芥川龍之介『沼地』

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投稿者投稿者由佳梨いいね1お気に入り登録1
プレイ回数1506難易度(5.0) 4012打 長文
展覧会で観た奇妙な色彩の絵に心を強く惹かれた短編小説。

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(あるあめのふるひのごごであった。わたくしはあるかいがてんらんかいじょうの1しつで、ちいさなあぶらえを) ある雨の降る日の午後であった。私はある絵画展覧会場の一室で、小さな油絵を (1まいはっけんした。はっけん--というとおおげさだが、じっさいそういってもさしつかえない) 一枚発見した。発見――と云うと大袈裟だが、実際そう云っても差支えない (ほど、このえだけはおもいきってさいこうのわるいかたすみに、それもおそろしくひんじゃくなふちへ) ほど、この画だけは思い切って彩光の悪い片隅に、それも恐しく貧弱な縁へ (はいって、わすれられたようにかかっていたのである。えはたしか、「ぬまち」とか) はいって、忘れられたように懸かっていたのである。画は確か、「沼地」とか (いうので、がかはちめいのひとでもなんでもなかった。またえそのものも、ただにごった) 云うので、画家は知名の人でも何でもなかった。また画そのものも、ただ濁った (みずと、しめったつちと、そうしてそのつちにはんもするそうもくとをかいただけだから、) 水と、湿った土と、そうしてその土に繁茂する草木とを描いただけだから、 (おそらくじんじょうなけんぶつからは、もじどおりいっこさえもうけなかったことであろう。そのうえ) 恐らく尋常な見物からは、文字通り一顧さえも受けなかった事であろう。その上 (ふしぎなことにこのがかは、おううつたるそうもくをかきながら、1はけもみどりのいろをつかって) 不思議な事にこの画家は、蓊鬱たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を使って (いない。あしやぽぷらあやいちじゅくをいろどるものは、どこをみてもにごったきいろである。) いない。蘆や白楊や無花果を彩るものは、どこを見ても濁った黄色である。 (まるでぬれたかべつちのような、おもくるしいきいろである。このがかにはそうもくのいろがじっさい) まるで濡れた壁土のような、重苦しい黄色である。この画家には草木の色が実際 (そうみえたのであろうか。それともべつにこのむところがあって、ことさらこんなこちょうを) そう見えたのであろうか。それとも別に好む所があって、故意こんな誇張を (くわえたのであろうか。--わたくしはこのえのまえにたって、それからうけるかんじを) 加えたのであろうか。――私はこの画の前に立って、それから受ける感じを (あじわうとともに、こういうぎもんもまたさしはさまずにはいられなかったのである。しかし) 味うと共に、こう云う疑問もまた挟まずにはいられなかったのである。しかし (そのえのなかにおそろしいちからがひそんでいることは、みているにしたがってわかってきた。ことに) その画の中に恐しい力が潜んでいる事は、見ているに従って分って来た。殊に (ぜんけいのつちのごときは、そこをふむときのあしのこころもちまでもまざまざとかんじさせる) 前景の土のごときは、そこを踏む時の足の心もちまでもまざまざと感じさせる (ほど、それほどてきかくにかいてあった。ふむとぶすりとおとをさせてくるぶしがかくれる) ほど、それほど的確に描いてあった。踏むとぶすりと音をさせて踝が隠れる (ような、なめらかなおでいのこころもちである。わたくしはこのちいさなあぶらえのなかに、するどくしぜんを) ような、滑な淤泥の心もちである。私はこの小さな油画の中に、鋭く自然を (つかもうとしている、いたましいげいじゅつかのすがたをみだした。そうしてあらゆるすぐれた) 掴もうとしている、傷しい芸術家の姿を見出した。そうしてあらゆる優れた (げいじゅつひんからうけるように、このきいろいぬまちのそうもくからもこうこつたるひそうのかんげきを) 芸術品から受ける様に、この黄いろい沼地の草木からも恍惚たる悲壮の感激を (うけた。じっさいおなじかいじょうにかかっているだいしょうさまざまなえのなかで、この1まいに) 受けた。実際同じ会場に懸かっている大小さまざまな画の中で、この一枚に
など
(きっこうしえるほどちからづよいえは、どこにもみだすことができなかったのである。) 拮抗し得るほど力強い画は、どこにも見出す事が出来なかったのである。 (「たいへんにかんしんしていますね。」こういうことばとともにかたをたたかれたわたくしは、あたかも) 「大へんに感心していますね。」こう云う言と共に肩を叩かれた私は、あたかも (なにかがこころからふるいおとされたようなきもちがして、そつぜんとうしろをふりかえった。) 何かが心から振い落されたような気もちがして、卒然と後をふり返った。 (「どうです、これは。」あいてはむとんちゃくにこういいながら、かみそりをあてたばかりの) 「どうです、これは。」相手は無頓着にこう云いながら、剃刀を当てたばかりの (あごで、ぬまちのえをさししめした。りゅうこうのちゃのせびろをきた、かっぷくのいい、しょうそくつうを) 顋で、沼地の画をさし示した。流行の茶の背広を着た、恰幅の好い、消息通を (もってみずからにんじている、--しんぶんのびじゅつきしゃである。わたくしはこのきしゃからまえにも) 以て自ら任じている、――新聞の美術記者である。私はこの記者から前にも (12どふかいないんしょうをうけたおぼえがあるので、ふしょうぶしょうにへんじをした。「けっさく) 一二度不快な印象を受けた覚えがあるので、不承不承に返事をした。「傑作 (です。」「けっさく--ですか。これはおもしろい。」きしゃははらをゆすってわらった。その) です。」「傑作――ですか。これは面白い。」記者は腹を揺って笑った。その (こえにおどろかされたのであろう。ちかくでえをみていた23にんのけんぶつがみないいあわせた) 声に驚かされたのであろう。近くで画を見ていた二三人の見物が皆云い合せた (ようにこちらをみた。わたくしはいよいよふかいになった。「これはおもしろい。がんらいこの) ようにこちらを見た。私はいよいよ不快になった。「これは面白い。元来この (えはね、かいいんのえじゃないのです。が、なにしろとうにんがくちぐせのようにここへだす) 画はね、会員の画じゃないのです。が、何しろ当人が口癖のようにここへ出す (だすといっていたものですから、いぞくがしんさいんへたのんで、やっとこのすみへかける) 出すと云っていたものですから、遺族が審査員へ頼んで、やっとこの隅へ懸ける (ことになったのです。」「いぞく?じゃこのえをかいたひとはしんでいるのです) 事になったのです。」「遺族? じゃこの画を描いた人は死んでいるのです (か。」「しんでいるのです。もっともいきているなかから、しんだようなもの) か。」「死んでいるのです。もっとも生きている中から、死んだようなもの (でしたが。」わたくしのこうきしんはいつかわたくしのふかいなかんじょうよりつよくなっていた。) でしたが。」私の好奇心はいつか私の不快な感情より強くなっていた。 (「どうして?」「このえかきはよほどまえからきがちがっていたのです。」「このえを) 「どうして?」「この画描きは余程前から気が違っていたのです。」「この画を (かいたときもですか。」「もちろんです。きちがいででもなければ、だれがこんないろのえを) 描いた時もですか。」「勿論です。気違いででもなければ、誰がこんな色の画を (かくものですか。それをあなたはけっさくだといってかんしんしておいでなさる。そこが) 描くものですか。それをあなたは傑作だと云って感心してお出でなさる。そこが (おおいにおもしろいですね。」きしゃはまたとくいそうに、こえをあげてわらった。かれはわたくしが) 大に面白いですね。」記者はまた得意そうに、声を挙げて笑った。彼は私が (わたくしのふめいをはじるだろうとよそくしていたのであろう。あるいは1ぽすすめて、) 私の不明を恥じるだろうと予測していたのであろう。あるいは一歩進めて、 (かんしょうじょうにおけるかれじしんのゆうえつをわたくしにいんしょうさせようとおもっていたのかもしれない。) 鑑賞上における彼自身の優越を私に印象させようと思っていたのかも知れない。 (しかしかれのきたいは2つともむだになった。かれのはなしをきくとともに、ほとんど) しかし彼の期待は二つとも無駄になった。彼の話を聞くと共に、ほとんど (げんしゅくにもちかいかんじょうがわたくしのぜんせいしんにいいようのないはどうをあたえたからである。わたくしは) 厳粛にも近い感情が私の全精神に云いようのない波動を与えたからである。私は (しょうぜんとしてふたたびこのぬまちのえをぎょうしした。そうしてふたたびこのちいさなかんヴぁすの) 悚然として再びこの沼地の画を凝視した。そうして再びこの小さなカンヴァスの (なかに、おそろしいしょうそうとふあんとにさいなまれているいたましいげいじゅつかのすがたをみだした。) 中に、恐しい焦躁と不安とに虐まれている傷しい芸術家の姿を見出した。 (「もっともえがおもうようにかけないというので、きがちがったらしいですがね。) 「もっとも画が思うように描けないと云うので、気が違ったらしいですがね。 (そのてんだけはまあかえばかってやれるのです。」きしゃははればれしたかおをして、) その点だけはまあ買えば買ってやれるのです。」記者は晴々した顔をして、 (ほとんどうれしそうにびしょうした。これがむめいのげいじゅつかが--われわれの1りが、その) ほとんど嬉しそうに微笑した。これが無名の芸術家が――我々の一人が、その (せいめいをぎせいにしてわずかにせけんからあがないえたゆいいつのほうしゅうだったのである。わたくしはぜんしんに) 生命を犠牲にして僅に世間から購い得た唯一の報酬だったのである。私は全身に (いようなせんりつをかんじて、みたびこのゆううつなあぶらえをのぞいてみた。そこにはうすぐらいそらと) 異様な戦慄を感じて、三度この憂鬱な油画を覗いて見た。そこにはうす暗い空と (みずとのあいだに、ぬれたおうどのいろをしたあしが、ぽぷらあが、いちじゅくが、しぜんそれじしんを) 水との間に、濡れた黄土の色をした蘆が、白楊が、無花果が、自然それ自身を (みるようなすさまじいいきおいでいきている。・・・・・・「けっさくです。」わたくしはきしゃのかおを) 見るような凄じい勢いで生きている。……「傑作です。」私は記者の顔を (まともにみつめながら、こうぜんとしてこうくりかえした。) まともに見つめながら、昂然としてこう繰返した。
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