檸檬

問題文
(えたいのしれないふきつなかたまりがわたしのこころをしじゅうおさえつけていた。)
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。
(しょうそうといおうか、けんおといおうか)
焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか
(さけをのんだあとにふつかよいがあるように、)
酒を飲んだあとに宿酔があるように、
(さけをまいにちのんでいるとふつかよいにそうとうしたじきがやってくる。)
酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。
(それがきたのだ。これはちょっといけなかった。)
それが来たのだ。これはちょっといけなかった。
(けっかしたはいせんかたるやしんけいすいじゃくがいけないのではない。)
結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。
(またせをやくようなしゃっきんなどがいけないのではない。)
また背を焼くような借金などがいけないのではない。
(いけないのはそのふきつなかたまりだ。)
いけないのはその不吉な塊だ。
(いぜんわたしをよろこばせたどんなうつくしいおんがくも、)
以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、
(どんなうつくしいしのいっせつもしんぼうがならなくなった。)
どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。
(ちくおんきをきかせてもらいにわざわざでかけていっても、)
蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、
(さいしょのにさんしょうへんでふいにたちあがってしまいたくなる。)
最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。
(なにかがわたしをいたたまらずさせるのだ。)
何かが私を居堪らずさせるのだ。
(それでしじゅうわたしはまちからまちをふろうしつづけていた。)
それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
(なぜだかそのごろわたしはみすぼらしくてうつくしいものに)
何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに
(つよくひきつけられたのをおぼえている。)
強くひきつけられたのを覚えている。
(ふうけいにしてもこわれかかったまちだとか、)
風景にしても壊れかかった街だとか、
(そのまちにしてもよそよそしいおもてどおりよりも)
その街にしてもよそよそしい表通りよりも
(どこかしたしみのある、きたないせんたくものがほしてあったり)
どこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったり
(がらくたがころがしてあったりむさくるしいへやが)
がらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が
(のぞいていたりするうらどおりがすきであった。)
覗いていたりする裏通りが好きであった。
(あめやかぜがむしばんでやがてつちにかえってしまう、)
雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、
(といったようなおもむきのあるまちで、)
と言ったような趣きのある街で、
(どべいがくずれていたりいえなみがかたむきかかっていたり)
土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり
(いきおいのいいのはしょくぶつだけで、)
勢いのいいのは植物だけで、
(ときとするとびっくりさせるような)
時とするとびっくりさせるような
(ひまわりがあったりかんながさいていたりする。)
向日葵があったりカンナが咲いていたりする。