孔子の人生
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問題文
(きげんぜん551ねんから479ねんにちゅうごくにいたこうしのじんせいについてふりかえります。)
紀元前551年から479年に中国にいた孔子の人生について振り返ります。
(こうしのおしえはでしのてによって「ろんご」にまとめられています。)
孔子の教えは弟子の手によって「論語」にまとめられています。
(ろんごはいまでもおおくよにしられています。)
論語は今でも多く世に知られています。
(おんこちしん(むかしのことをしらべて、そこからあたらしいちしきやけんかいをえること))
温故知新(昔のことを調べて、そこから新しい知識や見解を得ること)
(などきいたことあるひともおおいのではないでしょうか。)
など聞いたことある人も多いのではないでしょうか。
(こうしには3000にんのでしがいたとされ、そのしご、もうし(せいぜんせつ))
孔子には3000人の弟子がいたとされ、その死後、孟子(性善説)
(じゅんし(せいあくせつ)などのこうけいしゃをだした。)
荀子(性悪説)などの後継者を出した。
(こうしはろにせいたん。ちちは70だいのぶしょう、ははは16さいのみこだったとされています。)
孔子は魯に生誕。父は70代の武将、母は16歳の巫女だったとされています。
(ちちはこうしが3さいのときにしきょしたため、しかもははがせいさいじゃなかったため)
父は孔子が3歳の時に死去したため、しかも母が正妻じゃなかったため
(こうしはようしょうきからまずしいせいかつをよぎなくされた。)
孔子は幼少期から貧しい生活を余儀なくされた。
(しかしくなんのなかにあってもおおくのしごとをしながらべんがくのどりょくをつづけ、)
しかし苦難の中にあっても多くの仕事をしながら勉学の努力を続け、
(しだいにそのながしられるそんざいになった。)
次第にその名が知られる存在になった。
(19のころにけっこんをし、ちちをはんめんきょうしとしたためかよくねんにはだいいっしがたんじょうしている)
19の頃に結婚をし、父を反面教師としたためか翌年には第一子が誕生している
(けっこんご、ろのやくにんになったが、そのないようはそうこやぼくじょうのかんりといった、)
結婚後、魯の役人になったが、その内容は倉庫や牧場の管理といった、
(けっしてたいにんとはいえないしごとであった。)
決して大任とは言えない仕事であった。
(こうねん、かれは「わかいころはみぶんがひくかった。せいかつのためにありとあらゆることを)
後年、彼は「若い頃は身分が低かった。生活のためにありとあらゆる事を
(けいけんしたため、いろいろとつまらないことができるようになったのだ」)
経験したため、色々とつまらない事が出来るようになったのだ」
(とじゅっかいしている。)
と述懐している。
(こうしが36になったころ、ひとつのてんきがおとずれた。ないらんによってくんしゅがさいへこくがいついほう)
孔子が36になった頃、一つの転機が訪れた。内乱によって君主が斉へ国外追放
(となり、こうしもあとをおいさいへぼうめい。さいのみやこはだいとかいだったため)
となり、孔子も後を追い斉へ亡命。斉の都は大都会だったため
(こうしはそこでがくしきをふかめ、さらにががくなどのげいじゅつてきなしげきもうけたという。)
孔子はそこで学識を深め、さらに雅楽などの芸術的な刺激も受けたという。
(こうしのさいでのせいかつがどのようなものだったかくわしくはあきらかになっていないが、)
孔子の斉での生活がどのようなものだったか詳しくは明らかになっていないが、
(のちにろのこうていにめされてきこくしている。ろではかんしのしょくにじゅうじするかたわら)
のちに魯の皇帝に召されて帰国している。魯では官使の職に従事する傍ら
(ひろくでしをあつめてせいりょくてきにきょういくにはげんでがくもんしゅうだんをけいせいするまでにいたったため)
広く弟子を集めて精力的に教育に励んで学問集団を形成するまでに至ったため
(そのめいせいはさらにたかまった。50さいをすぎたころにろのさいしょうだいこうとしてかずかずの)
その名声はさらに高まった。50歳を過ぎた頃に魯の宰相代行として数々の
(かいかくをこころみた。こうしのもくてきはごさんけのせいりょくをよわめて)
改革を試みた。孔子の目的は御三家(季孫氏・孟孫氏・叔孫氏)の勢力を弱めて
(くんしゅけんをかいふくさせることにあった。しかしかいかくはていこうにあいとんざし)
君主権を回復させることにあった。しかし改革は抵抗に遭い頓挫し
(こうしはしっきゃく、せいじせいめいをたたれた。)
孔子は失脚、政治生命を絶たれた。
(54さいのころ、しょくをじしたかれはすうにんのでしとともにしょこくじゅんれいのたびにでた。)
54歳の頃、職を辞した彼は数人の弟子とともに諸国巡礼の旅に出た。
(えいそうそうていちんそのしょこうをたずね、とくによってくにをおさめるという)
衛・曹・宋・鄭・陳・楚の諸侯を訪ね、徳によって国を治めるという
(りそうをかかげ、しんてんちでかんしょくをえんとした。しかし、とうようされてもめいよしょくで)
理想を掲げ、新天地で官職を得んとした。しかし、登用されても名誉職で
(じっけんがともなわないなどけっかはかんばしいものではなかった。)
実権が伴わないなど結果は芳しいものではなかった。
(らんせいのじだいをいきぬくくんしゅにとって、こうしがとくとくじしゅぎによる)
乱世の時代を生き抜く君主にとって、孔子が説く徳治主義による
(とうちはりそうしゅぎてきでひげんじつにうつったのです。ほうろうのたびは14ねんにおよんだが)
統治は理想主義的で非現実に映ったのです。放浪の旅は14年に及んだが
(りそうのくんしゅがみつからずにこうしは68さいのころにふたたびろにつかえる。)
理想の君主が見つからずに孔子は68歳の頃に再び魯に仕える。
(きこくごはでしのきょういくにせんねんし「でし3000にん、りくげいにつうずるもの72にん」と)
帰国後は弟子の教育に専念し「弟子3000人、六芸に通ずる者72人」と
(しょうされるほどのいちだいがくだんをきずいた。りくげいというのはこうしのじだいにみぶんあるものに)
称されるほどの一大学団を築いた。六芸というのは孔子の時代に身分あるものに
(ひつようとされた6しゅるいのきほんきょうようのことで)
必要とされた6種類の基本教養のことで
(それぞれ、れいぎ、おんがく、きゅうじゅつ、ばしゃをあやつるじゅつ、しょどう、さんじゅつのことである。)
それぞれ、礼儀、音楽、弓術、馬車を操る術、書道、算術のことである。
(このりくげいについて、こうしがいちげいもなしていないことを)
この六芸について、孔子が一芸もなしていない事を
(あるときむらびとにしてきされたことがあった。それはさまざまなげいをならい、)
ある時村人に指摘されたことがあった。それは様々な芸を習い、
(たげいになってしまったからであるが、それをきいたこうしは)
多芸になってしまったからであるが、それを聞いた孔子は
(「ばじゅつでもなそうか」といってみせた。)
「馬術でもなそうか」といって見せた。
(これはりくげいのなかでもばじゅつがかくしたとにんしきされていたため)
これは六芸の中でも馬術が格下と認識されていたため
(こうしがけんそんしていってみせたのだというはなしがある。こんなところからでも)
孔子が謙遜して言って見せたのだという話がある。こんなところからでも
(こうしのせいかくがうかがわれる。)
孔子の性格がうかがわれる。
(ほかにもししょなどのこてんけんきゅうのせいりにせんねんしていたが、72さいにてしきょした。)
他にも詩書などの古典研究の整理に専念していたが、72歳にて死去した。
(そしてこうしのでしたちがこうしのげんこうろくやおしえを400ねんかけて)
そして孔子の弟子たちが孔子の言行録や教えを400年かけて
(へんさんされたのがぼうとうでもふれた「ろんご」である。)
編纂されたのが冒頭でも触れた「論語」である。
(こうしのおしえはちゅうごくしそうのこんかんとなり、こうせいにおおきなえいきょうをおよぼしたことから)
孔子の教えは中国思想の根幹となり、後世に大きな影響を及ぼしたことから
(すぐれたしどうしゃとしてせかい4だいせいじんとしてかぞえられている。)
優れた指導者として世界4大聖人として数えられている。
(ほかのさんにんは、がうだましっだーるた、いえす、むはんまどである。)
他の三人は、ガウダマ・シッダールタ、イエス、ムハンマドである。