検定試験4-1
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | りんご | 7627 | 神 | 7.7 | 98.6% | 258.0 | 1996 | 28 | 39 | 2025/01/31 |
2 | maro | 6601 | S+ | 6.7 | 97.3% | 303.1 | 2056 | 55 | 39 | 2024/12/07 |
3 | NAO24 | 6002 | A++ | 6.2 | 96.6% | 328.2 | 2040 | 70 | 39 | 2024/12/06 |
4 | 21060236 | 5060 | B+ | 5.3 | 94.7% | 370.1 | 1984 | 111 | 39 | 2025/02/01 |
5 | なり | 4584 | C++ | 4.8 | 94.3% | 413.8 | 2018 | 121 | 39 | 2024/11/06 |
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問題文
(とうきょうのにほんばしが、1911ねんにいしづくりのはしとなってから、)
東京の日本橋が、1911年に石造りの橋となってから、
(さくねんで100しゅうねんをむかえた。)
昨年で100周年を迎えた。
(はしができたとうしょは、)
橋ができた当初は、
(たんににほんのきをわたしただけのかんそなはしであったといわれている。)
単に二本の木を渡しただけの簡素な橋であったといわれている。
(そのようすから「にほんばし」とよばれるようになり、)
その様子から「二本橋」と呼ばれるようになり、
(はしのなまえのゆらいとなったというせつがある。)
橋の名前の由来となったという説がある。
(そのご、とくがわいえやすがえどばくふをひらいた1603ねんに、)
その後、徳川家康が江戸幕府を開いた1603年に、
(きでつくられたおおきなはしへとかえられた。)
木で造られた大きな橋へと替えられた。
(あるしりょうによると、ぜんちょう51めーとるで、)
ある資料によると、全長51メートルで、
(はばは8めーとるというりっぱなはしだった。)
幅は8メートルという立派な橋だった。
(そのよくとし、ぜんこくかくちへつうじるどうろのせいびがじっしされ、)
その翌年、全国各地へ通じる道路の整備が実施され、
(とうかいどうをはじめとするごかいどうのきてんにさだめられた。)
東海道をはじめとする五街道の起点に定められた。
(1618ねんには、だいきぼなかいしゅうこうじがあり、)
1618年には、大規模な改修工事があり、
(ながさが68めーとるとなり、のちにかけられたはしよりもながかった。)
長さが68メートルとなり、後に架けられた橋よりも長かった。
(このじだい、はしのしゅうへんは、)
この時代、橋の周辺は、
(しょうぎょうやりゅうつう、けいざいのちゅうしんちとしてはってんをつづけた。)
商業や流通、経済の中心地として発展を続けた。
(したをながれるにほんばしがわのりょうさいどにはかしがもうけられて、)
下を流れる日本橋川の両サイドには河岸が設けられて、
(ぜんこくからにもつをはこぶふねがしゅうけつするすいろのきょてんとなった。)
全国から荷物を運ぶ船が集結する水路の拠点となった。
(にもつはかしでりくあげされ、そこからえどのしちゅうへとはこばれた。)
荷物は河岸で陸揚げされ、そこから江戸の市中へと運ばれた。
(つまり、にほんばしはぶつりゅうのじゅうようなやくわりももっていたのである。)
つまり、日本橋は物流の重要な役割ももっていたのである。
(とうじのようすは、うきよえやにしきえなどにものこされている。)
当時の様子は、浮世絵や錦絵などにも残されている。
(かわぞいにはうおがしやざいもくがしなどがならび、)
川沿いには魚河岸や材木河岸などが並び、
(おおくのひとがあつまるようすをうかがうことができる。)
多くの人が集まる様子をうかがうことができる。
(ひとやぶっし、じょうほうがあつまるばしょとして、しょうこうぎょうのはったつがひやくてきで、)
人や物資、情報が集まる場所として、商工業の発達が飛躍的で、
(げんざいのにほんばししゅうへんのげんけいになった。)
現在の日本橋周辺の原型になった。
(そのはんえいについては、ほかのきろくからもしることができる。)
その繁栄については、他の記録からも知ることができる。
(えどのじんこうは、1800ねんごろには120まんにんにたっし、とうじせかいいちといわれた。)
江戸の人口は、1800年頃には120万人に達し、当時世界一と言われた。
(おなじころのぱりはやく50まんにんで、ろんどんはやく90まんにんであったという。)
同じころのパリは約50万人で、ロンドンは約90万人であったという。
(おおくのひとがせいかつをし、うんがにかこまれ、ふねがゆきかうようすから、)
多くの人が生活をし、運河に囲まれ、船が行き交う様子から、
(ばくまつにおとずれたがいこくじんは、「とうようのべにす」とたとえた。)
幕末に訪れた外国人は、「東洋のベニス」と例えた。
(いっぽう、えどじだいにはかじがひんぱんにおきたといわれており、)
一方、江戸時代には火事が頻繁に起きたといわれており、
(きろくにのこるたいかは200けんいじょうにもおよんでいる。)
記録に残る大火は200件以上にも及んでいる。
(これによって、にほんばしはなんどとなくしょうしつした。)
これによって、日本橋は何度となく焼失した。
(さらに、おおあめによるこうずいなどのひがいもあり、)
さらに、大雨による洪水などの被害もあり、
(そのつどほしゅうやかけかえをくりかえしてきた。)
その都度補修や架け替えを繰り返してきた。
(ひがいをかいしょうするため、これまでのきのはしから、)
被害を解消するため、これまでの木の橋から、
(あたらしくいしづくりのにれんあーちのはしが、ひゃくねんまえにけんぞうされた。)
新しく石造りの二連アーチの橋が、百年前に建造された。
(かぞえて20だいめとなるこのはしが、げんざいものこっている。)
数えて20代目となるこの橋が、現在も残っている。
(そのさいに、どうろのきてんをしめすどうろげんぴょうが、はしのちゅうおうぶにせっちされた。)
その際に、道路の起点を示す道路元標が、橋の中央部に設置された。