『伝習録』格言集〈現代語訳〉1
行動の儒学、陽明学の始祖「王陽明」教えです。
陽明学は日本において維新の志士の行動哲学でも有りました。
維新の志士の情熱的な行動に思いを馳せてタイピングするのも面白いかもしれません。
なるべく平易な現代語でふんわり翻訳しています。
詳しくは大家の翻訳書を御覧ください。
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問題文
(はんせいというものはこころのやまいをなおすくすりでもある。)
反省というものは心の病を治す薬でもある。
(しかし、しんにだいじなのは「あやまちをあらためる」ということだ。)
しかし、真に大事なのは「過ちを改める」ということだ。
(もしこうかいにとらわれてしまっているだけなら、)
もし後悔に囚われてしまっているだけなら、
(そのくすりがもとでべつのやまいにかかってしまうだろう。)
その薬が元で別の病にかかってしまうだろう。
(せいざしせいしんをやしなおうとしていても、)
静坐し精神を養おうとしていても、
(いざことがおこればこころはがいぶつのちからでかきみだされてしまうだろう。)
いざ事が起これば心は外物の力でかき乱されてしまうだろう。
(にんげんのこころはせいざによってきたえれるようなものでない。)
人間の心は静坐によって鍛えれるようなものでない。
(ひとはつねにじっさいのことにあたりつつ、こころをねりあげるどりょくをしなければならない。)
人は常に実際の事に当たりつつ、心を練り上げる努力をしなければならない。
(そうすることによって、つよいこころがかくりつしていくものだ。)
そうすることによって、強い心が確立していくものだ。
(こころのたんれんというものは、いっしんいったいするのもとうぜんである。)
心の鍛錬というものは、一進一退するのも当然である。
(ひとからのきよほうへんにかかわらず、つねにしよくをとりのぞくどりょくをすることだ。)
人からの毀誉褒貶に関わらず、常に私欲を取り除く努力をすることだ。
(そしてにんげんがほんらいもっているりょうちにしたがっていきるこころがけをおこたらなければ、)
そして人間が本来持っている良知に従って生きる心掛けを怠らなければ、
(かならずつよいせいしんをかくりつできるようになる。)
必ず強い精神を確立できるようになる。
(そもそもよのなかにぜんあくのはんだんがもともとあるわけではなく、)
そもそも世の中に善悪の判断がもともとあるわけではなく、
(ひとはそのなかにいるわけでもない。)
人はその中にいる訳でもない。
(ひとのこころのほんたいというものはむぜんむあくである。)
人の心の本体というものは無善無悪である。
(そのこんとんのなかからやむにやまれずほとばしるものこそがしんのぜんなのである。)
その混沌の中から止むに止まれずほとばしるものこそが真の善なのである。
(じしんにりょうちがあるのならば、そのりょうちはたにんにもある。みなおなじなのだ。)
自身に良知があるのならば、その良知は他人にもある。皆同じなのだ。
(てんちはばんぶつをいったいのものとみて、)
天地は万物を一体のものと見て、
(よのものすべてをきょうだいおやこしんぞくのようにおもい、おしえみちびきそしてやしなう。)
世のもの全てを兄弟親子親族のように思い、教え導きそして養う。
(よのものすべては、じぶんとはべつのものでもなく、またことなるものでもないのだ。)
世のもの全ては、自分とは別のものでもなく、また異なるものでもないのだ。
(よのなかはじしん、たしゃすべてをほうかつしていったいとなすものなのである。)
世の中は自身、他者全てを包括して一体となすものなのである。
(ことがうまくいかないことをうれうのは、)
事がうまくいかないことを憂うのは、
(ちいやめいよ、そんとくやりえきのよくにとらわれてしまって、)
地位や名誉、損得や利益の欲に囚われてしまって、
(にんげんがほんらいもっているりょうちがくもってしまっているからなのだ。)
人間が本来持っている良知が曇ってしまっているからなのだ。
(だいじなのは、じぶんにつごうのよいけっかをもとめるようなしゅうちゃくしんをすて、)
大事なのは、自分に都合の良い結果を求めるような執着心を棄て、
(しよくにうちかってこころのくもりをはらいのけ、)
私欲に打ち克って心の曇りを払い除け、
(そしてほんらいもっているりょうちをはっきすることだけなのだ。)
そして本来持っている良知を発揮することだけなのだ。