吉田松陰 寸言集〈現代語訳〉2
松蔭の寸言を勝手に現代語に翻訳しました。
詳しくは大家の翻訳をご覧ください。
「誠」のみで生きた松蔭の心震える言葉で、人生を考え直してみましょう。
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | あいうえお | 5819 | 高弟 | 5.9 | 97.0% | 328.9 | 1973 | 59 | 36 | 2024/12/09 |
関連タイピング
-
プレイ回数10万かな114打
-
プレイ回数7079長文652打
-
プレイ回数1573長文かな559打
-
プレイ回数183長文かな2194打
-
プレイ回数1万長文かな637打
-
プレイ回数3.2万かな273打
-
プレイ回数138長文90秒
-
プレイ回数1万長文かな1703打
問題文
(こまごまとしたはんざつなほうりつやきそく、またわずらわしいれいせいをしくことよりも、)
こまごまとした繁雑な法律や規則、また煩わしい礼制を敷くことよりも、
繁文縟礼は
(つまるところみをもってしめすこと、これにはおよばない。)
詰まるところ身をもって示すこと、これには及ばない。
躬化に如かず。
(うえにたつものがじあいにみちたおもいやりがあり、せつぎあるしであるならば、)
上に立つ者が慈愛に満ちた思いやりがあり、節義ある士であるならば、
君仁君義なれば、
(みながこのじんぎにふうかせざるはない。)
皆がこの仁義に風化せざるはない。
仁義ならざる無し。
(こらいよりのせいどうがこうはいしているげんいんは、たいだでおごったせいかつがさいたるものである。)
古来よりの正道が荒廃している原因は、怠惰で奢った生活が最たるものである。
文武の荒は奢怠に如くものなし。
(そして、そのようなこころのこんげんはすむかんきょう、ごうしゃなすまいがさいたるものであろう。)
そして、そのような心の根源は住む環境、豪奢な住まいが最たるものであろう。
奢怠の原は居所に如くものはなし。
(そもそもがくもんをすることのさいだいのもくてきは、おのれのためにすることにある。)
そもそも学問をする事の最大の目的は、己の為にすることにある。
凡そ学を為すの要は己が為にするにあり。
(おのれをりっし、わがみをおさめせいどうをまなぶのがくんしのがくもんである。)
己を律し、我が身を修め正道を学ぶのが君子の学問である。
己が為にするは君子の学なり。
(たにんからのひょうかのため、りとくなどのためにするのは、)
他人からの評価の為、利得などの為にするのは、
人のためにするは
(そもそものしょうねがゆがんでおり、それをしょうじんのがくもんという。)
そもそもの性根が歪んでおり、それを小人の学問という。
小人の学なり。
(べんぜつにたけ、さもがくがあるようなみのたちまわりをするようなにんげん。)
弁舌に長け、さも学があるような身の立ち回りをするような人間。
大抵文辞ある人は
(たいていのばあい、そのげんどうはしんようにあたいするものではない。)
大抵の場合、その言動は信用に値するものではない。
言語信じ難し。
(そやであるがかざらずせいじつである。これがわたしがかれをしんにんするゆえんである。)
粗野であるが飾らず誠実である。これが私が彼を信任する所以である。
無丁の野漢、是れ僕の此の人を取る所以なり。
(くにをおさめるにあたってのようていは、)
国を治めるに当たっての要諦は、
治国の要は
(けんじゃをとうようし、のうりょくあるものをしようすることにある。)
賢者を登用し、能力ある者を使用することにある。
賢を挙げ能を用ふるに在り、
(これがこらいからいわれつづけているしんりなのだ。)
これが古来から言われ続けている真理なのだ。
是れ古今の通論なり。
(このようであるのに、そのたちばにあっててきとうにとうようし、しようする。)
このようであるのに、その立場にあって適当に登用し、使用する。
然れども徒に挙げて之を用ふるを知りて、
(しかもこれをげきれいしたりこぶしたりすることすらしらないのは、)
しかもこれを激励したり鼓舞したりすることすら知らないのは、
而して之を鼓舞激勵するを知らざるは、
(そもそもしようしゃとしていまだはやいのであり、まだまだひととしてみじゅくなしょうこだ。)
そもそも使用者として未だ早いのであり、まだまだ人として未熟な証拠だ。
其の初にして則ち未だしきなり。
(しにせつぎをまっとうするきがいがあるかどうかは、)
士に節義を全うする気概があるかどうかは、
士の気節あるは、
(へいおんなへいじつにみいだすことはむずかしい。)
平穏な平日に見出すことは難しい。
これを平日に視るに非ず。
(いざゆうじにのぞんだとき、そのせつぎをまげず、そのきがいおとろえず、)
いざ有事に臨んだ時、その節義を曲げず、その気概衰えず、
必ずや変に臨みて撓まず、
(そのためにはしをもおそれないといったところに、)
その為には死をも恐れないといったところに、
死を守りて懾れず、
(はじめてそのきせつをみることができる。)
はじめてその気節を見ることが出来る。
乃ち其の気節を見るのみ。
(したるもの、みちにこころざさないようであれば、そこでおわりである。)
士たる者、道に志さないようであれば、そこで終わりである。
士、道に志さざれば則ち已む。
(かりにもみちにこころざしておきながら、わざわいをこうむることをおそれ、つみにとわれることをおそれ、)
仮にも道に志しておきながら、禍いを被ることを恐れ、罪に問われる事を恐れ、
苟も道に志して、禍を畏れ罪を惧れ、
(そしていいたいこともいわず、よにおもねりげいごうする。)
そして言いたいことも言わず、世に阿り迎合する。
言を尽くさざる所あり、容を当世に取り、
(こんなことでは、あやまちをしょうらいにのこすことになってしまう。)
こんなことでは、過ちを将来に残すことになってしまう。
過ちを将来に胎こすは、
(これはくんしのがくもんをするもののなすことであろうか。)
これは君子の学問をする者の為すことであろうか。
豈に君子の学を為す者の為す所ならんや。
(ひとにはひとのこころというものがある。)
人には人の心というものがある。
人には人の心あり、
(おのれにはおのれのこころというものがある。)
己には己の心というものがある。
己には己の心あり。
(おのおのそれぞれが、)
各々それぞれが、
各々
(あいてのこころをおのれのこころとして、またおのれのこころをあいてのこころとしてあいまじわる。)
相手の心を己の心として、また己の心を相手の心として相交わる。
その心を心として以て相交はる、
(これが「しんこう」というものだ。)
これが「心交」というものだ。
之を心交と謂う。
(わたしにはさいのうがないのでしっぱいするかもしれない。)
私には才能がないので失敗するかもしれない。
菲才或いは敗を致すも、
(だが、このたてたこころざしは、どこまでいってもぜったいにくじけることはない。)
だが、この立てた志は、どこまで行っても絶対に挫けることはない。
素志は終に摧けず。