南洲翁遺訓〈現代語訳〉34~36
詳しくは大家の翻訳を参照してください。
前半の「1~20」は、主に為政者(上に立つ者)としての訓えが説かれ、
後半の「21~41」は、主に個人の修身についての訓えが説かれています。
個人的には後半の「21~」進めるのがお勧めです。
ローマ字欄に原文を記載してあります。
盛和塾関係の方に是非おすすめです。
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問題文
(さくりゃくやぼうりゃくなどは、へいじにはもちいるべきではない。)
策略や謀略などは、平時には用いるべきではない。
作略は平日致さぬものぞ。
(はかりごとをもっておこなったことは、)
謀ごとをもって行なった事は、
作略を以てやりたる事は、
(そのけっかをみればよくないことがあきらかで、かならずこうかいすることになる。)
その結果を見れば善くない事が明らかで、必ず後悔することになる。
其迹を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。
(だがぎゃくにせんそうのばあいにかぎっては、さくりゃくがなければならない。)
だが逆に戦争の場合に限っては、策略が無ければならない。
唯戰に臨みて作略無くばあるべからず。
(しかし、ふだんからさくりゃくをおこなっているようであると、いざたたかいにのぞむとき、)
しかし、普段から策略を行っているようであると、いざ戦いに臨むとき、
併し平日作略を用れば、戰に臨みて
(じょうずなさくりゃくはけっしてできず、それがつうじもしない。)
上手な策略は決して出来ず、それが通じもしない。
作略は出來ぬものぞ。
(しょかつこうめいはへいじにはさくりゃくをしないにんげんであったから、いざことにのぞみ、)
諸葛孔明は平時には策略をしない人間であったから、いざ事に臨み、
孔明は平日作略を致さぬゆゑ、
(あのようなみごとなさくりゃくをおこなうことができたのだ。)
あのような見事な策略を行うことが出来たのだ。
あの通り奇計を行はれたるぞ。
(わたしはかつてとうきょうからみをしりぞくにあたって、おとうとのつぐみちにむかい、)
私はかつて東京から身を退くに当たって、弟の従道に向かい、
予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、
(「じぶんはこれまでまったくといってよいほど、はかりごとをやったことがないので、)
「自分はこれまで全くと言って良いほど、謀ごとをやった事が無いので、
是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆゑ、
(ここをひきあげたのちも、あとはすこしもにごることはないであろう。)
ここを引揚げた後も、跡は少しも濁ることは無いであろう。
跡は聊か濁るまじ、
(それだけはよくみておけ」)
それだけはよく見ておけ」
夫れ丈けは見れ
(といっておいた、ということである。)
と言っておいた、という事である。
と申せしとぞ。
(ひとをかどわかしかけひきをし、うらでこそこそとこざかしいさくりゃくするものは、)
人を拐かし駆け引きをし、裏でこそこそと小賢しい策略する者は、
人を籠絡して陰に事を謀る者は、
(そのばではしごとでせいかをおさめ、たとえせいこうしゃにみえていたとしても、)
その場では仕事で成果を収め、例え成功者に見えていたとしても、
好し其事を成し得る共、
(しんにものごとをよくみぬくひとからこれをみたばあい、)
真に物事をよく見抜く人からこれを見た場合、
慧眼けいがんより之を見れば、
(そのおこない、そのこころ、しゅうあくたることいちじるしいものだ。)
その行い、その心、醜悪たること著しいものだ。
醜状著るしきぞ。
(ひとにたいしてはなにごとにもこうへいで、つねにまことをつくしせっするようにしなさい。)
人に対しては何事にも公平で、常に誠を尽くし接するようにしなさい。
人に推すに公平至誠を以てせよ。
(こうへいでなければえいゆうのこころをつかむことはできないものだ。)
公平でなければ英雄の心を掴む事は出来ないものだ。
公平ならざれば英雄の心は決して攬られぬもの也。
(せいじんけんじゃになろうとするこころざしもこうじょうしんもない。)
聖人賢者になろうとする志も向上心もない。
聖賢に成らんと欲する志無く、
(むかしのひとがおこなったしじつやいぎょうをみても、)
昔の人が行なった史実や偉業をみても、
古人の事跡を見、
(このようなこと、とてもじぶんにはまねなどできない、)
このようなこと、とても自分には真似など出来ない、
迚も企て及ばぬ
(もし、このようにおもうこころがまえであるならば、)
もし、このように思う心構えであるならば、
と云ふ樣なる心ならば、
(それは、いざたたかいにのぞんでてきぜんでとうぼうすることよりも、なおひきょうなことだ。)
それは、いざ戦いに臨んで敵前で逃亡することよりも、なお卑怯なことだ。
戰に臨みて逃るより猶ほ卑怯なり。
(しゅしは「ぬいたかたなをみたとたんににげるものはどうしようもない」といわれた。)
朱子は「抜いた刀を見た途端に逃げる者はどうしようもない」と言われた。
朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云はれたり。
(まことのこころをもっていをつくし、もってせいじんけんじゃのしょをよむのだ。)
誠の心を持って意を尽くし、もって聖人賢者の書を読むのだ。
誠意を以て聖賢の書を讀み、
(かれらのしょうがいをかけてつちかわれたせいしんを、しんしんにたいけんするようなしゅうぎょうもしないで、)
彼らの生涯をかけて培われた精神を、心身に体験するような修業もしないで、
其の處分せられたる心を身に體し心に驗する修行致さず、
(ただたんに、「このようなことばをいわれた」「このようなじぎょうをされた」)
ただ単に、「このような言葉を言われた」「このような事業をされた」
唯个樣の言个樣の事と云ふ
(こんなひょうめんじょうのことをしるばかりでは、まったくもってなんのやくにもたたぬ。)
こんな表面上の事を知るばかりでは、全くもって何の役にも立たぬ。
のみを知りたるとも、何の詮無きもの也。
(わたしはこんにち、せじんのげんろんをきくに、それはいかにももっともらしくろんじている。)
私は今日、世人の言論を聞くに、それはいかにももっともらしく論じている。
予今日人の論を聞くに、何程尤もに論する共、
(だが、そのげんはじっこうやこうどう、たましいやせいしんにねざしてはいない。)
だが、その言は実行や行動、魂や精神に根差してはいない。
處分に心行き渡らず、
(ただくちさきだけのべんぜつであるならば、かんどうにおよばずひとのこころがうごくことなどない。)
ただ口先だけの弁舌であるならば、感動に及ばず人の心が動くことなどない。
唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。
(しんにたましいをふるわすおこないができるひとをみれば、むねをうちじつにりっぱだとかんどうするのだ。)
真に魂を震わす行いが出来る人を見れば、胸を打ち実に立派だと感動するのだ。
眞に其の處分有る人を見れば、實に感じ入る也。
(せいじんけんじゃのしょをただうわべだけよむごときならば、)
聖人賢者の書をただ上辺だけ読むごときならば、
聖賢の書を空く讀むのみならば、
(たとえば、たにんのけんじゅつをぼうかんしているだけなのとおなじで、)
たとえば、他人の剣術を傍観しているだけなのと同じで、
譬へば人の劒術を傍觀するも同じにて、
(すこしもじしんがけんじゅつをえとくしているわけではない。)
少しも自身が剣術を会得しているわけではない。
少しも自分に得心出來ず。
(じぶんのみでなにもえとくしていないのであれば、)
自分の身で何も会得していないのであれば、
自分に得心出來ずば、
(まんいち「いざたちあえ」といわれたとき、にげるよりほかないではないか。)
万一「いざ立ち会え」と言われた時、逃げるより他ないではないか。
萬一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也。