日本史:古墳時代2

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難易度(4.5) 3993打 長文タグ日本史 教科書 勉強
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1 隼人も 5518 A 5.8 95.1% 671.0 3904 201 50 2021/01/12

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問題文

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(6せいきのこふんじだいこうきになるとこふんじたいにもおおきなへんかがあらわれる)

6世紀の古墳時代後期になると古墳自体にも大きな変化が現れる。

(じゅうらいのたてあなしきにかわってちょうせんはんとうときょうつうのよこあなしきせきしつがいっぱんかし)

従来の竪穴式に代わって朝鮮半島と共通の横穴式石室が一般化し、

(はにわもじんぶつはにわどうぶつはにわなどのけいしょうはにわがさかんにもちいられるようになる)

埴輪も人物埴輪・動物埴輪などの形象埴輪が盛んに用いられるようになる。

(これらのはにわのぐんぞうはそうそうぎれいせいぜんのしゅちょうがぎれいをおこなうようすをこうせいに)

これらの埴輪の群像は、葬送儀礼・生前の首長が儀礼を行う様子を後世に

(のこそうとしたものであろうさらにきゅうしゅうほくぶのこふんにはいしのはにわである)

残そうとしたものであろう。さらに九州北部の古墳には石の埴輪である

(せきじんせきばもたてられきゅうしゅうかくちやいばらきふくしまなどのこふんやよこあなのぼしつには)

石人・石馬も立てられ、九州各地や茨城・福島などの古墳や横穴の墓室には

(さいしょくあるいはせんこくによるへきがをもつそうしょくこふんがつくられるなどこふんの)

彩色あるいは線刻による壁画を持つ装飾古墳が造られるなど、古墳の

(ちいきてきとくしょくがつよくなったきびちほうなどではおおがたこふんがみられなくなった)

地域的特色が強くなった。吉備地方などでは、大型古墳が見られなくなった。

(これはかくちのごうぞくがれんごうしてせいけんをつくるかたちからおおきみをちゅうしんとしたきんきちほうの)

これは各地の豪族が連合して政権を作る形から、大王を中心とした近畿地方の

(せいりょくにかくちのごうぞくがふくぞくするかたちへとやまとせいけんのせいかくがへんかしたことをしめす)

勢力に各地の豪族が服属する形へと、ヤマト政権の性格が変化したことを示す。

(やまとせいけんのへんかとかんれんしてこがたこふんのばくはつてきぞうかがありさんかんやこじま)

ヤマト政権の変化と関連して、小型古墳の爆発的増加があり、山間や小島

(までひろくぐんしゅうふんとよばれるしょうこふんがおおくいとなまれるようになったこれは)

まで広く群集墳と呼ばれる小古墳が多く営まれるようになった。これは、

(こふんのぞうえいなどかんがえられなかったゆうりょくのうみんそうまでがこふんをつくるようになった)

古墳の造営など考えられなかった有力農民層までが、古墳を作るようになった

(ことのあらわれであるこふんじだいはしはいしゃであるごうぞくとひしはいしゃであるみんしゅう)

ことの現れである。古墳時代は支配者である豪族と被支配者である民衆

(のせいかつがはっきりぶんりしたじだいでもあったみんしゅうのしゅうらくにはかんごうはみられず)

の生活がはっきり分離した時代でもあった。民衆の集落には環濠は見られず、

(たてあなじゅうきょにはつくりかけのかまどがともなうようになったどきはこふんじだいぜんきから)

竪穴住居には作りかけのカマドが伴うようになった。土器は、古墳時代前期から

(ちゅうきのはじめまではやよいどきのけいふをひくあかやきのはじきがもちいられたが)

中期の初めまでは弥生土器の系譜を引く赤焼きの土師器が用いられたが、

(5せいきになるとちょうせんはんとうからこうしつではいいろのすえきのせいさくぎじゅつがつたえられ)

5世紀になると朝鮮半島から硬質で灰色の須恵器の製作技術が伝えられ、

(はじきとともにもちいられるようになったのうこうにかんするさいしは)

土師器とともに用いられるようになった。農耕に関する祭祀は、

(こふんじだいのひとびとにとってはもっともたいせつなものでありなかでもほうさくをいのるはるの)

古墳時代の人々にとっては最も大切なものであり、中でも豊作を祈る春の

など

(としごいのまつりやしゅうかくをかんしゃするあきのにいなめのまつりはじゅうようなものであった)

祈年の祭や収穫を感謝する秋の新嘗の祭は重要なものであった。

(やよいじだいのせいどうきさいきにかわってこふんのふくそうひんにもみられるどうきょうやてっせいの)

弥生時代の青銅器祭器に代わって古墳の副葬品にも見られる銅鏡や、鉄製の

(ぶきとのうこうぐがじゅうようなさいきとしてまつりにもちいられるようになったひとびとは)

武器と農工具が重要な祭器として祭に用いられるようになった。人々は、

(びけいのやまやきょせきぜっかいのことうなどをかみのやどるところとかんがえさいしのたいしょうとなった)

美形の山や巨石、絶海の孤島などを神の宿る所と考え、祭祀の対象となった。

(ふくおかけんのおきのしまはにほんとちょうせんかんのかいじょうこうつうのあんぜんをいのるこっかてきさいし)

福岡県の沖ノ島は、日本と朝鮮間の海上交通の安全を祈る国家的祭祀

(がおこなわれたとかんがえられているけがれをはらいわざわいをまぬがれるためのみそぎはらえ)

が行われたと考えられている。穢れをはらい、災を免れるための禊・祓、

(しかのほねをやいてきっきょうをうらなうふとまにのほうさらにさいばんにさいしてねっとうにてをいれさせ)

鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占の法、更に裁判に際して、熱湯に手を入れさせ

(てがただれるかどうかでしんぎをはんだんするしんぱんのくかたちなどのじゅじゅつてきなふうしゅうも)

手が爛れるかどうかで真偽を判断する神判の盟神探湯などの呪術的な風習も

(おこなわれた6せいきから7せいきはじめになるとかくちのゆうりょくなしゅちょうたちが)

行われた。6世紀から7世紀初めになると、各地の有力な首長たちが

(いとなんでいたぜんぽうこうえんふんのぞうえいがおわるかくちでそのじきがほぼそろっているのは)

営んでいた前方後円墳の造営が終わる。各地でその時期がほぼ揃っているのは

(やまとせいけんによるきょうりょくなきせいのけっかであろうこのじきちゅうごくではずいが)

ヤマト政権による強力な規制の結果であろう。この時期、中国では隋が

(なんぼくをとういつしちょうせんはんとうにもしんしゅつするしせいをしめしていたこうしたあじあじょうせい)

南北を統一し、朝鮮半島にも進出する姿勢を示していた。こうしたアジア情勢

(のおおきなへんかからわこくもおおきみをちゅうしんとするちゅうおうしゅうけんてきなこっかけいせいをめざす)

の大きな変化から、倭国も大王を中心とする中央集権的な国家形成を目指す

(ようになりふるいしゅちょうれんごうたいせいやそのしょうちょうであるこふんのぞうえいとけつべつした)

ようになり、古い首長連合体制やその象徴である古墳の造営と決別した。

(これいこうもこふんのぞうえいは100ねんほどつづいたちほうではくにのみやつことなった)

これ以降も古墳の造営は100年ほど続いた。地方では国造となった

(いちぶのゆうりょくなしゅちょうらがこふんをいとなんだらしいさらに7せいきなかごろになると)

一部の有力な首長らが古墳を営んだらしい。さらに7世紀中頃になると、

(きんきのおおきみのはかがはっかくふんになったこれはそれまでだいきぼだがかくちのしゅちょうそうで)

近畿の大王の墓が八角墳になった。これはそれまで大規模だが各地の首長層

(おなじぜんぽうこうえんふんをいとなんでいたおおきみのみがはっかくふんをいとなんでいっぱんのごうぞくそうを)

同じ前方後円墳を営んでいた大王のみが八角墳を営んで、一般の豪族層を

(ちょうえつしたそんざいであることをしめそうとしたものであろう7せいきおわりごろになると)

超越した存在であることを示そうとしたものであろう。7世紀終わり頃になると

(かれらもこふんをいとなまなくなりごくいちぶのゆうりょくしゃのみがこふんをいとなんだらしい)

彼らも古墳を営まなくなり、ごく一部の有力者のみが古墳を営んだらしい。

(こうしたこふんのぞうえいていしはとういつこっかのけいせいからりつりょうこっかへのうごきにたいおうする)

こうした古墳の造営停止は、統一国家の形成から律令国家への動きに対応する

(ものといえよう。)

ものと言えよう。

(だいおうけんりょくのかくだいにたいしてはちほうごうぞくのていこうもあったとくに6せいきはじめには)

大王権力の拡大に対しては、地方豪族の抵抗もあった。特に6世紀初めには

(しらぎとむすんでつくしのくにのみやつこいわいがだいきぼはんらんをおこしたおおきみぐんはこのいわいのらんを)

新羅と結んで筑紫国造磐井が大規模反乱を起こした。大王軍はこの磐井の乱を

(にねんがかりでせいあつしきゅうしゅうほくぶにみやけをもうけたやまとせいけんはこうしたちほうごうぞく)

二年がかりで制圧し九州北部に屯倉を設けた。ヤマト政権はこうした地方豪族

(をはいしながらかれらをじゅうぞくさせれっとうかくちにちょっかつりょうとしてのみやけやちょっかつみんとしての)

を排しながら彼らを従属させ、列島各地に直轄領としての屯倉や直轄民としての

(なしろこしろをのぶをもうけていった6せいきにはちほうごうぞくはくにのみやつこににんじられ)

名代・子代をの部を設けて行った。6世紀には地方豪族は国造に任じられ、

(そのちほうのしはいけんをやまとせいけんからほしょうされるいっぽうおおきみのもとにそのしじょを)

その地方の支配権を大和政権から保障される一方、大王のもとにその子女を

(とねりうねめとしてしゅっしさせちほうのとくさんぶつをこうしんしちょっかつのとちやぶのかんり)

舎人・采女として出仕させ、地方の特産物を貢進し、直轄の土地や部の管理

(をおこないぐんじこうどうにもさんかするなどしてやまとせいけんもほうしするようになった)

を行い、軍事行動にも参加するなどして、ヤマト政権も奉仕するようになった。

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