未帰還の友に~(2)~ 太宰治

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プレイ回数114難易度(4.5) 60秒 長文
青空文庫

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問題文

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(あるはずはないおさけどころかそのころのにほんのいんしょくてんにはすでにこーひーも)

有る筈はない。お酒どころか、その頃の日本の飲食店には、すでにコーヒーも

(あまざけもなにもなくなっていたのであるちゃてんのむすめさんにつめたくことわられても)

甘酒も、何も無くなっていたのである。茶店の娘さんに冷たく断られても、

(しかしぼくはひるまなかったごしゅじんがいませんかちょっとあいたいの)

、しかし、僕はひるまなかった。「ご主人がいませんか。ちょっと逢いたいの

(ですがとぼくはまじめくさってそういったやがてでてきたあたまのはげたしゅじんに)

ですが。」と僕は真面目くさってそう言った。やがて出て来た頭の禿げた主人に

(ぼくはきょうのじじょうをめんめんとうったえなにかありませんかなんでもいいんです)

僕は今日の事情をめんめんと訴え、「何かありませんか。何でもいいんです。

(ひとえにあなたのぎきょうしんにおすがりしますたのみますひとえにあなたの)

ひとえにあなたの義侠心におすがりします。たのみます。ひとえにあなたの

(ぎきょうしんに・・・・というぐあいにあくまでもねばりぼくのさいふのなかにあるおかね)

義侠心に、・・・・」という具合にあくまでもねばり、僕の財布の中にあるお金

(をぜんぶそのしゅじんにていしゅつしたよろしいとそのあたまのはげたしゅじんはとうと)

を全部、その主人に呈出した。「よろしい!」とその頭の禿げた主人は、とうと

(うぎぎょうしんをはっきしてくれたそんなわけならばそんなわけならばわたしのばんしゃくようにうぃすきぃを)

う義侠心を発揮してくれた。「そんなわけならば、私の晩酌用のウィスキィを、

(わけてあげますおかねはこんなにたくさんいりませんじっぴでわけてあげます)

わけてあげます。お金は、こんなにたくさんいりません。実費で分けてあげます

(そのうぃすきいはわたしはだれにものませたくないからここにかくしてあるのです)

そのウィスキイは、私は誰にも飲ませたくないから、ここに隠してあるのです。

(しゅじんはふんげきしているようなひどくこうふんしているていでやにわにざしきのたたみを)

」主人は、憤激しているようなひどく興奮している艇で、矢庭に座敷の畳を

(あげそれからとこばんをおこしとこしたからうぃすきいのかどびんをいっぽんとりだした)

上げ、それから床版を起こし、床下からウィスキイの角瓶を一本取りだした。

(ばんざいとぼくはいったそしてはくしゅしたそうしてぼくたちはそのざしきにのぼ)

「万歳!」と僕は言った。そして、拍手した。そうして、僕たちはその座敷に上

(ってかんぱいしたせんせいあいかわらずですねえあいかわらずさそんなにちょ)

って乾杯した。「先生、相変わらずですねえ。」「相変わらずさ。そんなにちょ

(いちょいかわってはたまらないしかしぼくはかわりましたよせいかつの)

いちょい変ってはたまらない。」「しかし、僕は変わりましたよ。」「生活の

(じしんかそのはなしはもうたくさんだのおといえばいいんだろう)

自信か。その話は、もうたくさんだ。ノオと言えばいいんだろう?」

(いいえせんせいちゅうしょうろんじゃないんですおんなですよせんせいのもうぼくはのお)

「いいえ、先生。抽象論じゃないんです。女ですよ。先生、飲もう。僕は、ノオ

(ぼくはのおというのにほねをおったせんせいだってわるいんだちっともたよりになりや)

僕は、ノオと言うのに骨を折った。先生だって悪いんだ。ちっとも頼りになりや

(しないきくやのねあのむすめがあれからひどいことになってしまったのです)

しない。菊屋のね、あの娘が、あれから、ひどい事になってしまったのです。

など

(いったいせんせいがわるいんだきくやしかしあれはあれっきりということに)

いったい、先生が悪いんだ。」「菊屋?しかし、あれは、あれっ切りという事に

(それがそういかないんですよぼくはのおというのにくろうし)

、・・・・・・」「それがそういかないんですよ。僕は、ノオと言うのに苦労し

(たじっさいぼくはひとがかわりましたよせんせいぼくたちはたしかにまちがっていたのです)

た。実際、僕は人が変わりましたよ。先生、僕たちは確かに間違っていたのです

(いがいなくるしいはなしになった)

。」意外な苦しい話になった。

(に きくやというのはこうえんじのいぜんぼくがよくきみたちといっしょにのみにい)

~(2)~ 菊屋というのは、高円寺の、以前僕がよく君たちと一緒に飲みに行

(っていたおでんやのなまえだったそのころからすでににほんではさけがたりなくなっ)

っていたおでん屋の名前だった。その頃からすでに、日本では酒が足りなくなっ

(ていてぼくがきみたちとのんでぶんがくをだんずるのにはなはだふじゆうをかんじはじめていた)

ていて、僕が君たちと飲んで文学を談ずるのに甚だ不自由を感じ始めていた。

(あのころぼくのみたかのちいさいいえにじつにたくさんのだいがくせいがあそにきていた)

あの頃、僕の三田田の小さい家に、慈雨にたくさんの大学祭が遊びに来ていた。

(ぼくはじぶんのかなしみやいかりやはじをたいていしょうせつでひょうげんしてしまっているのでそのうえ)

僕は自分の悲しみや怒りや恥を、大抵小説で表現してしまっているので、その上

(ほうもんきゃくにたいしてあらたまっていいたいこともなかったしかしまたきざにだいせんせい)

訪問客に対して改まって言いたいこともなかった。しかしまた、気障に大先生

(きどりしてしんみょうそうなぶんがくがいろんなどもいいたくないしひとつひとつことばをえらんで)

気どりして神妙そうな文学概論なども言いたくないし、一つ一つ言葉を選んで

(ほらでないことばかりいおうとするといやにつかれてしまうしそうかといって)

法螺出ないことばかり言おうとすると、いやに疲れてしまうし、そうかといって

(げんかんばらいはぜったいにできないたちだしけっきょくきみたちをそそのかしてさけをのみにと)

玄関払いは絶対にできないたちだし、結局、君たちをそそのかして酒を飲みに飛

(びだすということになってしまうのであるさけをのむとぼくはひじょうにくだらないこと)

美出すという事になってしまうのである。酒を飲むと、僕は非常にくだらない事

(でもおおごえでいえるようになるそうしてそれをきいているきみたちもまたおおい)

でも、大声で言えるようになる。そうして、それを聞いている君たちもまた大い

(によっているのだからあまりぼくのはなしにみみをかたむけていないというあんしんもある)

によっているのだからあまり僕の話に耳を傾けていないという安心もある。

(ぼくはきみたちからぼくのつまらぬいちごんいっくをしんらいされるのをおそれていたのかもしれ)

僕は、君たちから僕のつまらぬ一言一句を信頼されるのを恐れていたのかもしれ

(ないところがにほんにはだんだんさけがなくなってきたのでそのおくびょうなばかせん)

ない。ところが、日本にはだんだん酒がなくなって来たので、その臆病な馬鹿先

(せいははなはだきゅうしたというわけなのだそのときにあたりぼくたちはじつによからぬひと)

生は甚だ窮したというわけなのだ。その時にあたり、僕たちは、実によからぬ一

(つのあくけいをたくらんだのであるおかのきんざえもんのいろじかけというのがすなわち)

つの悪計をたくらんだのである。岡野金左衛門の色仕掛けというのが、すなわち

(それであったきくやにはそのころほかのみせにくらべてさけがほうふにあったようである)

其れであった。菊屋にはその頃、他の店にくらべて酒が豊富にあったようである

(しかしひとりにおちょうしにほんずつとさだめられていたにほんではたりないのでおか)

しかし、一人にお銚子二本ずつと定められていた。二本では足りないので、おか

(みさんのぎきょうしんにうったえてさらにいっぽんをこんがんしてもかおをしかめるばかりであいて)

みさんの義侠心に訴えて、さらに一本を懇願しても、顔をしかめるばかりで相手

(にしないさらにしゅうそするとおくからしんやがかおをだしてさあさあみなさんかえり)

にしない。さらに愁訴すると、奥から親爺が顔を出して、さあさあ皆さん帰り

(なさいいまはにほんではさけのせいぞうりょうがはんぶんいかになっているのですきちょうなもの)

なさい、今は日本では酒の製造量が半分以下になっているのです。貴重なもの

(ですいったいがくせいにはさけをのませないことにわたしどもではきめているのですがね)

です。いったい学生には酒を飲ませないことに私どもでは決めているのですがね

(ときょうざめなことをいうよろしいそれならばとぼくたちはこのふにんじょうのおでん)

、と興覚めな事を言う。よろしい、それならば、と僕たちはこの不人情のおでん

(やにたいしてあるしゅのあくけいをたくらんだのだったまずぼくがあるひのごごま)

屋に対して、或る種の悪計をたくらんだのだった。まず僕が、或る日の午後、ま

(だおでんやがみせをあけていないときにそのみせのうらぐちからまじめくさってはいっ)

だおでんやが店を開けていないときに、その店の裏口からまじめくさってはいっ

(ていったおじさんいるかいとぼくはだいどころではたらいているむすめさんにこえをかけ)

て行った。「おじさん、いるかい。」と僕は台所で働いている娘さんに声をかけ

(たこのむすめさんはすでにじょがっこうをそつぎょうしているじゅうくくらいではなかったかしら)

た。この娘さんはすでに女学校を卒業している。十九くらいではなかったかしら

(うちきそうなむすめさんですぐかおをあかくするおりますとちいさいこえでいって)

。内気そうな娘さんで、すぐ顔を赤くする。「おります。」と小さい声で言って

(もうかおをまっかにしているおばさんはおりますそうそれは)

、もう顔を真っ赤にしている。「おばさんは?」「おります。」「そう。それは

(ちょうどいいにかいかええちょっとようがあるんだけどなよんでく)

ちょうどいい。二階か?」「ええ。」「ちょっと用があるんだけどな。呼んでく

(れないかおじさんでもおばさんでもどっちでもいいむすめさんはにかいへい)

れないか。おじさんでも、おばさんでも、どっちでもいい。」娘さんは二階へ行

(きやがておじさんがくそまじめなかおをしてにかいからおりてきたあくとうのような)

き、やがて、おじさんが糞まじめな顔をして二階から降りて来た。悪党のような

(かおをしているようじってのはさけだろうというぼくはたじろいだがしか)

顔をしている。「用事ってのは、酒だろう。」と言う。僕はたじろいだが、しか

(しきをとりなおしうんのませてくれるならいつだってのむがねしかし)

し、気を取り直し、「うん、飲ませてくれるなら、いつだって飲むがね。しかし

(しちょっとおじさんはなしがあるんだみせのほうへこないかぼくはうすぐらいみせの)

し、ちょっとおじさん、話があるんだ。店のほうへ来ないか?」僕は薄暗い店の

(ほうにおじさんをおびきよせたあれはしょうわじゅうろくねんおくれであったかしょうわじゅうろく)

ほうにおじさんをおびき寄せた。あれは昭和十六年の暮れであったか、昭和十六

(ねんのくれであったかしょうわじゅうしちねんのしょうがつであったかとにかくふゆであったのは)

年の暮れであったか、昭和十七年の正月であったか、とにかく、冬であったのは

(たしかでぼくはみせのこわれかかったいすにこしをおろしとんびのそでをはねててー)

たしかで、僕は店のこわれかかった椅子に腰を下ろし、トンビの袖を撥ねてテー

(ぶるにほおづえをつきまああなたもおすわりわるいはなしじゃないおじさんは)

ブルに頬杖をつき、「まあ、あなたもお座り。悪い話じゃない。」おじさんは、

(しぶしぶぼくとむかいあったいすにこしをおろしてけっきょくはさけさ)

渋々、僕と向かい合った椅子に腰を下ろして、「結局は、酒さ。」

(とぶあいそなかおでいったぼくはみやぶられたかとぎょっととしたが)

とぶあいそな顔で言った。僕は、見破られたかと、ぎょっとしたが、

(ごまかしわらいをしてしんようがないようだねそれじゃよそうか)

、ごまかし笑いをして、「信用がないようだね。それじゃ、よそうか

(なまさちゃんむすめのなのえんだんなんだけどねだめだめそ)

な。マサちゃん(娘の名)の縁談なんだけどね。」「だめ、だめ。そ

(んなてにゃのらんなんのかのといってそれからさけさじつにて)

んな手にゃ乗らん。何のかのと言って、それから、酒さ。」実に、手

(ごわいぼくたちのあくけいもまさにすいほうにきするかのごとくにみえた)

剛い。僕たちの悪計もまさに水泡に帰するかの如くに見えた。

(そんなにはっきりいうなよざんこくじゃないかそりゃどうせぼくたち)

「そんなにはっきり言うなよ。残酷じゃないか。そりゃどうせ僕たち

(はさけをのませていただきたいよそりゃそうさとぼくはほとん)

は、酒を飲ませていただきたいよ。そりゃそうさ。」と僕は、ほとん

(どやぶれかぶれになりしかしぼくのみるところではあのまさちゃ)

ど破れかぶれになり、「しかし、僕の見るところでは、あのマサちゃ

(んはおじさんににあわずまったくにあわずいいこだよそれでね)

んは、おじさんに似合わず、全く似合わず、いい子だよ。それでね、

(ぼくのゆうじんでいまとうきょうのていだいのぶんかにはいっているつるたくんといっても)

僕の友人でいま東京の帝大の文科にはいっている鶴田君、と言っても

(おじさんにはわからないだろうがほらぼくがいつもひっぱってくる)

おじさんにはわからないだろうが、ほら、僕がいつも引っぱって来る

(だいがくせいのなかでいちばんせがたかくていろのしろいうざえもんににたべつにぼくは)

大学生の中で一番背が高くて色の白い、羽左衛門に似た(別に僕は

(きみがうざえもんにもだれにもにているとはおもわないがびだんしということを)

君が羽左衛門にも誰にも似ているとは思わないが、美男子という事を

(きょうちょうするためにおじさんのしっていそうなびだんのてんけいじんのなまえを)

強調するために、おじさんの知っていそうな美男の典型人の名前を

(あげてみただけであるそんなにさけをのまないそのじつぼくのところへ)

挙げてみただけである)そんなに酒を飲まない(その実、僕の所へ

(くるだいがくせいのうちできみがいちばんのおおざけのみであったおとなしそうな)

来る大学生のうちで君が一ばんの大酒飲みであった)おとなしそうな

(せいねんがそのつるたくんなんだがねあれはせんだいのひとでねすこしことばに)

青年が、その鶴田君なんだがね、あれは仙台の人でね、少し言葉に

(せんだいなまりがあるからあまりおんなにはすかれないようだけれどまあか)

仙台訛りがあるからあまり女には好かれないようだけれど、まあ、か

(えってそのほうがいいぼくのようにすかれすぎてもこまる)

えってそのほうがいい。僕のように好かれすぎても困る。

(おじさんはうんざりしたようにかおをしかめたがぼくはへいき)

。」オジサンは、うんざりしたように顔をしかめたが、僕は平気

(でそのつるたくんだがねははひとりこひとりなんだもうすぐていだいを)

で、「その鶴田君だがね、母ひとり子ひとりなんだ。もうすぐ帝大を

(そつぎょうしてまあぶんがくしということになるわけだがあるいはそつぎょうとどうじに)

卒業して、まあ文学士という事になるわけだが、或いは卒業と同時に

(へいたいにいくかもしれんしかしまたいかないかもしれん)

兵隊に行くかも知れん。しかし、また、行かないかも知れん。

(いかないばあいはどこかでつとめるということになるだろうがこの)

行かない場合は、どこかで勤めるという事になるだろうが、(この

(へんまではほんとうだがそれからみんなうそぼくはつるたくんのおかあさんとむかしか)

辺までは本当だが、それからみんな嘘)僕は鶴田君のお母さんと昔か

(らのしりあいでねぼくのようなものでもこれでもまぁしんらいされ)

らの知り合いでね、僕のようなものでも、これでも、まぁ、信頼され

(ているのだそれでねひとりむすこのつるたくんのよめはなんとかしてせんせい)

ているのだ。それでね、ひとり息子の鶴田君の嫁は、何とかして先生

(というのはそのせんせいにさがしてもらいたいとほんとうだよつまりぼくは)

というのは、その先生に探してもらいたいと、本当だよ、つまり僕は

(そのぜんけんをいにんされているようなしだいなのだしかしかのおじ)

その全権を委任されているような次第なのだ。」しかし、かのおじさ

(さんはいかにもばかばかしいというようなかおつきをしてよこをむき)

さんは、いかにも馬鹿々々しいというような顔つきをして横を向き、

(じょうだんじゃないあんたにそんなだいじなむすこさんをといい)

「冗談じゃない。あんたに、そんな大事な息子さんを。」と言い、

(てんであいてにしてくれないいやそうじゃないまかせられてい)

てんで相手にしてくれない。「いや、そうじゃない。まかせられてい

(るのだとぼくはあつかましくいいはりところでどうだろう)

るのだ。」と僕は厚かましく言い張り、「ところで、どうだろう。

(そのつるたくんとまさちゃんとといいかけたときにおじさんは)

その鶴田君と、マサちゃんと。」と言いかけた時に、おじさんは

(ばからしいといってたちあがりまるできちがいだ)

「馬鹿らしい。」と言って立ち上がり、「まるで気違いだ。」

(さすがにぼくもむっとしておくへひきあげていくおじさんのうしろすがたに)

さすがに僕もむっとして、奥へ引き上げていくおじさんの後ろ姿に

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