芥川龍之介『尾生の信』

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投稿者投稿者由佳梨いいね1お気に入り登録1
プレイ回数979順位1582位  難易度(5.0) 3574打 長文
中国古典から発想を得た、川の側で女を待つ男、尾生の小説小品。
順位 名前 スコア 称号 打鍵/秒 正誤率 時間(秒) 打鍵数 ミス 問題 日付
1 夏の思ひに 4905 B 5.1 96.2% 697.6 3560 138 47 2024/10/15

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問題文

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(びせいははしのしたにたたずんで、さっきからおんなのくるのをまっている。みあげると、たかい)

尾生は橋の下に佇んで、さっきから女の来るのを待っている。見上げると、高い

(いしのきょうらんには、つたかずらがなかばはいかかって、ときどきそのあいだをとおりすぎるおうらいのひとの)

石の橋欄には、蔦蘿が半ば這いかかって、時々その間を通りすぎる往来の人の

(はくいのすそが、あざやかないりひにてらされながら、ゆうゆうとかぜにふかれていく。が、)

白衣の裾が、鮮やかな入日に照らされながら、悠々と風に吹かれて行く。が、

(おんなはいまだにこない。びせいはそっとくちぶえをならしながら、きがるくはしのしたのすを)

女は未だに来ない。尾生はそっと口笛を鳴しながら、気軽く橋の下の洲を

(みわたした。はしのしたのこうでいのすは、2つぼばかりのひろさをあまして、すぐにみずとつづいて)

見渡した。橋の下の黄泥の洲は、二坪ばかりの広さを剰して、すぐに水と続いて

(いる。みずぎわのあしのあいだには、おおかたかにのすみかであろう、いくつもまるいあながあって、)

いる。水際の蘆の間には、大方蟹の棲家であろう、いくつも円い穴があって、

(そこへなみがあたるたびに、たぶりというかすかなおとがきこえた。が、おんなはいまだに)

そこへ波が当る度に、たぶりと云うかすかな音が聞こえた。が、女は未だに

(こない。びせいはややまちどおしそうにみずぎわまでほをうつして、ふね1そうとおらないしずかな)

来ない。尾生はやや待遠しそうに水際まで歩を移して、舟一艘通らない静な

(かわすじをながめまわした。かわすじにはあおいあしが、すきまもなくひしひしとはえている。)

川筋を眺めまわした。川筋には青い蘆が、隙間もなくひしひしと生えている。

(のみならずそのあしのあいだには、ところどころにかわやなぎが、こんもりとまるくしげっている。だから)

のみならずその蘆の間には、所々に川楊が、こんもりと円く茂っている。だから

(そのあいだをぬうみずのおもても、かわはばのわりにはひろくみえない。ただ、おびほどのすんだ)

その間を縫う水の面も、川幅の割には広く見えない。ただ、帯ほどの済んだ

(みずが、きららのようなくものかげをたった1つめっきしながら、ひっそりとあしのなかに)

水が、雲母のような雲の影をたった一つ鍍金しながら、ひっそりと蘆の中に

(うねっている。が、おんなはいまだにこない。びせいはみずぎわからほをめぐらせて、こんどは)

うねっている。が、女は未だに来ない。尾生は水際から歩をめぐらせて、今度は

(ひろくもないすのうえを、あちらこちらとあるきながら、おもむろにぼしょくをくわえて)

広くもない洲の上を、あちらこちらと歩きながら、おもむろに暮色を加えて

(いく、あたりのしずかさにみみをかたむけた。はしのうえにはしばらくのあいだ、こうじんのあとを)

行く、あたりの静かさに耳を傾けた。橋の上にはしばらくの間、行人の跡を

(たったのであろう。くつのおとも、ひづめのおとも、あるいはまたくるまのおとも、そこからは)

絶ったのであろう。沓の音も、蹄の音も、あるいはまた車の音も、そこからは

(もうきこえてこない。かぜのおと、あしのおと、みずのおと、--それからどこかで)

もう聞えて来ない。風の音、蘆の音、水の音、――それからどこかで

(けたたましく、あおさぎのなくこえがした。とおもってたちどまると、いつかしおがさしだした)

けたたましく、蒼鷺の啼く声がした。と思って立止ると、いつか潮がさし出した

(とみえて、こうでいをあらうみずのいろが、さっきよりはまぢかにひかっている。が、おんなは)

と見えて、黄泥を洗う水の色が、さっきよりは間近に光っている。が、女は

(いまだにこない。びせいはけわしくまゆをひそめながら、はしのしたのうすぐらいすを、)

未だに来ない。尾生は険しく眉をひそめながら、橋の下のうす暗い洲を、

など

(いよいよあしばやにあるきはじめた。そのうちにかわのみずは、1すんずつ、1しゃくずつ、しだいに)

いよいよ足早に歩き始めた。その内に川の水は、一寸ずつ、一尺ずつ、次第に

(すのうえへあがってくる。どうじにまたかわからたちのぼるものにおいやみずのにおいも、つめたくはだに)

洲の上へ上って来る。同時にまた川から立昇る藻の匀や水の匀も、冷たく肌に

(まつわりだした。みあげると、もうはしのうえにはあざやかないりひのひかりがきえて、)

まつわり出した。見上げると、もう橋の上には鮮やかな入日の光が消えて、

(ただ、いしのきょうらんばかりが、ほのかにあおんだくれがたのそらを、くろぐろとただしくきりぬいて)

ただ、石の橋欄ばかりが、ほのかに青んだ暮方の空を、黒々と正しく切り抜いて

(いる。が、おんなはいまだにこない。びせいはとうとうたちすくんだ。かわのみずはもうくつを)

いる。が、女は未だに来ない。尾生はとうとう立ちすくんだ。川の水はもう沓を

(ぬらしながら、こうてつよりもひややかなひかりをたたえて、まんまんとはしのしたにひろがっている。)

濡しながら、鋼鉄よりも冷やかな光を湛えて、漫々と橋の下に広がっている。

(すると、ひざも、はらも、むねも、おそらくはけいこくをでないうちに、このこくはくなまんちょうのみずに)

すると、膝も、腹も、胸も、恐らくは頃刻を出ない内に、この酷薄な満潮の水に

(かくされてしまうのにそういあるまい。いや、そういううちにもみずかさはますますたかくなって、)

隠されてしまうのに相違あるまい。いや、そう云う内にも水嵩は益高くなって、

(いまではとうとうりょうはぎさえも、かわなみのしたにぼっしてしまった。が、おんなはいまだに)

今ではとうとう両脛さえも、川波の下に没してしまった。が、女は未だに

(こない。びせいはみずのなかにたったまま、まだいちるののぞみをたよりに、なんどもはしのそらへ)

来ない。尾生は水の中に立ったまま、まだ一縷の望を便りに、何度も橋の空へ

(めをやった。はらをひたしたみずのうえには、とうにそうぼうたるぼしょくがたちこめて、おちこちに)

眼をやった。腹を浸した水の上には、とうに蒼茫たる暮色が立ち罩めて、遠近に

(しげったあしややなぎも、さびしいはずれのおとばかりを、ぼんやりしたもやのなかからおくって)

茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりした靄の中から送って

(くる。と、びせいのはなをかすめて、すずきらしいさかなが1ぴき、ひらりとしろいはらをひるがえした。)

来る。と、尾生の鼻を掠めて、鱸らしい魚が一匹、ひらりと白い腹を翻した。

(そのさかなのおどったそらにも、まばらながらもうほしのひかりがみえて、つたかずらのからんだきょうらんの)

その魚の躍った空にも、疎ながらもう星の光が見えて、蔦蘿のからんだ橋欄の

(かたちさえ、いちはやいよいやみのなかにまぎれている。が、おんなはいまだにこない。・・・・・・)

形さえ、いち早い宵暗の中に紛れている。が、女は未だに来ない。……

(--------)

――――――――

(やはん、つきのひかりが1せんのあしとやなぎとにあふれたとき、かわのみずとびふうとはしずかにささやきかわし)

夜半、月の光が一川の蘆と柳とに溢れた時、川の水と微風とは静に囁き交し

(ながら、はしのしたのびせいのしがいを、やさしくうみのほうへはこんでいった。が、びせいの)

ながら、橋の下の尾生の死骸を、やさしく海の方へ運んで行った。が、尾生の

(たましいは、さびしいてんしんのつきのひかりに、おもいこがれたせいかもしれない。ひそかにしがいを)

魂は、寂しい天心の月の光に、思い憧れたせいかも知れない。ひそかに死骸を

(ぬけだすと、ほのかにあかるんだそらのむこうへ、まるでみずのにおいやものにおいがおともなく)

抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水の匀や藻の匀が音もなく

(かわからたちのぼるように、うらうらとたかくのぼってしまった。・・・・・・それからいくせんねんか)

川から立ち昇るように、うらうらと高く昇ってしまった。……それから幾千年か

(をへだてたのち、このたましいはむすうのるてんをけみして、またせいをじんかんにたくさなければ)

を隔てた後、この魂は無数の流転を閲して、また生を人間に託さなければ

(ならなくなった。それがこういうわたしにやどっているたましいなのである。だからわたしは)

ならなくなった。それがこう云う私に宿っている魂なのである。だから私は

(げんだいにうまれはしたが、なにひとついみのあるしごとができない。ひるもよるもまんぜんと)

現代に生れはしたが、何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と

(ゆめみがちなせいかつをおくりながら、ただ、なにかきたるべきふかしぎなものばかりを)

夢みがちな生活を送りながら、ただ、何か来るべき不可思議なものばかりを

(まっている。ちょうどあのびせいがはくぼのはしのしたで、えいきゅうにこないこいびとを)

待っている。ちょうどあの尾生が薄暮の橋の下で、永久に来ない恋人を

(いつまでもまちくらしたように。)

いつまでも待ち暮したように。

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