吉川英治 三国志 登園の巻1

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(ごかんのけんねいがんねんのころ。ひとりのたびびとがあった。)

後漢の建寧元年のころ。一人の旅人があった。

(こしに、いっけんをはいているほか、みなりはいたってみすぼらしいが、)

腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、

(まゆはひいで、くちはあかく、)

眉は秀いで、唇は紅く、

(とりわけそうめいそうなひとみや、ゆたかなほほをしていて、)

とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、

(つねにどこかにびしょうをふくみ、そうじていやしげなようすがなかった。)

つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。

(としのころはにじゅうし、ご。)

年の頃は二十四、五。

(くさむらのなかに、ぽつねんとすわって、ひざをかかえこんでいた。)

草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。

(ゆうきゅうとみずはいく。そよかぜはさわやかにびんをなでる。りょうしゅうのはちがつだ。)

悠久と水は行く――。微風は爽やかに鬢をなでる。涼秋の八月だ。

(そしてそこは、こうがのほとりのおうどそうのひくいきりぎしであった。)

そしてそこは、黄河の畔の――黄土層の低い断り岸であった。

(「おーい」だれかかわでよんだ。「そこのわかいものう。なにをみているんだい。)

「おーい」誰か河でよんだ。「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。

(いくらまっていても、そこはわたしぶねのつくところじゃないぞ」)

いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」

(ちいさなぎょせんからりょうしがいうのだった。)

小さな漁船から漁夫がいうのだった。

(せいねんはえくぼをおくって、)

青年は笑くぼを送って、

(「ありがとう」と、すこしあたまをさげた。)

「ありがとう」と、少し頭を下げた。

(ぎょせんは、かりゅうへながれさった。)

漁船は、下流へ流れ去った。

(けれどせいねんは、おなじところに、おなじすがたをしていた。)

けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。

(ひざをかかえてすわったままえんしんてきなめをうごかさなかった。)

膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。

(「おい、おい、たびのもの」)

「おい、おい、旅の者」

(こんどは、うしろをとおったにんげんがよびかけた。)

こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。

(きんそんのひゃくしょうであろう。ひとりはにわとりのあしをつかんでさげ、)

近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、

など

(ひとりはのうぐをかついでいた。)

ひとりは農具をかついでいた。

(「そんなところで、けさからなにをまっているんだね。)

「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。

(このごろは、こうきんぞくとかいうあくとがたちまわるからな。やくにんしゅうにあやしまれるぞよ」)

このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」

(せいねんは、ふりかえって、「はい、どうも」)

青年は、振りかえって、「はい、どうも」

(おとなしいえしゃくをかえした。)

おとなしい会釈をかえした。

(けれどなお、こしをあげようとはしなかった。)

けれどなお、腰を上げようとはしなかった。

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