芥川龍之介『魚河岸』

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プレイ回数1566難易度(4.5) 4699打 長文
春の夜に保吉の身辺で起こった出来事を綴った短編小説。
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1 すもさん 5784 A+ 6.0 95.9% 799.2 4827 204 61 2024/10/28

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問題文

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(きょねんのはるのよ、--といってもまだかぜのさむい、つきのさえたよるのくじごろ、やすきちは)

去年の春の夜、--と云ってもまだ風の寒い、月の冴えた夜の九時ごろ、保吉は

(さんにんのともだちと、うおがしのおうらいをあるいていた。さんにんのともだちとは、はいじんのろさい、)

三人の友だちと、魚河岸の往来を歩いていた。三人の友だちとは、俳人の露柴、

(ようがかのふうちゅう、まきえしのじょたん、--さんにんともほんみょうはあかさないが、そのみちでは)

洋画家の風中、蒔画師の如丹、--三人とも本名は明さないが、その道では

(しられたうでっこきである。ことにろさいはとしかさでもあり、しんけいこうのはいじんとしては、)

知られた腕っ扱きである。殊に露柴は年かさでもあり、新傾向の俳人としては、

(つとになをはせたおとこだった。われわれはみなよっていた。もっともふうちゅうとやすきちとはげこ、)

夙に名を馳せた男だった。我々は皆酔っていた。もっとも風中と保吉とは下戸、

(じょたんはなだいのしゅごうだったから、さんにんはふだんとかわらなかった。ただろさいは)

如丹は名代の酒豪だったから、三人はふだんと変らなかった。ただ露柴は

(どうかすると、あしもともしょうしょうあぶなかった。われわれはろさいをなかにしながら、なまぐさい)

どうかすると、足もとも少々あぶなかった。我々は露柴を中にしながら、腥い

(つきあかりのふかれるとおりを、にほんばしのほうへあるいていった。ろさいはきっすいのえどっこ)

月明りの吹かれる通りを、日本橋の方へ歩いて行った。露柴は生っ粋の江戸っ児

(だった。そうそふはしょくさんやぶんちょうとこうゆうのあつかったひとである。いえもかしのまるせいと)

だった。曾祖父は蜀山や文晁と交遊の厚かった人である。家も河岸の丸清と

(いえば、あのかいわいではしらぬものはない。それをろさいはずっとまえから、かぎょうは)

云えば、あの界隈では知らぬものはない。それを露柴はずっと前から、家業は

(ほとんどひとまかせにしたなり、じぶんはさんやのろじのおくに、くとしょとてんこくとを)

ほとんど人任せにしたなり、自分は山谷の露路の奥に、句と書と篆刻とを

(たのしんでいた。だからろさいにはわれわれにはない、どこかいなせなふうかくがあった。)

楽しんでいた。だから露柴には我々にはない、どこかいなせな風格があった。

(したまちかたぎよりはでんぽうな、やまのてにはもちろんえんのとおい、--いわばかしのまぐろのすしと、)

下町気質よりは伝法な、山の手には勿論縁の遠い、--云わば河岸の鮪の鮨と、

(いちみあいつうずるなにものかがあった。・・・・・・ろさいはさもじゃまそうに、ときどきがいとうのそでを)

一味相通ずる何物かがあった。……露柴はさも邪魔そうに、時々外套の袖を

(はねながら、かいかつにわれわれとはなしつづけた。じょたんはしずかにわらいわらい、はなしのあいづちを)

はねながら、快活に我々と話し続けた。如丹は静かに笑い笑い、話の相槌を

(うっていた。そのうちにわれわれはいつのまにか、かしのとっつきへきてしまった。)

打っていた。その内に我々はいつのまにか、河岸の取つきへ来てしまった。

(このままかしをでぬけるのはみんなみょうにものたりなかった。するとそこにようしょくやが)

このまま河岸を出抜けるのはみんな妙に物足りなかった。するとそこに洋食屋が

(いっけん、かたかわをてらしたつきあかりにしろいのれんをたらしていた。このみせのうわさは)

一軒、片側を照らした月明りに白い暖簾を垂らしていた。この店の噂は

(やすきちさえもなんどかきかされたことがあった。「はいろうか?」「はいっても)

保吉さえも何度か聞かされた事があった。「はいろうか?」「はいっても

(いいな。」--そんなことをいいあううちに、われわれはもうふうちゅうをさきに、せまいみせのなかへ)

好いな。」--そんな事を云い合う内に、我々はもう風中を先に、狭い店の中へ

など

(なだれこんでいた。みせのなかにはきゃくがふたり、ほそながいたくにむかっていた。きゃくのひとりは)

なだれこんでいた。店の中には客が二人、細長い卓に向っていた。客の一人は

(かしのわかいしゅ、もうひとりはどこかのしょっこうらしかった。われわれはふたりずつ)

河岸の若い衆、もう一人はどこかの職工らしかった。我々は二人ずつ

(むかいあいに、おなじたくにわりこませてもらった。それからたいらがいのふらいをさかなに、)

向い合いに、同じ卓に割りこませて貰った。それから平貝のフライを肴に、

(ちびちびまさむねをなめはじめた。もちろんげこのふうちゅうややすきちはふたつとちょくは)

ちびちび正宗を嘗め始めた。勿論下戸の風中や保吉は二つと猪口は

(かさねなかった。そのかわりりょうりをたいらげさすと、ふたりともなかなかけんたんだった。このみせは)

重ねなかった。その代り料理を平げさすと、二人とも中々健啖だった。この店は

(たくもこしかけも、にすをぬらないしらきだった。おまけにみせをかこうものは、えどでんらいの)

卓も腰掛けも、ニスを塗らない白木だった。おまけに店を囲う物は、江戸伝来の

(よしずだった。だからようしょくはくっていても、ほとんどようしょくやとはおもわれなかった。)

葭簀だった。だから洋食は食っていても、ほとんど洋食屋とは思われなかった。

(ふうちゅうはあつらえたびふてきがくると、これはきりみじゃないかといったりした。)

風中は誂えたビフテキが来ると、これは切り味じゃないかと云ったりした。

(じょたんはないふのきれるのに、おおいにけいいをあらわしていた。やすきちはまたでんとうの)

如丹はナイフの切れるのに、大いに敬意を表していた。保吉はまた電燈の

(あかるいのがこういうばしょだけにありがたかった。ろさいも、--ろさいはとちっこ)

明るいのがこう云う場所だけに難有かった。露柴も、--露柴は土地っ子

(だから、なにもめずらしくはないらしかった。が、とりうちぼうをあみだにしたまま、)

だから、何も珍らしくはないらしかった。が、鳥打帽を阿弥陀にしたまま、

(じょたんとけんしゅうをかさねては、あいかわらずかいかつにしゃべっていた。するとそのさいちゅうに、)

如丹と献酬を重ねては、不相変快活にしゃべっていた。するとその最中に、

(なかおれぼうをかぶったきゃくがひとり、ぬっとのれんをくぐってきた。きゃくはがいとうのけがわのえりに)

中折帽をかぶった客が一人、ぬっと暖簾をくぐって来た。客は外套の毛皮の襟に

(ふとったほおをうめながら、みるというよりは、にらむように、せまいみせのなかへめを)

肥った頬を埋めながら、見ると云うよりは、睨むように、狭い店の中へ眼を

(やった。それからひとことのあいさつもせず、じょたんとわかいしゅとのあいだのせきへ、おおきいからだを)

やった。それから一言の挨拶もせず、如丹と若い衆との間の席へ、大きい体を

(わりこませた。やすきちはらいすかれえをすくいながら、いやなやつだなとおもっていた。)

割りこませた。保吉はライスカレエを掬いながら、嫌な奴だなと思っていた。

(これがいずみきょうかのしょうせつだと、にんきょうよろこぶべきげいしゃかなにかに、たいじられるやつだがと)

これが泉鏡花の小説だと、任侠欣ぶべき芸者か何かに、退治られる奴だがと

(おもっていた。しかしまたげんだいのにほんばしは、とうていきょうかのしょうせつのように、)

思っていた。しかしまた現代の日本橋は、とうてい鏡花の小説のように、

(うごきっこはないともおもっていた。きゃくはちゅうもんをとおしたのち、おうへいにたばこをふかし)

動きっこはないとも思っていた。客は註文を通した後、横柄に煙草をふかし

(はじめた。そのすがたはみればみるほど、かたきやくのすんぽうにはまっていた。あぶらぎったあからがおは)

始めた。その姿は見れば見るほど、敵役の寸法に嵌っていた。脂ぎった赭ら顔は

(もちろん、おおしまのはおり、みとめになるゆびわ、--ことごとくかたをでなかった。やすきちは)

勿論、大島の羽織、認めになる指環、--ことごとく型を出なかった。保吉は

(いよいよあてられたから、このきゃくのそんざいをわすれたさに、となりにいるろさいへはなし)

いよいよ中てられたから、この客の存在を忘れたさに、隣にいる露柴へ話し

(かけた。が、ろさいはうんとか、ええとか、いいかげんなへんじしか)

かけた。が、露柴はうんとか、ええとか、好い加減な返事しか

(してくれなかった。のみならずかれもあてられたのか、でんとうのひかりにそむきながら、)

してくれなかった。のみならず彼も中てられたのか、電燈の光に背きながら、

(わざととりうちぼうをまぶかにしていた。やすきちはやむをえずふうちゅうやじょたんと、くいものの)

わざと鳥打帽を目深にしていた。保吉はやむを得ず風中や如丹と、食物の

(ことなどをはなしあった。しかしはなしははずまなかった。このふとったきゃくのしゅつげんいらい、)

事などを話し合った。しかし話ははずまなかった。この肥った客の出現以来、

(われわれさんにんのこころもちに、みょうなくるいのできたことは、どうにもしかたのないじじつだった。)

我々三人の心もちに、妙な狂いの出来た事は、どうにも仕方のない事実だった。

(きゃくはちゅうもんのふらいがくると、まさむねのびんをとりあげた。そうしてちょくへつごうと)

客は註文のフライが来ると、正宗の罎を取り上げた。そうして猪口へつごうと

(した。そのときだれかよこあいから、「こうさん」とはっきりよんだものがあった。)

した。その時誰か横合いから、「幸さん」とはっきり呼んだものがあった。

(きゃくはあきらかにびっくりした。しかもそのおどろいたかおは、こえのぬしをみたとおもうと、)

客は明らかにびっくりした。しかもその驚いた顔は、声の主を見たと思うと、

(たちまちとうわくのいろにかわりだした。「やあ、こりゃだんなでしたか。」--きゃくは)

たちまち当惑の色に変り出した。「やあ、こりゃ檀那でしたか。」--客は

(なかおれぼうをぬぎながら、なんどもこえのぬしにおじぎをした。こえのぬしははいじんのろさい、)

中折帽を脱ぎながら、何度も声の主に御時儀をした。声の主は俳人の露柴、

(かしのまるせいのだんなだった。「しばらくだね。」--ろさいはすずしいかおをしながら、)

河岸の丸清の檀那だった。「しばらくだね。」--露柴は涼しい顔をしながら、

(ちょくをくちへもっていった。そのちょくがからになると、きゃくはすかさずろさいのちょくへ)

猪口を口へ持って行った。その猪口が空になると、客は隙かさず露柴の猪口へ

(きゃくじしんのびんのさけをついだ。それからはためにはおかしいほど、ろさいのきげんをうかがい)

客自身の罎の酒をついだ。それから側目には可笑しいほど、露柴の機嫌を窺い

(だした。・・・・・・きょうかのしょうせつはしんではいない。すくなくともとうきょうのうおがしには、いまだに)

出した。……鏡花の小説は死んではいない。少くとも東京の魚河岸には、未に

(あのとおりのじけんもおこるのである。しかしようしょくやのそとへでたとき、やすきちのこころは)

あの通りの事件も起るのである。しかし洋食屋の外へ出た時、保吉の心は

(しずんでいた。やすきちはもちろん「こうさん」には、なんのどうじょうももたなかった。そのうえ)

沈んでいた。保吉は勿論「幸さん」には、何の同情も持たなかった。その上

(ろさいのはなしによると、きゃくはじんかくもわるいらしかった。が、それにもかかわらずみょうに)

露柴の話によると、客は人格も悪いらしかった。が、それにも関らず妙に

(ようきにはなれなかった。やすきちのしょさいのつくえのうえには、よみかけたろしゅふうこおの)

陽気にはなれなかった。保吉の書斎の机の上には、読みかけたロシュフウコオの

(ごろくがある。--やすきちはつきあかりをふみながら、いつかそんなことをかんがえていた。)

語録がある。--保吉は月明りを履みながら、いつかそんな事を考えていた。

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