芥川龍之介『道祖問答』

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道命阿闍梨が読経すると、道祖神が感謝しつつ聞きに来る短編小説。

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(てんのうじのべっとう、どうみょうあざりは、ひとりそっととこをぬけだすと、きょうづくえのまえへ)

天王寺の別当、道命阿闍梨は、ひとりそっと床をぬけ出すと、経机の前へ

(にじりよって、そのうえにのっているほけきょう8のまきをあかりのしたにくりひろげた。)

にじりよって、その上に乗っている法華経八の巻を灯の下に繰りひろげた。

(きりとうだいのひは、はなのようなちょうじをむすびながら、あかるくらでんのきょうづくえをてらして)

切り燈台の火は、花のような丁子をむすびながら、明く螺鈿の経机を照らして

(いる。みみにはいるのはきちょうのむこうによこになっているいずみしきぶのねいきであろう。)

いる。耳にはいるのは几帳の向うに横になっている和泉式部の寝息であろう。

(はるのよるのぞうしはただしんかんとふけわたって、そのほかにはねずみのなくこえさえも)

春の夜の曹司はただしんかんと更け渡って、そのほかには鼠の啼く声さえも

(きこえない。あざりは、しろじのにしきのふちをとったわらふだのうえにざをしめながら、しきぶの)

聞えない。阿闍梨は、白地の錦の縁をとった円座の上に座をしめながら、式部の

(めのさめるのをはばかるように、ちゅうおんでしずかにほけきょうをずしはじめた。これが、)

眼のさめるのを憚るように、中音で静かに法華経を誦しはじめた。これが、

(このおとこのひごろからのしゅうかんである。みは、ふのだいなごんふじわらみちつなのことうまれて、)

この男の日頃からの習慣である。身は、傅の大納言藤原道綱の子と生れて、

(てんだいざすじえだいそうじょうのでしとなったが、さんごうもしゅうせず、ごかいもじしたことはない。)

天台座主慈恵大僧正の弟子となったが、三業も修せず、五戒も持した事はない。

(いやむしろ「あめがしたのいろごのみ」という、dandyのかいきゅうにぞくするような、)

いや寧ろ「天が下のいろごのみ」と云う、Dandyの階級に属するような、

(せいかつさえもつづけている。が、ふしぎにも、そういうせいかつのあいまには、かならず)

生活さえもつづけている。が、不思議にも、そう云う生活のあい間には、必ず

(ひとりほけきょうをどくじゅする。しかもあざりじしんは、すこしもそれをむじゅんだとおもって)

ひとり法華経を読誦する。しかも阿闍梨自身は、少しもそれを矛盾だと思って

(いないらしい。げんにきょう、いずみしきぶをおとずれたのも、げんざとしてきたのでは、もちろん)

いないらしい。現に今日、和泉式部を訪れたのも、験者として来たのでは、勿論

(ない。ただこのこうじょのかずのおおいじょうじんの1りとしてしゅんしょうのつれづれをなぐさめるために)

ない。ただこの好女の数の多い情人の一人として春宵のつれづれを慰めるために

(しのんできた。--それが、まだいちばんどりもなかないのに、こっそりとこを)

忍んで来た。――それが、まだ一番鶏も鳴かないのに、こっそり床を

(ぬけだして、さけくさいくちびるに、いっさいしゅじょうかいじょうぶつどうのみょうぎょうをどくじゅしようと)

ぬけ出して、酒臭い唇に、一切衆生皆成仏道の妙経を読誦しようと

(するのである。・・・・・・あざりはへんさんのえりをただして、せんねんにきょうをよんだ。それが、)

するのである。……阿闍梨は褊袗の襟を正して、専念に経を読んだ。それが、

(どのくらいつづいたかわからない。が、しばらくすると、きりとうだいのひが、)

どのくらいつづいたかわからない。が、暫くすると、切り燈台の火が、

(いつのまにか、すこしずつくらくなりだしたのにきがついた。ほのおのさきがあおくなって、)

いつの間にか、少しずつ暗くなり出したのに気がついた。焔の先が青くなって、

(ひかりがだんだんうすれてくる。とおもうと、ちょうじのまわりがすすのたまったように)

光がだんだん薄れて来る。と思うと、丁子のまわりが煤のたまったように

など

(くろみだして、おいおいにひのかたちがいとほどにほそってしまう。あざりは、きにして23ど)

黒み出して、追々に火の形が糸ほどに細ってしまう。阿闍梨は、気にして二三度

(とうしんをかきたてた。けれども、くらくなることは、いぜんとしてかわりがない。)

燈心をかき立てた。けれども、暗くなる事は、依然として変りがない。

(そればかりか、ふときがつくと、あかりのくらくなるのにしたがって、きりとうだいのむこうの)

そればかりか、ふと気がつくと、灯の暗くなるのに従って、切り燈台の向うの

(くうきがひとところだけこくなって、それがしだいに、かげのようなひとのかたちになってくる。)

空気が一所だけ濃くなって、それが次第に、影のような人の形になって来る。

(あざりは、おもわずどっきょうのこえをたった。--「だれじゃ。」すると、こえにおうじて、)

阿闍梨は、思わず読経の声を断った。――「誰じゃ。」すると、声に応じて、

(そのかげからぼやけたへんじがつたってきた。「おゆるされ。これは、ごじょうにしのとういんの)

その影からぼやけた返事が伝って来た。「おゆるされ。これは、五条西の洞院の

(ほとりにすむおきなでござる。」あざりは、みをややあとへすべらせながらひとみを)

ほとりに住む翁でござる。」阿闍梨は、身を稍後へすべらせながら眸を

(こらして、じっとそのおきなをみた。おきなはきょうづくえのむこうにしろのすいかんのそでをかきあわせて、)

凝らして、じっとその翁を見た。翁は経机の向うに白の水干の袖を掻き合せて、

(しさいらしくすわっている。もうろうとはしながらも、えぼしのひもをながくむすびさげた)

仔細らしく坐っている。朦朧とはしながらも、烏帽子の紐を長くむすび下げた

(ものごしはまんざらこりのへんげともおもわれない。ことにきいろいかみをはったおうぎをもって)

物ごしは満更狐狸の変化とも思われない。殊に黄色い紙を張った扇を持って

(いるのが、あかりのくらいにもかかわらずけだかくはっきりとながめられた。「おきなとはなにの)

いるのが、灯の暗いにも関らず気高くはっきりと眺められた。「翁とは何の

(おきなじゃ。」「おう、おきなとばかりではごがてんまいるまい。ありようは、5じょうの)

翁じゃ。」「おう、翁とばかりでは御合点まいるまい。ありようは、五条の

(さえのかみでござる。」「そのさえのかみが、なんとしてこれへみえた。」「おきょうをうけたまわり)

道祖神でござる。」「その道祖神が、何としてこれへ見えた。」「御経を承わり

(もうしたうれしさに、せめて1ことなりともおれいもうそうとて、まかりいでたのでござる。」)

申した嬉しさに、せめて一語なりとも御礼申そうとて、罷り出たのでござる。」

(あざりはふしんらしくまゆをよせた。「どうみょうがほけきょうをよみたてまつるのは、つねのことじゃ。)

阿闍梨は不審らしく眉をよせた。「道命が法華経を読み奉るのは、常の事じゃ。

(こよいにかぎったことではない。」「されば。」さえのかみは、ちょいとことばをきって、)

今宵に限った事ではない。」「されば。」道祖神は、ちょいと語を切って、

(しょうしょうたるこうはつのあたまを、ものうげにかたむけながらあいかわらずつぶやくような、かすかなこえで、)

種々たる黄髪の頭を、懶げに傾けながら不相変呟くような、かすかな声で、

(「きよくてよみたてまつらるるときには、かみはぼんてんたいしゃくよりしもはこうがしゃのしょぶつぼさつまで、)

「清くて読み奉らるる時には、上は梵天帝釈より下は恒河沙の諸仏菩薩まで、

(ことごとくちょうもんさせらるるものでござる。よっておきなはげせんのかなしさに、おんみちこうまいる)

悉く聴聞させらるるものでござる。よって翁は下賤の悲しさに、御身近うまいる

(こともかないもうさぬ。こよいは--」といいかけながら、きゅうにひにくなちょうしになって、)

事もかない申さぬ。今宵は――」と云いかけながら、急に皮肉な調子になって、

(「こよいは、ごぎょうずいもあそばされず、かつにょにんのはだにふれられてのごずきょうで)

「今宵は、御行水も遊ばされず、且つ女人の肌に触れられての御誦経で

(ござれば、もろもろのぶつじんもふじょうをいんで、このあたりへはげんぜられぬげにみえ)

ござれば、諸々の仏神も不浄を忌んで、このあたりへは現ぜられぬげに見え

(もうした。されば、おきなもこころやすうけんざんにはいり、ちょうもんのおれいもうそうべんぎを、えたので)

申した。されば、翁も心安う見参に入り、聴聞の御礼申そう便宜を、得たので

(ござる。」「なんとな。」どうみょうあざりは、ふきげんらしくこえをとがらせた。)

ござる。」「何とな。」道命阿闍梨は、不機嫌らしく声をとがらせた。

(さえのかみは、それにもきのつかないようすで、「されば、えしんのごぼうも、ねんぶつどっきょう)

道祖神は、それにも気のつかない容子で、「されば、恵心の御房も、念仏読経

(しいぎをやぶることなかれとおおせられた。おきなのかほうは、やがてごぼうのだごくのあくしゅと)

四威儀を破る事なかれと仰せられた。翁の果報は、やがて御房の堕獄の悪趣と

(おぼしめされ、こうごは・・・・・・」「だまれ。」あざりは、てくびにかけたすいしょうのねんじゅを)

思召され、向後は……」「黙れ。」阿闍梨は、手頸にかけた水晶の念珠を

(まさぐりながら、するどくおきなのかおを1べんした。「ふしょうながらどうみょうは、あらゆる)

まさぐりながら、鋭く翁の顔を一眄した。「不肖ながら道命は、あらゆる

(きょうもんろんしゃくにまなこをさらした。ぼんびゃくのかいぎょうとくもくもしゅうせなんだものはない。)

経文論釈に眼を曝した。凡百の戒行徳目も修せなんだものはない。

(そのほうづれのもうすことにきがつかぬうつけとおもうか。」--が、さえのかみは)

その方づれの申す事に気がつかぬうつけと思うか。」――が、道祖神は

(こたえない。きりとうだいのかげにうずくまったまま、じっとあたまをたれて、あざりのことばを、)

答えない。切り燈台のかげに蹲ったまま、じっと頭を垂れて、阿闍梨の語を、

(ききすましているようである。「ようきけよ。しょうじそくねはんといい、ぼんのうそくぼだいと)

聞きすましているようである。「よう聞けよ。生死即涅槃と云い、煩悩即菩提と

(いうは、ことごとくおのがみのぶっしょうをかんずるというこころじゃ。おのがにくしんは、3じんそくいつの)

云うは、悉く己が身の仏性を観ずると云う意じゃ。己が肉身は、三身即一の

(ほんがくにょらい、ぼんのうごうくのさんどうは、ほっしんはんにゃげだつのさんとく、しゃばせかいは)

本覚如来、煩悩業苦の三道は、法身般若外脱の三徳、娑婆世界は

(じょうじゃっこうどにひとしい。どうみょうはむかいのびくじゃが、すでに3かん3たいそくいっしんのだいごみを)

常寂光土にひとしい。道命は無戒の比丘じゃが、既に三観三諦即一心の醍醐味を

(みとくした。よって、いずみしきぶも、どうみょうがまなこにはまやふじんじゃ。なんにょのきょうかいも)

味得した。よって、和泉式部も、道命が眼には麻耶夫人じゃ。男女の交会も

(ばんぜんのくどくじゃ。われらがしんじょには、くおんほんじのしょほう、むさほっしんのしょぶつなど、ことごとく)

万善の功徳じゃ。われらが寝所には、久遠本地の諸法、無作法身の諸仏等、悉く

(えいげんしたまうぞよ。されば、どうみょうがじゅうしょはりょうじゅほうどじゃ。そのほうづれごとき、)

影顕し給うぞよ。されば、道命が住所は霊鷲宝土じゃ。その方づれ如き、

(しょうじょうしゅうふんのじかいしゃが、みだりにあしをいるべきのぶっこくでない。」こういってあざりは)

小乗臭糞の持戒者が、妄に足を容るべきの仏国でない。」こう云って阿闍梨は

(かたちをあらためると、すいしょうのねんじゅをふって、にがにがしげにしかりつけた。「ごうちく、)

容をあらためると、水晶の念珠を振って、苦々しげに叱りつけた。「業畜、

(きゅうきゅうにのきおろう。」すると、おきなは、きいろいかみのおうぎをひらいて、かおをさしかくす)

急々に退き居ろう。」すると、翁は、黄いろい紙の扇を開いて、顔をさしかくす

(ようにおもわれたが、みるみる、かげがうすくなって、ほたるほどになったきりとうだいのひと)

ように思われたが、見る見る、影が薄くなって、蛍ほどになった切り燈台の火と

(ともに、きえるともなく、ふっときえる--と、とおくでかすかながら、いさましい)

共に、消えるともなく、ふっと消える――と、遠くでかすかながら、勇ましい

(いちばんどりのこえがした。「はるはあけぼの、ようようしろくなりゆく」ときが)

一番鶏の声がした。「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく」時が

(きたのである。)

来たのである。

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