夏目漱石「草枕」2
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問題文
(よのかんがえがここまでひょうりゅうしてきたたときに、)
余の考がここまで漂流して来た時に、
(よのうそくはとつぜんすわりのわるいかどいしのはしをふみそくなった。)
余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなった。
(へいこうをたもつために、すわやとまえにとびだしたさそくが、)
平衡を保つために、すわやと前に飛び出した左足が、
(しそんじのうめあわせをするとともに、)
仕損じの埋め合せをすると共に、
(よのこしはぐあいよくほうさんしゃくほどないわのうえにおりた。)
余の腰は具合よく方三尺ほどな岩の上に卸りた。
(かたにかけたえのぐはこがわきのしたからおどりだしただけで、さいわいとなんのこともなかった。)
肩にかけた絵の具箱が腋の下から躍り出しただけで、幸いと何の事もなかった。
(たちあがるときにむこうをみると、)
立ち上がる時に向うを見ると、
(みちからひだりのほうにばけつをふせたようなみねがそびえている。)
路から左の方にバケツを伏せたような峰が聳えている。
(すぎかひのきかわからないがねもとからいただきまでことごとくあおくろいなかに、)
杉か檜か分からないが根元から頂きまでことごとく蒼黒い中に、
(やまざくらがうすあかくだんだらにたなびいて、)
山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、
(つぎめがたしかとみえぬくらいもやがこい。)
続ぎ目が確しかと見えぬくらい靄が濃い。
(すこしてまえにはげやまがひとつ、ぐんをぬきんでてまゆにせままる。)
少し手前に禿山が一つ、群をぬきんでて眉に逼まる。
(はげたそくめんはきょじんのおのでけずりさったか、)
禿げた側面は巨人の斧で削り去ったか、
(えいどきへいめんをやけにたにのそこにうめている。)
鋭どき平面をやけに谷の底に埋めている。
(てっぺんにいっぽんみえるのはあかまつだろう。えだのあいだのそらさえはんぜんしている。)
天辺に一本見えるのは赤松だろう。枝の間の空さえ判然している。
(えだのあいだのそらさえはんぜんしている。ゆくてはにちょうほどできれているが、)
枝の間の空さえ判然している。行く手は二丁ほどで切れているが、
(たかいところからあかいもうふがうごいてくるのをみると、のぼればあすこへでるのだろう。)
高い所から赤い毛布が動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。
(みちはすこぶるなんぎだ。)
路はすこぶる難義だ。
(つちをならすだけならさほどてまもいるまいが、つちのなかにはおおきないしがある。)
土をならすだけならさほど手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。
(つちはたいらにしてもいしはたいらにならぬ。)
土は平らにしても石は平らにならぬ。
(いしはきりくだいても、いわはしまつがつかぬ。)
石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。
(ほりくずしたつちのうえにゆうぜんとそばだって、われらのためにみちをゆずるけしきはない。)
掘崩した土の上に悠然と峙だって、吾らのために道を譲る景色はない。
(むこうできかぬうえはのりこすか、まわらなければならん。)
向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。
(いわのないところでさえあるきよくはない。)
巌のない所でさえ歩きよくはない。
(さゆうがたかくって、ちゅうしんがくぼんで、まるでひとまはばをさんかくにえぐって、)
左右が高くって、中心が窪んで、まるで一間幅を三角に穿くって、
(そのちょうてんがまんなかをつらぬいているとひょうしてもよい。)
その頂点が真中を貫ぬいていると評してもよい。
(みちをいくといわんよりかわぞこをわたるというほうがてきとうだ。)
路を行くと云わんより川底を渉と云う方が適当だ。
(もとよりいそぐたびでないから、ぶらぶらとななまがりへかかる。)
固より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲へかかる。
(たちまちあしのしたでひばりのこえがしだした。)
たちまち足の下で雲雀の声がし出した。
(たにをみおろしたが、どこでないてるかかげもかたちもみえぬ。)
谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。
(ただこえだけがあきらかにきこえる。せっせといそがしく、たえまなくないている。)
ただ声だけが明らかに聞える。せっせと忙しく、絶間なく鳴いている。
(ほういくりのくうきがいちめんにのみにさされていたたまれないようなきがする。)
方幾里の空気が一面に蚤に刺されていたたまれないような気がする。
(あのとりのなくおとにはしゅんじのよゆうもない。のどかなはるのひをなきつくし、)
あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、
(なきあかし、またなきくらさなければきがすまんとみえる。)
鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。
(そのうえどこまでものぼっていく、いつまでものぼっていく。)
その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。
(ひばりはきっとくものなかでしぬにそういない。)
雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。
(のぼりつめたあげくは、ながれてくもにはいって、ただようているうちにかたちはきえてなくなって)
登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって
(ただこえだけがそらのうちにのこるのかもしれない。)
ただ声だけが空の裡に残るのかも知れない。
(いわかどをするどくまわって、あんまならまっさかさまにおつるところを、)
巌角を鋭どく廻って、按摩なら真逆様に落つるところを、
(きわどくみぎへきれて、よこにみおろすと、なのはながいちめんにみえる。)
際どく右へ切れて、横に見下すと、菜の花が一面に見える。
(ひばりはあすこへおちるのかとおもった。)
雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。
(いいや、あのこだねのはらからとびあがってくるのかとおもった。)
いいや、あの黄金の原から飛び上がってくるのかと思った。
(つぎにはおちるひばりと、のぼるひばりがじゅうもんじにすれちがうのかとおもった。)
次には落ちる雲雀と、上る雲雀が十文字にすれ違うのかと思った。
(さいごに、おちるときも、あげるときも、またじゅうもんじにすれちがうときにも)
最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦れ違うときにも
(げんきよくなきつづけるだろうとおもった。)
元気よく鳴きつづけるだろうと思った。