源氏物語 若菜上2-1「乳母と兄左中弁との相談」
問題文
(このおんうしろみどものなかに、おもおもしきおんめのとのあに、さちゅうべんなる、)
この御後見どもの中に、重々しき御乳母の兄、左中弁なる、
(かのいんのしたしきひとにて、としごろつかうまつるありけり。)
かの院の親しき人にて、年ごろ仕うまつるありけり。
(このみやにもこころよせことにてさぶらへば、まいりたるにあひて、ものがたりするついでに、)
この宮にも心寄せことにてさぶらへば、参りたるにあひて、物語するついでに、
(「うへなむ、しかしかみけしきありてきこえたまひしを、かのいんに、)
「主上なむ、しかしか御けしきありて聞こえたまひしを、かの院に、
(をりあらばもらしきこえさせたまへ。ひめみこたちは、)
折あらば漏らしきこえさせたまへ。皇女たちは、
(ひとりおはしますこそはれいのことなれど、さまざまにつけてこころよせたてまつり、)
独りおはしますこそは例のことなれど、さまざまにつけて心寄せたてまつり、
(なにごとにつけても、おんうしろみしたまふひとあるはたのもしげなり。)
何ごとにつけても、御後見したまふ人あるは頼もしげなり。
(うへをおきたてまつりて、またまごころにおもひきこえたまふべきひともなければ、)
主上をおきたてまつりて、また真心に思ひきこえたまふべき人もなければ、
(おのらは、つかうまつるとても、なにばかりのみやづかへにかあらむ。)
おのらは、仕うまつるとても、何ばかりの宮仕へにかあらむ。
(わがこころひとつにしもあらで、おのづからおもひのほかのこともおはしまし、)
わが心一つにしもあらで、おのづから思ひの他のこともおはしまし、
(かろがろしききこえもあらむときには、いかさまにかは、わづらはしからむ。)
軽々しき聞こえもあらむ時には、 いかさまにかは、わづらはしからむ。
(ごろうずるよに、ともかくも、このおんことさだまりたらば、)
御覧ずる世に、ともかくも、この御こと定まりたらば、
(つかうまつりよくなむあるべき。)
仕うまつりよくなむあるべき。
(かしこきすぢときこゆれど、をんなは、いとすくせさだめがたくおはしますものなれば、)
かしこき筋と聞こゆれど、女は、いと宿世定めがたくおはしますものなれば、
(よろづになげかしく、かくあまたのおんなかに、とりわききこえさせたまふにつけても、)
よろづに嘆かしく、かくあまたの御中に、取り分ききこえさせ給ふにつけても、
(ひとのねたみあべかめるを、いかでちりもすえたてまつらじ」とかたらふに、べん、)
人の嫉みあべかめるを、いかで塵も据ゑたてまつらじ」と語らふに、弁、
(「いかなるべきおんことにかあらむ。いんは、あやしきまでみこころながく、)
「いかなるべき御ことにかあらむ。院は、あやしきまで御心長く、
(かりにてもみそめたまへるひとは、みこころとまりたるをも、)
仮にても見そめたまへる人は、御心とまりたるをも、
(ふかからざりけるをも、かたがたにつけてたづねとりたまひつつ、)
深からざりけるをも、かたがたにつけて尋ね取りたまひつつ、
(あまたつどへきこえたまへれど、やむごとなくおぼしたるは、かぎりありて、)
あまた集へきこえ給へれど、やむごとなく思したるは、限りありて、
(ひとかたなめれば、それにことよりて、かひなげなるすまひしたまふかたがたこそは)
一方なめれば、それにことよりて、かひなげなる住まひしたまふ方々こそは
(おほかめるを、おんすくせありて、もし、さやうにおはしますやうもあらば、)
多かめるを、御宿世ありて、もし、さやうにおはしますやうもあらば、
(いみじきひとときこゆとも、たちなびておしたちたまふことは、)
いみじき人と聞こゆとも、立ち並びておしたちたまふことは、
(えあらじとこそはおしはからるれど、)
えあらじとこそは推し量らるれど、
(なほ、いかがとはばからるることありてなむおぼゆる。)
なほ、 いかがと憚らるることありてなむおぼゆる。
(さるは、「このよのさかえ、すえのよにすぎて、みにこころもとなきことはなきを、)
さるは、『この世の栄え、末の世に過ぎて、身に心もとなきことはなきを、
(をんなのすぢにてなむ、ひとのもどきをもおひ、わがこころにもあかぬこともある」となむ、)
女の筋にてなむ、人のもどきをも負ひ、わが心にも飽かぬこともある』となむ、
(つねにうちうちのすさびごとにもおぼしのたまはすなる。)
常にうちうちのすさびごとにも思しのたまはすなる。
(げに、おのれらがみたてまつるにも、さなむおはします。かたがたにつけて、)
げに、おのれらが見たてまつるにも、さなむおはします。かたがたにつけて、
(おんかげにかくしたまへるひと、みなそのひとならずたちくだれるきはにはものしたまはねど、)
御蔭に隠したまへる人、皆その人ならず立ち下れる際にはものしたまはねど、
(かぎりあるただびとどもにて、いんのおんありさまにならぶべきおぼえぐしたるやは)
限りあるただ人どもにて、院の御ありさまに並ぶべきおぼえ具したるやは
(おはすめる。それに、おなじくは、げにさもおはしまさば、)
おはすめる。それに、同じくは、げにさもおはしまさば、
(いかにたぐひたるおんあはひならむ」とかたらふを、)
いかにたぐひたる御あはひならむ」と語らふを、