戦艦の歴史1 長門 前編
なお、すべてのシリーズにおいて自己満足で作っておりますので、このシリーズが伸び悩んだとしても知ったこっちゃありません!
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問題文
(1917ねん8がつ28にちはちはちかんたいけいかくのいっかくとして、くれぐんこうできこう)
1917年 8月28日 八八艦隊計画の一角として、呉軍港で起工
(ながとと、しまいかんであるむつ、いぎりすのねるそんとろどにー、)
長門と、姉妹艦である陸奥、イギリスのネルソンとロドニー、
(あめりかがっしゅうこくのころらど、めりーらんど、うぇすとばーじにあの)
アメリカ合衆国のコロラド、メリーランド、ウェストバージニアの
(ぜん7かんでびっぐせぶんとよばれるようになる)
全7艦でビッグセブンと呼ばれるようになる
(1924ねんくっせつえんとつのかいりょうがくわえられる。)
1924年 屈折煙突の改良が加えられる。
(1927ねん8がつ24にちけいじゅんにせきとくちくかんにせきとのしょうとつじけんがおきる)
1927年 8月24日 軽巡二隻と駆逐艦二隻との衝突事件が起きる
(のちにみほのせきじけんとよばれるようになる。)
のちに美保関事件と呼ばれるようになる。
(1934ねん~1936ねんむつとともにだいきぼかいそうがおこなわれる。)
1934年~1936年 陸奥とともに大規模改装が行われる。
(ぼいらーのかんそうとそうこうのついか、)
ボイラーの換装と装甲の追加、
(しゅほうとうのかいぞうやぎょらいはっしゃかんのてっきょなどがじっし)
主砲塔の改造や魚雷発射管の撤去などが実施
(りょうふなばたにばるじをもうけ、せんびもえんちょうされた。)
両舷にバルジを設け、船尾も延長された。
(ぜんたいてきにじゅうこうとなり、ぼうぎょのうりょくがこうじょうした。)
全体的に重厚となり、防御能力が向上した。
(しかし、たーびんがかんそうされずしゅつりょくがしんぞうじとたいさなかったため、)
しかし、タービンが換装されず出力が新造時と大差なかったため、
(そくりょくは25のっとにていかした。)
速力は25ノットに低下した。
(1937ねん8がつ21にちたどつこうをしゅっこうし、23にちまでさくせんこうどうをおこなう)
1937年 8月21日 多度津港を出港し、23日まで作戦行動を行う
(い1、い2、い3、い4、い5、い6、むつ、はるな、きりしま、いすずと)
伊1、伊2、伊3、伊4、伊5、伊6、陸奥、榛名、霧島、五十鈴と
(ともにこうどうした。)
ともに行動した。
(1942ねん6がつじょうじゅんみっどうぇーかいせんでは、しゅりょくとしてしゅつげきしたものの)
1942年6月上旬 ミッドウェー海戦では、主力として出撃したものの
(せんとうはおこなわなかった。)
戦闘は行わなかった。
(しゅりょくは、やまと、ながと、むつ、いせ、ひゅうが、ふそう、やましろ、せんだい、ちよだ)
主力は、大和、長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城、川内、千代田
(きたかみ、おおい、にっしん、ほかくちくかん21せき、ゆそうせん4せきとともにれんごうかんたいとして)
北上、大井、日進、ほか駆逐艦21隻、油槽船4隻とともに連合艦隊として
(しゅつげきした。)
出撃した。
(6がつ5にちながとはかんたいからはずされる。)
6月5日 長門は艦隊から外される。
(どうじつなぐもきどうぶたいはぜんめつ、)
同日南雲機動部隊は全滅、
(ながとはだい4かんたいとしてくうぼかがのせいぞんしゃをのせ、きこくした。)
長門は第4艦隊として空母加賀の生存者を乗せ、帰国した。
(8がつにはにっぽんでたいきというじきがつづいていた。)
8月には日本で待機という時期が続いていた。
(1943ねん6がつ8にちしまいかんであるむつが、やまと、おおよどなどのまえでばくちんした。)
1943年6月8日 姉妹艦である陸奥が、大和、大淀等の前で爆沈した。
(8がつながとは、とらっくはくちにてたいき、)
8月 長門は、トラック泊地にて待機、
(10がつにはとらっくじまからしゅつげきしたものの、さくせんはふはつにおわり、)
10月にはトラック島から出撃したものの、作戦は不発に終わり、
(とらっくしまへときこうした。)
トラック島へと帰港した。
(こうへんへとつづきます。)
後編へと続きます。