8月某日、診察データ

(ねえ、せんせい。　　くん、わたしのことがすきだって。)

「ねえ、先生。□□くん、私のことが好きだって。

(うん、それはうれしいことで、ありがとう、ってわらうべきことなの。)

うん、それは嬉しいことで、ありがとう、って笑うべきことなの。

(わかってる。ちゃんとそうしたよ)

わかってる。ちゃんとそうしたよ」

(わたしはなつのそらがにくかった。わたしはなつのあかにけんおしていた。)

私は夏の空が憎かった。私は夏の赤に嫌悪していた。

(せかいでいちばんたいせつなかぞくがいなくなっていったひをおもいだすからだ。)

世界で一番大切な家族がいなくなっていった日を思い出すからだ。

(そのひはむしあつくて、あせがじとりとつたう、あれは、あせとほかにもなにか、)

其の日は蒸し暑くて、汗がじとりと伝う、あれは、汗と他にもなにか、

(それで、ええ、きみのことをおもいだしてしまうから おもいだしてしまうおもいだして)

それで、ええ、君のことを思い出してしまうから 思い出してしまう思い出して

(おもいだして、おもいだして、わすれないために。)

思い出して、思い出して、忘れないために。

(だけどわたしがひとであるためにすべてをぬりつぶすしかなかった)

だけど私が人であるために　全てを塗り潰すしかなかった

(きみはいないかげぼうしはきみじゃない おとなになったうまくわらえるようになった)

君はいない　影法師は君じゃない 大人になった　上手く笑えるようになった

(ねえせんせい、わたしはいつになったらあるべきおとなになれるんだろう)

「ねえ先生、私はいつになったらあるべき大人になれるんだろう

(かなしいことをかてにいきるなんてかわいそうだし)

悲しいことを糧に生きるなんてかわいそうだし

(だからっておそうしきでわらっていたらいかられるじゃない)

だからってお葬式で笑っていたら怒られるじゃない」

(だからねえせんせい、わたし、ただしくはいきられているでしょう)

「だから」「ねえ先生、私、正しくは生きられているでしょう？」

(かのじょのたいせつなきおくはきろくとなり、おもいではくろくぬりつぶされた)

彼女の大切な記憶は記録となり、思い出は黒く塗り潰された

(それはかのじょがいきるためにひつようなちりょうだった)

それは彼女が生きるために必要な治療だった

(おとなになったいま、あかるくわらえるかのじょをみて これはただしかったのだとつよくおもう)

大人になった今、明るく笑える彼女を見て これは正しかったのだと強く思う

(ああ、これでよかった ことばにだして、つよく。これで、よかったのだ。)

「ああ、これでよかった」 言葉に出して、強く。これで、よかったのだ。

(そのひとのなまえを、きろくとしてしかしらない 　　はわたしのたいせつなひとだった)

その人の名前を、記録としてしか知らない ■■は私の大切な人だった

(おもいだそうとしてでてくるかすかなこえが、かおが、いつひか)

思い出そうとして出てくる微かな声が、顔が、いつ日か

(べつのだれかにすりかわっていた)

別の誰かにすり替わっていた

(くんのてはあたたかくて、あのひにぎりかえしてくれなかったかれのたいおんとおなじだった)

□□くんの手は暖かくて、あの日握り返してくれなかった彼の体温と同じだった

(わたしをみあげる　　くんのめはおおきくてかわいらしくて、)

私を見上げる□□くんの目は大きくて可愛らしくて、

(いつもわたしのあたまをなでてくれた　　のひとみとおなじだった)

いつも私の頭を撫でてくれた■■の瞳と同じだった

(やわらかく、やさしく、わたしをみおろすそのめ。あれ)

柔らかく、優しく、私を見下ろすその目。あれ？

(ぬりつぶしたはずのきおくがあたたかなおもいでにかわっていたとき、わたしはきづいた)

塗り潰したはずの記憶が暖かな思い出に変わっていたとき、私は気付いた

(ねえ、せんせい。　　くん、わたしのことがすきだって)

「ねえ、先生。□□くん、私のことが好きだって」

(どうしようね。ねえ、どうしたらいいんだろう)

「どうしようね。ねえ、どうしたらいいんだろう」

(わたしはかれのかおもなまえもわからないのに。)

「私は彼の顔も名前もわからないのに。

(わたしはきっと、ただとまったときをながめているだけなのに)

私はきっと、ただ止まった時を眺めているだけなのに」

(それでもいいんだって。ばかだよね)

「それでもいいんだって。馬鹿だよね」

(でもせんせい、　　はばかじゃなかったんだ)

「でも先生、■■は馬鹿じゃなかったんだ」

(ちがう、って、おもったんだ)

「違う、って、思ったんだ」

(わたしのてをにぎってくれるあのこがいるこのなつが)

「私の手を握ってくれるあの子が居るこの夏が

(きおくでもきろくでもないあのこが)

記憶でも記録でもないあの子が

(あたりまえのことをおしえてくれた)

当たり前のことを教えてくれた」

(なつのそらはあおいんだって、ようやくきづいた)

「夏の空は青いんだって、ようやく気付いた」

(なつがすきだとわらったむじゃきなこどもとよぶにふさわしい)

夏が好きだと笑った　無邪気な子供と呼ぶに相応しい

(おいこしたはずのせをちぢまらないねんげつを)

追い越したはずの背を　縮まらない年月を

(もうあかくないゆうぐれをあのこのいないこのなつを)

もう赤くない夕暮れを　あの子のいないこの夏を

(きみはいきてる)

君は生きてる

(わたしもいきてる)

私も生きてる