君は「最後の晩餐」を知っているか

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1 A5 7687 7.8 98.5% 688.9 5374 78 100 2024/12/19
2 ドクターイエロー 5657 A 6.1 92.8% 886.1 5429 416 100 2024/12/10
3 シルバーホーン 4163 C 4.2 97.4% 1278.8 5470 146 100 2024/10/24

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問題文

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(いたりあのてんさいがかというと、だれをおもいうかべるだろう。)

イタリアの天才画家というと、誰を思い浮かべるだろう。

(「はる(らぷりまヴぇーら)」や「ヴぃーなすのたんじょう」で)

「春(ラ・プリマヴェーラ)」や「ヴィーナスの誕生」で

(ゆうめいなぼってぃちぇりだろうか。それともちょうこくかであった)

有名なボッティチェリだろうか。それとも彫刻家であった

(みけらんじぇろか。じゅうよんせいきからじゅうろくせいきのいたりあで)

ミケランジェロか。十四世紀から十六世紀のイタリアで

(るねさんすびじゅつがはなひらいたじだい、いろいろなてんさいがいた。)

ルネサンス美術が花開いた時代、いろいろな天才がいた。

(しかし、だれもがいちばんにあげるのは、やはり)

しかし、誰もが一番に挙げるのは、やはり

(れおなるどだヴぃんちではないだろうか。)

レオナルド・ダ・ヴィンチではないだろうか。

(「もなりざ」や「さいごのばんさん」など、れおなるどのえは、)

「モナ・リザ」や「最後の晩餐」など、レオナルドの絵は、

(それまでのかいがとはちがう、まったくあたらしいものだった。)

それまでの絵画とは違う、全く新しいものだった。

(かれは、じんたいのかがくである「かいぼうがく」や、くうかんのかがくである「えんきんほう」、)

彼は、人体の科学である「解剖学」や、空間の科学である「遠近法」、

(それにひかりのかがくである「めいあんほう」などをけんきゅうし、あたらしいかいがをうみだしたのだ。)

それに光の科学である「明暗法」などを研究し、新しい絵画を生み出したのだ。

(「かがくがうみだしたあたらしいげいじゅつ」などというと、)

「科学が生み出した新しい芸術」などというと、

(どこかむずかしいとおもうかもしれない。しかし、いたりあにいって「さいごのばんさん」)

どこか難しいと思うかもしれない。しかし、イタリアに行って「最後の晩餐」

(のまえにたったら、どうおもうだろうか。わたしは、このえをみたとき、)

の前に立ったら、どう思うだろうか。私は、この絵を見たとき、

(なぜか「かっこいい」とおもった。それがめいがというものなのか。)

なぜか「かっこいい」と思った。それが名画というものなのか。

(すばらしいえのまえにたつと、りくつではなく、まずしょうげきがやってくる。)

素晴らしい絵の前に立つと、理屈ではなく、まず衝撃がやってくる。

(それから、じっくりとぶんせきする。)

それから、じっくりと分析する。

(ぶんせきもまた、めいがをあじわうたのしみのひとつである。)

分析もまた、名画を味わう楽しみの一つである。

(「さいごのばんさん」は、いたりあのきたのまち、みらのにある。)

「最後の晩餐」は、イタリアの北の町、ミラノにある。

(さんたまりあでっれぐらつぃえしゅうどういんのしょくどうのへきがとして、)

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として、

など

(じゅうごせいきまつにえがかれた。たかさよんてんにめーとる、)

十五世紀末に描かれた。高さ四・二メートル、

(はばきゅうてんいちめーとるもあるきょだいなえだ。)

幅九・一メートルもある巨大な絵だ。

(まずめにはいるのは、しろいてーぶるくろすのかかったしょくたく、)

まず目に入るのは、白いテーブルクロスのかかった食卓、

(そしてしょくたくのむこうにいるじゅうさんにんのおとこ。まるでしばいのまくがひらいて、)

そして食卓の向こうにいる十三人の男。まるで芝居の幕が開いて、

(ぶたいのうえでどらまがはじまったかのようだ。)

舞台の上でドラマが始まったかのようだ。

(つくえのうえには、ぱんやさかなのりょうりがのったさら、それにのみもののはいったこっぷがある。)

机の上には、パンや魚の料理が載った皿、それに飲み物の入ったコップがある。

(しょくじのこうけいらしいが、だれもいんしょくをしていない。あるおとこはりょうてをひろげ、)

食事の光景らしいが、誰も飲食をしていない。ある男は両手を広げ、

(べつのおとこはしせんをちゅうおうのじんぶつにむけている。)

別の男は視線を中央の人物に向けている。

(なぜ、だれもしょくじをしていないのか。それにおちつきはらったちゅうおうのじんぶつと、)

なぜ、誰も食事をしていないのか。それに落ち着き払った中央の人物と、

(そのまわりでどうようしているおとこたちはだれなのか。)

その周りで動揺している男たちは誰なのか。

(まずは、そんなふうにえを「よむ」ことからぶんせきをはじめるのもよい。)

まずは、そんな風に絵を「読む」ことから分析を始めるのもよい。

(じんぶつは、さんにんずつのぐるーぷとちゅうおうのじんぶつというふうに)

人物は、三人ずつのグループと中央の人物という風に

(わけてみることもできる。ちゅうおうのじんぶつがなにかいっている。)

分けて見ることもできる。中央の人物が何か言っている。

(そのことばが、ひとびとのどうようをさそい、ざわめきがひろがる。)

その言葉が、人々の動揺を誘い、ざわめきが広がる。

(しずかなすいめんにこいしをなげるとまるいすいもんがひろがるように、となりのじんぶつへ、)

静かな水面に小石を投げると丸い水紋が広がるように、隣の人物へ、

(さらにとなりのじんぶつへと、どうようがつたわる。なにかが、おこっている。)

さらに隣の人物へと、動揺が伝わる。何かが、起こっている。

(このえのじんぶつのこうずから、そんなことがかんじられる。)

この絵の人物の構図から、そんなことが感じられる。

(ちゅうおうにいるのがきりすとである。かれは、でしのひとりにうらぎられ、)

中央にいるのがキリストである。彼は、弟子の一人に裏切られ、

(やがてはりつけになる。ここにえがかれているばめんは、うらぎりがある、)

やがて磔になる。ここに描かれている場面は、裏切りがある、

(というよげんをみみにしたでしたちがおどろき、ざわめいているところだ。)

という予言を耳にした弟子たちが驚き、ざわめいているところだ。

(あした、きりすとはたっけいになる。だから、これが「さいごのばんさん」なのだ。)

明日、キリストは磔刑になる。だから、これが「最後の晩餐」なのだ。

(でしたちのどうようは、てのぽーずにもあらわれている。)

弟子たちの動揺は、手のポーズにも表れている。

(たくさんのてがえがかれているが、ためしに、そのひとつひとつのぽーずを)

たくさんの手が描かれているが、試しに、その一つ一つのポーズを

(きみもまねてみよう。てのぽーずはこころのうごきをあらわすが、)

君も真似てみよう。手のポーズは心の動きを表すが、

(ここにはいろいろなてがあり、いろいろなこころのうごきがある。)

ここにはいろいろな手があり、いろいろな心の動きがある。

(おどろき、しつい、いかり、あきらめ・・・・・・。まるでてのぽーずのみほんちょうである。)

驚き、失意、怒り、諦め……。まるで手のポーズの見本帳である。

(それは、てにたくされたこころのうごきのみほんちょうでもある。)

それは、手に託された心の動きの見本帳でもある。

(れおなるどは、どうしてこんなにもうまく、)

レオナルドは、どうしてこんなにもうまく、

(いろいろなてをえがくことができたのだろうか。)

いろいろな手を描くことが出来たのだろうか。

(じつは、かれはじんたいのかいぼうをとおしてこっかくやきんにくのけんきゅうをし、)

実は、彼は人体の解剖を通して骨格や筋肉の研究をし、

(ひとのからだがどのようなしくみでできているかをしりつくしていた。)

人の体がどのような仕組みでできているかを知り尽くしていた。

(だから、てだけでなくかおのひょうじょうやようぼうも、ひとりひとりのこころのないめんまでも)

だから、手だけでなく顔の表情や容貌も、一人一人の心の内面までも

(えぐるようにえがくことができた。)

えぐるように描くことが出来た。

(さらにちゅうもくしてほしいのは、ここにえがかれているしつないのかべやてんじょうだ。)

さらに注目してほしいのは、ここに描かれている室内の壁や天井だ。

(かべのたぴすりーやてんじょうのこうしもようをみてみよう。)

壁のタピスリーや天井の格子模様を見てみよう。

(かべがだんだんせまくなって、たぴすりーもおくにいくほどちいさくなる。)

壁がだんだん狭くなって、タピスリーも奥に行くほど小さくなる。

(これがえんきんほうだ。れおなるどは、かいがのえんきんほうをたんきゅうし、)

これが遠近法だ。レオナルドは、絵画の遠近法を探究し、

(それをこのえでかんせいさせた。このえには、とおくのものは)

それをこの絵で完成させた。この絵には、遠くのものは

(ちいさくみえるという、えんきんほうのげんりがつかわれている。)

小さく見えるという、遠近法の原理が使われている。

(しつないのくうかんを、とおくにいくにつれてちいさくえがくことで、)

室内の空間を、遠くにいくにつれて小さく描くことで、

(へやにおくゆきがかんじられるようになる。)

部屋に奥行きが感じられるようになる。

(えんきんほうには、さらにべつのこうかもある。かべのたぴすりーや)

遠近法には、さらに別の効果もある。壁のタピスリーや

(てんじょうのこうしなど、おくにむかってせばまっていくせんをのばしていくと、)

天井の格子など、奥に向かって狭まっていく線を延ばしていくと、

(そのせんはひとつのてんにあつまる。これをえんきんほうのしょうしつてんというが、)

その線は一つの点に集まる。これを遠近法の消失点というが、

(なんと、そのてんのいちがきりすとのひたいなのだ。これにより、)

なんと、その点の位置がキリストの額なのだ。これにより、

(えをみるひとのしせんはしぜんときりすとにあつまっていく。)

絵を見る人の視線は自然とキリストに集まっていく。

(このえのしゅじんこうは、きりすと。だれがみても、)

この絵の主人公は、キリスト。誰が見ても、

(そうおもわせるこうかがある。えんきんほうというかいがのぎほうが、)

そう思わせる効果がある。遠近法という絵画の技法が、

(そこにえがかれたじんぶつたちのものがたりを、どらまちっくにえんしゅつしている。)

そこに描かれた人物たちの物語を、ドラマチックに演出している。

(これは、えがかれたえがぐうぜんそうなったということではない。)

これは、描かれた絵が偶然そうなったということではない。

(れおなるどが、あきらかにけいさんをしてこのえをかいたのだ。)

レオナルドが、明らかに計算をしてこの絵を描いたのだ。

(そのしょうこに、きりすとのみぎのこめかみには、くぎのあなのあとがある。)

その証拠に、キリストの右のこめかみには、釘の穴の後がある。

(このくぎからいとをはって、あちこちにのばし、)

このくぎから糸を張って、あちこちに延ばし、

(がめんのこうずをきめていったのだ。まるでせっけいずのようなえともいえる。)

画面の構図を決めていったのだ。まるで設計図のような絵ともいえる。

(また、れおなるどは、ひかりのこうかもちみつにけいさんしていた。)

また、レオナルドは、光の効果も緻密に計算していた。

(えがかれたへやのしろいかべをみると、みぎがわにはひかりがあたり、)

描かれた部屋の白い壁を見ると、右側には光が当たり、

(ひだりがわはかげになっている。このへきがはしょくどうのかべにえがかれているが、)

左側は影になっている。この壁画は食堂の壁に描かれているが、

(えがかれたへやのめいあんは、しょくどうのまどからさしこむげんじつのひかりのほうこうと)

描かれた部屋の明暗は、食堂の窓から差し込む現実の光の方向と

(がっちしている。そのため、かべにかかれたへやは、あたかも)

合致している。そのため、壁に書かれた部屋は、あたかも

(ほんもののしょくどうのえんちょうにあるようにすらみえる。)

本物の食堂の延長にあるようにすら見える。

(このように、えんきんほうやひかりのめいあんのこうかをあわせてもちいることで、)

このように、遠近法や光の明暗の効果を合わせて用いることで、

(えにかかれているのがほんもののへやであるようにみえてくる。)

絵に描かれているのが本物の部屋であるように見えてくる。

(だから、かつてのしゅうどうしたちのように、こんなへやでしょくじをしたら、)

だから、かつての修道士たちのように、こんな部屋で食事をしたら、

(まるできりすとたちといっしょにばんさんをしているような)

まるでキリストたちといっしょに晩餐をしているような

(きもちになるにちがいない。)

気持ちになるにちがいない。

(かいぼうがく、えんきんほう、めいあんほう。そのようなかいがのかがくが、)

解剖学、遠近法、明暗法。そのような絵画の科学が、

(それまでだれもえがかなかったあたらしいえをうみだした。)

それまで誰も描かなかった新しい絵を生み出した。

(れおなるどがきわめたかいがのかがくと、そのあらゆるかのうせいを)

レオナルドが究めた絵画の科学と、そのあらゆる可能性を

(まのあたりにできること。これが、「さいごのばんさん」を)

目の当たりにできること。これが、「最後の晩餐」を

(「かっこいい。」とおもわせるひとつのよういんだろう。)

「かっこいい。」と思わせる一つの要因だろう。

(ただ、ざんねんなことに、このえはえがかれてからごひゃくねんもたって、)

ただ、残念なことに、この絵は描かれてから五百年もたって、

(いまではえのぐがはがれおち、ぼろぼろになってしまった。)

今では絵具が剥がれ落ち、ぼろぼろになってしまった。

(そこで、えのしゅうふくがおこなわれた。)

そこで、絵の修復が行われた。

(「さいごのばんさん」のしゅうふくがしゅうりょうしたのは)

「最後の晩餐」の修復が終了したのは

(せんきゅうひゃくきゅうじゅうきゅうねんごがつのことだ。それまでかびやほこりでうすよごれて、)

一九九九年五月のことだ。それまでかびやほこりで薄汚れて、

(くらいいんしょうのあったえから、あざやかなしきさいがよみがえった。)

暗い印象のあった絵から、鮮やかな色彩がよみがえった。

(しかし、えのこまかいところはわからない。れおなるどがえがいた)

しかし、絵の細かいところはわからない。レオナルドが描いた

(さいぶは、すでにはがれおちて、きえてなくなっていた。)

細部は、すでに剥がれ落ちて、消えてなくなっていた。

(しゅうふくのさぎょうは、あくまでよごれをおとすことと、)

修復の作業は、あくまで汚れを落とすことと、

(げんじょうのえをそのままにほごすることだけだ。)

現状の絵をそのままに保護することだけだ。

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