南洲翁遺訓〈現代語訳〉21~23
詳しくは大家の翻訳を参照してください。
前半の「1~20」は、主に為政者(上に立つ者)としての訓えが説かれ、
後半の「21~41」は、主に個人の修身についての訓えが説かれています。
個人的には後半の「21~」進めるのがお勧めです。
ローマ字欄に原文を記載してあります。
盛和塾関係の方に是非おすすめです。
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問題文
(みちというものは、てんちしぜんのどうりであるから、)
道というものは、天地自然の道理であるから、
道は天地自然の道なるゆゑ、
(こうがくのみちは「けいてんあいじん」をもくてきとし、)
講学の道は「敬天愛人」を目的とし、
講學の道は敬天愛人を目的とし、
(わがみをおさめるには、こっきをもってしゅうししなさい。)
我が身を修めるには、克己をもって終始しなさい。
身を修するに克己を以て終始せよ。
(おのれにかつということ、それをひとことでずばりいうならば、それはろんごにある、)
己に克つということ、それを一言でずばり言うならば、それは論語にある、
己れに克つの極功は
(「いなし、ひつなし、こなし、がなし」である。)
「意なし、必なし、固なし、我なし」である。
「毋意、毋必、毋固、毋我」と云へり。
(わがままにしない。むりおしをしない。がんこにしゅうちゃくしない。がをとおさない。)
我が儘にしない。無理押しをしない。頑固に執着しない。我を通さない。
「毋意、毋必、毋固、毋我」と云へり。
(ということにつきる。)
という事に尽きる。
「毋意、毋必、毋固、毋我」と云へり。
(そうじてひとはおのれにかつことによってせいこうし、じぶんをあいすることによってしっぱいするのだ。)
総じて人は己に克つ事によって成功し、自分を愛する事によって失敗するのだ。
總じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るゝぞ。
(ここんのじんぶつをよくみてみるがよい。)
古今の人物をよく見てみるが良い。
能く古今の人物を見よ。
(じぎょうをおこすひとが、たいていそのじぎょうのはちわりがたまではなしえるのであるが、)
事業を興す人が、大抵その事業の八割がた迄は成し得るのであるが、
事業を創起する人其事大抵十に七八迄は能く成し得れ共、
(のこりのにわりをおわりまでなしえるひとはすくない。)
残りの二割を終りまで成し得る人は少ない。
殘り二つを終る迄成し得る人の希れなるは、
(これは、はじめはよくおのれをつつしんでことをうやまい、)
これは、始めはよく己を慎んで事を敬い、
始は能く己れを愼み事をも敬する故、
(しんちょうにことをすすめることから、せいこうしゆうめいにもなる。)
慎重に事を進めることから、成功し有名にもなる。
功も立ち名も顯るゝなり。
(ところがせいこうしてゆうめいになるにしたがって、しだいにじぶんをあいするこころがおこり、)
ところが成功して有名になるに従って、次第に自分を愛する心が起こり、
功立ち名顯るゝに隨ひ、いつしか自ら愛する心起り、
(かしこまりいましめつつしむというしょしのこころがゆるみ、じょじょにおごりごうまんなきしょうがそだってしまう。)
畏まり戒め慎むという初志の心が弛み、徐々に驕り傲慢な気性が育ってしまう。
恐懼戒愼の意弛み、驕矜の氣漸く長じ、
(そうして、おのれのなしえたしごとをみてなんでもできるというふめいなかしんのもとに、)
そうして、己の成し得た仕事を見て何でも出来るという不明な過信のもとに、
其成し得たる事業を負み、苟も我が事を仕遂んとて
(まずいしごとをするようになり、ついぞしっぱいするのだ。)
まずい仕事をするようになり、ついぞ失敗するのだ。
まづき仕事に陷いり、終に敗るゝものにて、
(これらはすべてじぶんがまねいたけっかなのである。)
これらは全て自分が招いた結果なのである。
皆な自ら招く也。
(だから、おのれにうちかって、)
だから、己に打ち克って、
故に己れに克ちて、
(たとえだれもみていないときも、きいていないときでも、つねにおのれをつつしみいましめる、)
たとえ誰も見ていない時も、聞いていない時でも、常に己を慎み戒める、
睹ず聞かざる所に戒愼するもの也。
(これがいかにだいじかということなのだ。)
これがいかに大事かという事なのだ。
(おのれにかつということは、そのときどき、そのばそのばで、)
己に克つと言う事は、その時々、その場その場で、
己れに克つに、事々物々
(そのつどにかとうとするようなことでは、なかなかうちかてえないのだ。)
その都度に克とうとするようなことでは、なかなか打ち克て得ないのだ。
時に臨みて克つ樣にては克ち得られぬなり。
(かねてせいしんをふるいおこし、こんぽんからおのれにかつようしゅうようしなくてはだめだ。)
かねて精神を奮い起こし、根本から己に克つよう修養しなくてはだめだ。
兼て氣象を以て克ち居れよと也。
(がくをこころざすものは、そのりそうせいしんのきぼをこうだいにしなければならない。)
学を志す者は、その理想精神の規模を宏大にしなければならない。
學に志す者、規模を宏大にせずば有る可からず。
(しかしながら、ただそのことのみかたよってこしつしてしまっていると、)
しかしながら、ただその事のみ偏って固執してしまっていると、
去りとて唯此こにのみ偏倚すれば、
(ぎゃくにじしんのこんぽんをおさめることが、おろそかになってゆくことになってしまう。)
逆に自身の根本を修める事が、おろそかになってゆくことになってしまう。
或は身を修するに疎に成り行くゆゑ、
(だからてっとうてつび、おのれにうちかつことにてわがみをおさめなさい。)
だから徹頭徹尾、己に打ち克つことにて我が身を修めなさい。
終始己れに克ちて身を修する也。
(りそうせいしんのきぼをこうだいにしておのれにかち、だんしはあらゆるひとをかんようするも、)
理想精神の規模を宏大にして己に克ち、男子はあらゆる人を寛容するも、
規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、
(ぎゃくにひとにゆるされているようではだめである、というくらいにおもいなさい。)
逆に人に宥されているようではだめである、というくらいに思いなさい。
人に容れられては濟まぬものと思へよと、
(このようにおっしゃり、こじんのことばをかいてさずけてくれた。)
このように仰り、古人の言葉を書いて授けてくれた。
古語を書て授けらる。
(「そのこころざし、せいしんをおしひろめようとするものにとって、)
「その志、精神を押し広めようとする者にとって、
「其ノ志氣ヲ恢宏スル者ハ、
(もっともうれうべきことのだいいちは、)
最も憂うべき事の第一は、
人之患ハ大ナルハ莫シ。
(できることもせずじこのことばかりはかり、いやしくていぞくなせいかつにやすんじ、)
出来ることもせず自己の事ばかり謀り、卑しく低俗な生活に安んじ、
乎下自私自吝、於卑俗ニ安ジテ、
(かこのいじんをてほんとなすようなことをみずからしない、ということだ」)
過去の偉人を手本と為すようなことを自らしない、ということだ」
而古人ヲ以テ自ラ期セ不ル。」
(そのかこのいじんをてほんとなすことのしんいを、ぐたいてきにおたずねしたところ、)
その過去の偉人を手本と為すことの真意を、具体的にお尋ねしたところ、
古人を期するの意を請問せしに、
(ぎょうとしゅん(ともにこだいちゅうごくのいだいなていおう)をもっててほんとし、)
尭と舜(共に古代中国の偉大な帝王)を以って手本とし、
堯舜を以て手本とし、
(こうしをおしえのしとしてよくべんきょうしなさい、とおっしゃった。)
孔子を教えの師としてよく勉強しなさい、と仰った。
孔夫子を教師とせよとぞ。