吉田松陰 寸言集〈現代語訳〉7
松蔭の寸言を勝手に現代語に翻訳しました。
詳しくは大家の翻訳をご覧ください。
「誠」のみで生きた松蔭の心震える言葉で、人生を考え直してみましょう。
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問題文
(なにがただしく、なにがまちがっているかなどというかちかんは、)
何が正しく、何が間違っているかなどという価値観は、
是非の心、
(ひとそれぞれがみなもっているものなのだ。)
人それぞれが皆持っているものなのだ。
人各々之あり、
(それがたいりつするからといってこれにいをとなえ、)
それが対立するからといってこれに異を唱え、
何ぞ必ずしも人の異を
(おのれのおなじかんがえやかちかんをおしつけるひつようがどこにあろうか。)
己の同じ考えや価値観を押し付ける必要がどこにあろうか。
強ひて之れを己に同じうせんや。
(こじんがいう。「まなぶにあたりともなくしてどくがくするならば、)
古人が言う。「学ぶにあたり友なくして独学するならば、
曰く、「独り学びて友なくんば、
(ちいさくなってしまいいやしくかたくなにじぶんのかんがえにこしつするようになる。)
小さくなってしまい卑しく頑なに自分の考えに固執するようになる。
則ち孤陋にして
(さらにそのけんしきもますますせまくなってしまうだろう」と。)
さらにその見識もますます狭くなってしまうだろう」と。
寡聞なり」と。
(わたしはいまここにしぬこととなった。こっかのためにしぬのだ。)
私は今ここに死ぬこととなった。国家のために死ぬのだ。
吾れ今国のために死す。
(しぬのではあるがこのしはくんしんのぎや、ふしのしんにそむくことはいっさいない。)
死ぬのではあるがこの死は君臣の義や、父子の親に背くことは一切ない。
死して君親に負かず。
(それはゆうきゅうであるてんちにはあきらかなことであり、)
それは悠久である天地には明らかなことであり、
悠々たり天地の事、鑑照、
(かみはそのこころをおみとおしであられる。)
神はその心をお見通しであられる。
明神に在り。
(おやおもう)
親思う
(こころにまさる)
心にまさる
(おやごころ)
親ごころ
(きょうのおとづれ)
今日の音づれ
(なんときくらん)
何と聞くらん
(わたしがおやをしんぱいしているこころよりも、)
私が親を心配している心よりも、
親おもふ
(わたしをしんぱいしているふぼのこころのほうが、はるかにまさっていることだろう。)
私を心配している父母の心の方が、はるかに勝っていることだろう。
こころにまさる親ごころ
(かくも、こうなってしまったこのごほうこくを、)
かくも、こうなってしまったこのご報告を、
けふの音づれ
(ちちやはははどんなおもいできいておられるのだろうか。)
父や母はどんな思いで聞いておられるのだろうか。
何ときくらん
(みはたとい)
身はたとい
(むさしののべにくちぬとも)
武蔵の野辺に朽ちぬとも
(とどめおかましやまとだましい)
留めおかまし大和魂
(わがみはたとえ)
我が身は例え
身はたとひ
(こきょうをはなれたこのむさしののちで、くちはてることとなったにしても、)
故郷を離れたこの武蔵野の地で、朽ち果てることとなったにしても、
武蔵の野辺に朽ちぬとも
(わたしのこのせいしん、やまとだましいはどうあってもくちはてることはけっしてない。)
私のこの精神、大和魂はどうあっても朽ち果てることは決してない。
留め置かまし大和魂
(ひとは「なす」ことよりも、まずは「なさざる」というかっことしたこころざし、)
人は「為す」ことよりも、まずは「為さざる」という確固とした志、
為さざるの志確乎たらば、
(つまりよのなかが、ひとがどうであろうがじぶんはこういうことはしない、)
つまり世の中が、人がどうであろうが自分はこういうことはしない、
(こういったせつぎあるかたいこころざしがかくりつしてこそ、)
こういった節義ある堅い志が確立してこそ、
(たとえいつどのようなじへんにのぞんでも、)
たとえいつどのような事変に臨んでも、
一旦事変に臨むことありとも、
(ひととしてまちがいのない「なす」というたいしょをなすことができるものなのだ。)
人として間違いのない「為す」という対処を成すことが出来るものなのだ。
必ず能く為すあるの業を成すことを得ん。
(これがわたしががくもんをするりゆうであるともいえる。)
これが私が学問をする理由であるとも言える。
是れ吾が学を勤むる所以なり。
(てんかこっかのだいじにあたっては、)
天下国家の大事にあたっては、
大事に臨みて
(ちかしいひとからみてなんとむじょうであるかというがごとくものは、)
近しい人から見てなんと無情であるかというが如く者は、
無情なるが如きは、
(かえっておおくのひとにたいしてのじょうにとむ、ゆうこくのしであることをしるべきである。)
かえって多くの人に対しての情に富む、憂国の士である事を知るべきである。
多情の極みと知るべし。
(せぞくのひとというものは、)
世俗の人というものは、
世人
(おうおうにしてえいよやりえきといったよくにれんれんとしてとりつかれ、)
往々にして栄誉や利益といった欲に恋々として取り憑かれ、
往々栄利を慕いて
(そうしてじんりんのみちをふみはずし、そしてかえりみなくなってしまう。)
そうして人倫の道を踏み外し、そして顧みなくなってしまう。
親義を顧みず。