ごちうさ考察文の細切れ

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投稿者投稿者ジョガマヤいいね1お気に入り登録
プレイ回数330難易度(4.5) 5436打 長文
ご注文はうさぎですか?の自作考察文の一部を改変して出題します。

関連タイピング

問題文

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(こいせんせいはかなりがりょくがたかい)

Koi先生はかなり画力が高い

(しゃじつとでふぉるめがこうじげんでちょうわしている)

写実とデフォルメが高次元で調和している

(いちまいえではこものやみず、がらすなどのしきさいがひじょうにゆたかできれい)

一枚絵では小物や水、ガラスなどの色彩が非常に豊かで綺麗

(きゃらえもかなりじょうたつしているのはめいはく)

キャラ絵もかなり上達しているのは明白

(きゃらだけじゃなく、こものやいしょうにもひじょうにきをつかっているとかんじた)

キャラだけじゃなく、小物や衣装にも非常に気を使っていると感じた

(ひとつのえにかくされたせっていやふくせん、うさぎなどのこまかいてん)

一つの絵に隠された設定や伏線、うさぎなどの細かい点

(ここあさんが、というたんじゅんなこうぞうだけではついにとらえられなくなった)

ココアさんが、という単純な構造だけではついに捉えられなくなった

(もかさんというここあさんにとってはかんしかんのようなそんざい)

モカさんというココアさんにとっては監視官のような存在

(あっというまにみんなをいもうとにし、「かふぇ」りょういきにしんにゅうした)

あっと言う間にみんなを妹にし、「カフェ」領域に侵入した

(あねとしてのたちばがあることをさまざまともかさんにみせつけた)

姉としての立場があることをさまざまとモカさんに見せつけた

(みんなをいもうとにしようとしたことでまほうをかけ、へんかをひきおこしていた)

みんなを妹にしようとしたことで魔法をかけ、変化を引き起こしていた

(ここあさんはまほうつかいである)

ココアさんは魔法使いである

(かぎをつかいちのちゃんのこころをひらいたひとでもある)

鍵を使いチノちゃんのココロを開いた人でもある

(もともと、ちのちゃんのかぎはこころのおくそこにねむっていた)

もともと、チノちゃんの鍵はココロの奥底に眠っていた

(りぜちゃん、まめちゃんと、ここあさんによってひきだされた)

リゼちゃん、マメちゃんと、ココアさんによって引き出された

(あくまでここあさんからあたえられたのではなくひきだされた)

あくまでココアさんから与えられたのではなく引き出された

(ここあさんのかぎとちのちゃんのかぎのいろがちがうことからもわかる)

ココアさんの鍵とチノちゃんの鍵の色が違うことからもわかる

(ちのちゃんはおじいちゃんっこであった)

チノちゃんはおじいちゃんっ子であった

(こみゅにけーしょんはかのうだが、すこしどじょうがことなる)

コミュニケーションは可能だが、少し土壌が異なる

(たにんをきょぜつしているふしはいっさいないので、たんじゅんなひとみしりではなかった)

他人を拒絶している節は一切ないので、単純な人見知りではなかった

など

(ちのちゃんはじりつしたそんざいとじぶんをにんしきしていて、たにんをたよらなかった)

チノちゃんは自立した存在と自分を認識していて、他人を頼らなかった

(かぎはなくならずにすんでいたのとどうじにこころのなかにおしこめられていた)

鍵は無くならずに済んでいたのと同時に心のなかに押し込められていた

(ぐうぜんのことば)

偶然の言葉

(いまのことばでうたうよ)

今の言葉で歌うよ

(さとうをいれてはみたがまだにがいまま)

砂糖を入れてはみたがまだ苦いまま

(もちろんごちうさはひょうめんじょう、こいせんせいによってすべてひつぜんになっている)

もちろんごちうさは表面上、Koi先生によってすべて必然になっている

(せいかくにはこいせんせいがきめたほんしつによってみちびかれているのがいまのごちうさ)

正確にはKoi先生が決めた本質によって導かれているのが今のごちうさ

(かみがぶつりほうそくをあたえて、そのあとはかってにしんこうしているようにみえる)

神が物理法則を与えて、その後は勝手に進行しているように見える

(いまのせんせいはかんそくしゃてきなそくめんがひじょうにつよい)

今の先生は観測者的な側面が非常に強い

(ごちうさというきゅうめんのなかにはいるとそこにはここあさんたちが「いきて」いる)

ごちうさという球面の中に入るとそこにはココアさんたちが「生きて」いる

(せんせいのいとがみえるひょうめんはかんそくできない)

先生の意図が見える表面は観測できない

(せんせいはさいしょにごちうさにぐうぜんにみえるできごとをおこしてみなさんをであわせた)

先生は最初にごちうさに偶然に見える出来事を起こしてみなさんを出会わせた

(おかわりしてなれれば、せかいはいずれかふぇになる)

おかわりして慣れれば、セカイはいずれカフェになる

(ごちうさをぐうぜんでできあがったさくひん、なまのにちじょうにみせようとした)

ごちうさを偶然で出来上がった作品、生の日常に見せようとした

(だんだんとほんしつにしたがわせていくと、いっぽんのみちにしゅうそくしていくけっかになる)

段々と本質に従わせていくと、一本の道に収束していく結果になる

(ありすは「ふしぎのくにのありす」のしゅじんこうかつそうぞうしゅ)

アリスは「不思議の国のアリス」の主人公かつ創造主

(ぐうぜんのようにみえていたであいがじつはうんめいだったのではないかときがつく)

偶然のように見えていた出会いが実は運命だったのではないかと気がつく

(これはぐうぜんをとおりこしてうんめいだよ!)

これは偶然を通り越して運命だよ!

(うんめいとはほんしつによってみちびかれたものでもある)

運命とは本質によって導かれたものでもある

(そのきになればどこかにある)

その気になればどこかにある

(せかいとまじわるうえでのふあんのそくめん)

セカイと交わる上での不安の側面

(みんながしゅじんこうで、ものがたりをしゅたいてきにつくっていくという「いきた」かたち)

みんなが主人公で、物語を主体的に作っていくという「生きた」かたち

(さきさんが、あのよからそうさしている)

サキさんが、あの世から操作している

(じぶんににたものをもったまほうつかいけんてじなしのここあさん)

自分に似たものを持った魔法使い兼手品師のココアさん

(ちのちゃんのせいちょうをのぞんだ)

チノちゃんの成長を望んだ

(たかひろさんがりぜちゃんやここあさんをいとしてばいととしておくりこんだ)

タカヒロさんがリゼちゃんやココアさんを意図してバイトとして送り込んだ

(ぎんのすぷーんをにゅうようじにおくるということはひじょうにこどもおもいであることをいみする)

銀のスプーンを乳幼児に送るということは非常に子供思いであることを意味する

(ひとさじのおひめさまものがたり(あいすくーむふぁんたじあ)をおもいだす)

一匙のお姫さま物語(アイスクリームファンタジア)を思い出す

(ぎんのすぷーんとはおそらくこーひーをかきまぜるためのものである)

銀のスプーンとはおそらくコーヒーをかき混ぜるためのものである

(おどるというのはおそらくかきまぜることのぎじんほうてきつかいかただ)

踊るというのはおそらくかき混ぜることの擬人法的使い方だ

(せかいをうけいれるとけつだんし「だいすき」をほうがんしたおもいがおたがいをゆうきづける)

セカイを受け入れると決断し「ダイスキ」を包含した想いがお互いを勇気づける

(しゅうごうし、たのしいたのしいきみになって、ゆめをかたるとそこはかふぇになってしまう)

集合し、楽しい楽しいキミになって、夢を語るとそこはカフェになってしまう

(すぷーんによってかのじょたちのりょういきにゆらぎがしょうじてせかいにであう)

スプーンによって彼女たちの領域にゆらぎが生じてセカイに出逢う

(よばれてみんなにごうりゅうすればなにもかもがすてきになるととれる)

呼ばれてみんなに合流すれば何もかもが素敵になるととれる

(おどりだしそうなみなさんがけいせいしたかふぇもはーとがおどりだしそうなものになる)

踊りだしそうなみなさんが形成したカフェもハートが踊りだしそうなものになる

(そのきになればどこかにある)

その気になればどこかにある

(「ぷりんせす」はしゅじんこうてきないみをないほうしている)

「プリンセス」は主人公的な意味を内包している

(ごちうさのぐんぞうげきせいをはっきりしめしている)

ごちうさの群像劇性をはっきり示している

(ぐうぜんによってものがたりがはじまり、みなさんがであいひとさじのえぴそーどがつむがれていく)

偶然によって物語が始まり、みなさんが出会い一匙のエピソードが紡がれていく

(うれしいきみになる)

嬉しいキミになる

(これらのぜんたいてきなまくろかいしゃくにいきょすると)

これらの全体的なマクロ解釈に依拠すると

(ぎんのすぷーんとはものがたりのなんらかのきょうかいせんをあやつる(はかいとそうぞう)ものである)

銀のスプーンとは物語の何らかの境界線を操る(破壊と創造)ものである

(ぐんぞうげきせいからさくしゃのみならずぷりんせすたちであるということがみちびける)

群像劇性から作者のみならずプリンセスたちであるということが導ける

(ぎんのすぷーんはこころのないがいどちらにあるのかがもんだいになる)

銀のスプーンはココロの内外どちらにあるのかが問題になる

(わたしはぎんのかぎとはたいしょうてきにうちにあるとおもう)

私は銀の鍵とは対照的に内にあると思う

(ぎんのかぎはそとにある「もっている」もの)

銀の鍵は外にある「持っている」もの

(たにんにたいしてそのひとじしんのへんかやせいちょう、たいがいせいなどのもめんととしてさようする)

他人に対してその人自身の変化や成長、対外性などのモメントとして作用する

(しゅたいてきなげんどうによりうんめいにつながるぐうぜんをひきおこすもめんととなる)

主体的な言動により運命につながる偶然を引き起こすモメントとなる

(ぼうけんのさいちゅうにふしぎにであう)

冒険の最中にフシギに出会う

(「とつぜん」「きゅうに」からにちじょうはせつなのそうわであることをそうきさせられる)

「突然」「急に」から日常は刹那の総和であることを想起させられる

(いまいっしゅんだけの「とくべつなにちじょう」をつみかさねるのがかのじょたちにとってのにちじょう)

今一瞬だけの「特別な日常」を積み重ねるのが彼女たちにとっての日常

(こんかいのばあいの「とくべつな」とはじかんじくじょうのいってんをしていするけいようしというそくめんももつ)

今回の場合の「特別な」とは時間軸上の一点を指定する形容詞という側面も持つ

(にちじょうとはつねにへんかするりゅうどうたい)

日常とは常に変化する流動体

(じかんじくのあるいってんをしめせばそれはしぜんにおんりー、すぺしゃるなものになる)

時間軸のある一点を示せばそれは自然にオンリー、スペシャルなものになる

(じかんからにちじょうへのしゃぞうはたんしゃである)

時間から日常への写像は単射である

(おせっかいとかんしゃのわ)

おせっかいと感謝の輪

(「おねえちゃんになる」というとういつてきかつふへんてきなもくひょうにうらうちされていた)

「お姉ちゃんになる」という統一的かつ普遍的な目標に裏打ちされていた

(ちのちゃんもここあさんどうようにまほうつかいになりかけている)

チノちゃんもココアさん同様に魔法使いになりかけている

(ここあさんのなかでは「おねえちゃん」というたちばはとくべつなものたりうる)

ココアさんの中では「お姉ちゃん」という立場は特別なもの足り得る

(じぶんたちがせかいというみちなるばしょをかふぇというきちなるばしょにかえていく)

自分たちがセカイという未知なる場所をカフェという既知なる場所に変えていく

(じぶんたちがへんようしたことによってかふぇになっていく)

自分たちが変容したことによってカフェになっていく

(しぜんにじぶんたちがかわり、しぜんとせかいもかふぇになる)

自然に自分たちが変わり、自然とセカイもカフェになる

(かしにふくめられたおもいはごちうさというにちじょう(すとーりー)すべてにつうずる)

歌詞に含められた想いはごちうさという日常(ストーリー)すべてに通ずる

(「しあわせのけしき」はいままでとおなじわきあいあいとしたふんいきのにちじょうとかていする)

「しあわせの景色」は今までと同じ和気あいあいとした雰囲気の日常と仮定する

(「ゆげ」とはみらいへのふあんのようなものがぐげんかしてもやをかけるといういみ)

「湯気」とは未来への不安のようなものが具現化してモヤをかけるという意味

(これはこーひーにからめてかんがえるうえでもしぜん)

これはコーヒーにからめて考える上でも自然

(やはりあらたなせかいとかいこうするのはゆうきがいるし、きたいとふあんがいりまじる)

やはり新たなセカイと邂逅するのは勇気が要るし、期待と不安が入り混じる

(「せかい」というみちなるりょういきがあらわれ、じょうしきとなったみるくでごまかそうとする)

「セカイ」という未知なる領域が現れ、常識となったミルクで誤魔化そうとする

(ふしぎなゆめのせかいにはいままでのじょうしきがつうようしない)

不思議な夢のセカイにはいままでの常識が通用しない

(ぽっとは「これはゆめだ」とわらう)

ポットは「これは夢だ」と笑う

(ぽっとはかのじょたちがどこでもかふぇにできることをしっているかのようだ)

ポットは彼女たちがどこでもカフェにできることを知っているかのようだ

(いままでのあにめごちうさにはなかったあたらしいがいねんがでてくる)

いままでのアニメごちうさには無かった新しい概念が出てくる

(まさにみなさんがあらたなぼうけんにふみだすいっぽ)

まさにみなさんが新たな冒険に踏み出す一歩

(「はじまりのおわり」はせかいをかふぇにしていくこと、みるくにそめられること)

「始まりの終わり」はセカイをカフェにしていくこと、ミルクに染められること

(げんじつにないげんそうである)

現実に無い幻想である

(にちじょうにとけこんだぼうけん)

日常に溶け込んだ冒険

(かしのもじどおりふしぎのくにはけっしてとおくにあるわけではない)

歌詞の文字通り不思議の国は決して遠くにあるわけではない

(おもったよりもちかくにある)

思ったよりも近くにある

(ごちうさはにちじょうとぼうけんたんがいったいとなっているものがたり)

ごちうさは日常と冒険譚が一体となっている物語

(みんなといっしょならどこでもだいぼうけん)

みんなと一緒ならどこでも大冒険

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