはだにもえるひかりはいよいよあかるさをましてくる、ときには)

見詰めていると、彼女の肌に燃える光りはいよいよ明るさを増して来る、時には

(わたしのまゆをやきそうにせまってくる。かつどうしゃしんの「おおうつし」のように、ぶぶんぶぶんが)

私の眉を灼きそうに迫って来る。活動写真の「大映し」のように、部分々々が

(ひじょうにあざやかにかくだいされる、・・・・・・・・・そのげんえいがじっかんをもってわたしの)

非常に鮮やかに拡大される、・・・・・・・・・その幻影が実感を以て私の

(かんのうをおどかすていどは、ほんものとすこしもかわりはなく、ものたりないのは)

官能を脅かす程度は、本物と少しも変りはなく、物足りないのは

(てでふれることができないといういってんだけで、そのほかのてんではほんものいじょうに)

手で触れることが出来ないと云う一点だけで、その他の点では本物以上に

(いきいきとしている。あんまりそれをみつめると、わたしはしまいにぐらぐらと)

生き生きとしている。あんまりそれを視詰めると、私はしまいにグラグラと

(めまいがするようなここちをおぼえて、からだじゅうのちがいちどにかあっとかおのほうへ)

眩暈がするような心地を覚えて、体中の血が一度にかあッと顔の方へ

(のぼってきて、ひとりでにどうきがはげしくなります。するとふたたびひすてりーのほっさが)

上って来て、ひとりでに動機が激しくなります。すると再びヒステリーの発作が

(たって、いすをけとばしたり、かーてんをひきちぎったり、かびんをぶっこわしたり)

起って、椅子を蹴飛ばしたり、カーテンを引きちぎったり、花瓶を打っ壊したり

(します。わたしのもうそうはひましにきょうぼうになっていき、めをつぶりさえすればいつでも)

します。私の妄想は日増しに狂暴になって行き、眼を潰りさえすればいつでも

(くらいまぶたのかげになおみがいました。わたしはよく、かのじょのかぐわしいいきのにおいを)

暗い眼瞼の蔭にナオミがいました。私はよく、彼女の芳わしい息の匂を

(おもいだして、こくうにむかってくちをあけ、はっとそのへんのくうきをすいました。おうらいを)

想い出して、虚空に向って口を開け、はッとその辺の空気を吸いました。往来を

(あるいているときでも、へやにちっきょしているときでも、かのじょのくちびるがこいしくなると、わたしは)

歩いている時でも、部屋に蟄居している時でも、彼女の唇が恋しくなると、私は

(いきなりてんをあおいで、はっはっとやりました。わたしのめにはいたるところになおみのあかい)

いきなり天を仰いで、はッはッとやりました。私の眼には到る所にナオミの紅い

(くちびるがみえ、そこらじゅうにあるくうきというくうきが、みんななおみのいぶきで)

唇が見え、そこらじゅうにある空気と云う空気が、みんなナオミのいぶきで

(あるかとおもわれました。つまりなおみはてんちのあいだにじゅうまんして、わたしをとりまき、)

あるかと思われました。つまりナオミは天地の間に充満して、私を取り巻き、

(わたしをくるしめ、わたしのうめきをききながら、それをわらってながめているあくりょうのような)

私を苦しめ、私の呻きを聞きながら、それを笑って眺めている悪霊のような

(ものでした。)

ものでした。

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