哲学の表現はなぜややこしいのか
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問題文
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(にほんごでてつがくをまなぶさい、とくゆうの「ややこしさ」をかんじるのはひじょうにしぜんな)
日本語で哲学を学ぶ際、特有の「ややこしさ」を感じるのは非常に自然な
(ことです。じつはこれには、にほんごというげんごそのもののせいしつだけでなく)
ことです。実はこれには、日本語という言語そのものの性質だけでなく
(にほんがめいじじだいにせいようてつがくをいっきにゆにゅうしたさいのれきしてきはいけいがふかく)
日本が明治時代に西洋哲学を一気に輸入した際の歴史的背景が深く
(かんけいしています。せいようてつがくをにほんごにほんやくするさい)
関係しています。西洋哲学を日本語に翻訳する際
(なんかいさをはねあげているりゆうはいかの4てんです。)
難解さを跳ね上げている理由は以下の4点です。
(1。めいじじだいにつくられた「たいりょうのなんかいなぞうご(わせいかんご)」)
1。明治時代に作られた「大量の難解な造語(和製漢語)」
(めいじいしんのさい、にしあまねやふくざわゆきちといったちしきじんたちは、それまでにほんに)
明治維新の際、西周や福沢諭吉といった知識人たちは、それまで日本に
(なかったせいようがいねんをりかいするために、かんじをくみあわせて)
なかった西洋概念を理解するために、漢字を組み合わせて
(あたらしいことば(わせいかんご)をきゅうぞうしました。)
新しい言葉(和製漢語)を急造しました。
(philosophy:てつがく subject/object:しゅたい/きゃくたい)
Philosophy:哲学 subject/object:主体/客体
(phenomenon:げんしょう substance:じったい)
Phenomenon:現象 substance:実体
(これらはとうじのえりーとたちがちゅうごくのこてんなどをさんこうにしてつくった)
これらは当時のエリートたちが中国の古典などを参考にして作った
(すばらしいやくごですが、にちじょうかいわではつかわない)
素晴らしい訳語ですが、日常会話では使わない
(「かんじのくみあわせによるちゅうしょうご」がいっきにふえることになりました。)
「漢字の組み合わせによる抽象語」が一気に増えることになりました。
(2。せいようの「being(ある/そんざいする)」にたいするにほんごがない)
2。西洋の「being(ある/存在する)」に対する日本語がない
(せいようてつがく(とくにぎりしゃ~きんだいどいつ)でもっともじゅうようながいねんのひとつが)
西洋哲学(特にギリシャ〜近代ドイツ)で最も重要な概念の一つが
(えいごのbeです。えいごのbeにはおもに2つのいみが1つのことばにどうきょしています)
英語のBeです。英語のBeには主に2つの意味が1つの言葉に同居しています
(1。そんざい(there is~/そこにある))
1。存在(There is~/そこにある)
(2。しゅごとじゅつごのけつごう(i am a/わたしはaである))
2。主語と述語の結合(I am A/私はAである)
(せいようてつがくはこの「be]というたんごをてっていてきにほりさげて「そんざいろん」を)
西洋哲学はこの「Be]という単語を徹底的に掘り下げて「存在論」を
など
(てんかいしました。しかし、にほんごにはこの2つをどうじにつなぐたんごが)
展開しました。しかし、日本語にはこの2つを同時につなぐ単語が
(そんざいしません。「そんざいする(ある)」と「~である」にやくしわけるしかなく)
存在しません。「存在する(ある)」と「〜である」に訳し分けるしかなく
(げんちょしゃが「be」というひとつのことばにこめたびみょうなにゅあんすやろんりの)
原著者が「Be」というひとつの言葉に込めた微妙なニュアンスや論理の
(つながりが、ほんやくのだんかいでぶんだん・ふくざつかしてしまいます。)
繋がりが、翻訳の段階で分断・複雑化してしまいます。
(3。しゅごをしょうりゃくするげんごvsしゅごをぜったいしするげんご)
3。主語を省略する言語vs主語を絶対視する言語
(にほんごはにちじょうてきに「しゅご」をしょうりゃくするげんごです。)
日本語は日常的に「主語」を省略する言語です。
(れい:「おなかがすいた」といえば、しゅごが「わたし」であることはじどうてきにわかる)
例:「お腹が空いた」と言えば、主語が「私」であることは自動的に分かる
(また、じゅつごがさいごにくるこうぞうをしています。いっぽうよーろっぱのげんごは)
また、述語が最後にくる構造をしています。一方ヨーロッパの言語は
(しゅごとどうしのうごきをはっきりさせるこうぞうです。せいようてつがくは「わたし(しゅかん)」が)
主語と動詞の動きをはっきりさせる構造です。西洋哲学は「私(主観)」が
(「せかい(きゃっかん)」をどうにんしきするか?というように、めいかくなしゅごともくてきご)
「世界(客観)」をどう認識するか?というように、明確な主語と目的語
(のたいりつをぜんていにろんりがくみたてられています。これを)
の対立を前提に論理が組み立てられています。これを
(「しゅごをぼかしたほうがしぜんにつたわるにほんご」にむりやりなおそうとすると)
「主語をぼかした方が自然に伝わる日本語」に無理やり直そうとすると
(「~によって~が~としてきていされるところの~」といった)
「〜によって〜が〜として規定されるところの〜」といった
(まわりくどくふしぜんなこうぶんにならざるをえません。)
回りくどく不自然な構文にならざるを得ません。
(4。ほんやくしゃごとの「やくごのゆれ」とせんもんようごか)
4。翻訳者ごとの「訳語のゆれ」と専門用語化
(おなじせいようのてつがくようごであっても、ほんやくするじだいやがくしゃによってやくごが)
同じ西洋の哲学用語であっても、翻訳する時代や学者によって訳語が
(ことなるけーすがたたあります。)
異なるケースが多々あります。
(えいごのidentity:「どういつせい」「じがどういつせい」など)
英語のIdentity:「同一性」「自我同一性」など
(どいつごのgeist:「せいしん」とやくされることもあれば「れい」や「こころ」と)
ドイツ語のGeist:「精神」と訳されることもあれば「霊」や「心」と
(やくされることもある。)
訳されることもある。
(これにより、てつがくしょをよむどくしゃは「ことばそのもののいみ」をりかいするまえに)
これにより、哲学書を読む読者は「言葉そのものの意味」を理解する前に
(「このちょしゃがつかっているこのかんじは、もとのげんごのどのたんごのことを)
「この著者が使っているこの漢字は、元の言語のどの単語のことを
(さしているのか?」というかいどくさぎょうをしいられることになり)
指しているのか?」という解読作業を強いられることになり
(これが「ややこしさ」をばいぞうさせています。)
これが「ややこしさ」を倍増させています。
(まとめ:にほんごやくの「ややこしさ」はぶんかのかくとうのれきし)
まとめ:日本語訳の「ややこしさ」は文化の格闘の歴史
(にほんごでのてつがくがなんかいなのは、たんに「にほんごがむずかしいから」だけではなく)
日本語での哲学が難解なのは、単に「日本語が難しいから」だけではなく
(「せいようのしこうこうぞう(しゅごじゅうし・beのぶんか)」を「とうようのげんごこうぞう)
「西洋の思考構造(主語重視・Beの文化)」を「東洋の言語構造
((じょうきょうじゅうし・かんけいせいのぶんか)」へとむりやりへんかんしたときにしょうじる)
(状況重視・関係性の文化)」へと無理やり変換したときに生じる
(ぎゃっぷがげんいんです。しかし、このなんかいなわせいかんご(てつがく、しゅかん、きゃくたいなど))
ギャップが原因です。しかし、この難解な和製漢語(哲学、主観、客体など)
(をつくったおかげで、にほんはおうべいいがいのくにのなかでいちはやくせいようのこうとうがくもんや)
を作ったおかげで、日本は欧米以外の国の中でいち早く西洋の高等学問や
(ぎじゅつをじこくごでまなべるようになったというおおきなこうせきもあります。)
技術を自国語で学べるようになったという大きな功績もあります。
(にほんごでてつがくをよむときにおもくかんじるのは、せんじんたちがいぶんかのしこうを)
日本語で哲学を読むときに重く感じるのは、先人たちが異文化の思考を
(にほんごになんとかおとしこもうとたたかったれきしのこんせきともいえます。)
日本語になんとか落とし込もうと戦った歴史の痕跡とも言えます。