芥川龍之介『仙人』

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口入れ屋を訪ね、仙人になれる所を紹介してもらおうとする短編小説。

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問題文

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(みなさん。わたしはいまおおさかにいます、ですからおおさかのはなしをしましょう。むかし、おおさかのまちへ)

皆さん。私は今大阪にいます、ですから大阪の話をしましょう。昔、大阪の町へ

(ほうこうにきたおとこがありました。なはなんといったかわかりません。ただめしたきぼうこうに)

奉公に来た男がありました。名は何と云ったかわかりません。ただ飯炊奉公に

(きたおとこですから、ごんすけとだけつたわっています。ごんすけはくちいれやののれんを)

来た男ですから、権助とだけ伝わっています。権助は口入れ屋の暖簾を

(くぐると、きせるをくわえていたばんとうに、こうくちのせわをたのみました。「ばんとうさん。)

くぐると、煙管を啣えていた番頭に、こう口の世話を頼みました。「番頭さん。

(わたしはせんにんになりたいのだから、そういうところへすみこませてください。」ばんとうは)

私は仙人になりたいのだから、そう云う所へ住みこませて下さい。」番頭は

(あっけにとられたように、しばらくはくちもきかずにいました。「ばんとうさん。)

呆気にとられたように、しばらくは口も利かずにいました。「番頭さん。

(きこえませんか?わたしはせんにんになりたいのだから、そういうところへすみこませて)

聞こえませんか? 私は仙人になりたいのだから、そう云う所へ住みこませて

(ください。」「まことにおきのどくさまですが、--」ばんとうはやっといつものとおり、)

下さい。」「まことに御気の毒様ですが、--」番頭はやっといつもの通り、

(たばこをすぱすぱすいはじめました。「てまえのみせではまだいちども、せんにんなぞの)

煙草をすぱすぱ吸い始めました。「手前の店ではまだ一度も、仙人なぞの

(くちいれはひきうけたことはありませんから、どうかほかへおいでなすって)

口入れは引き受けた事はありませんから、どうかほかへ御出でなすって

(ください。」するとごんすけはふふくそうに、ちくさのももひきのひざをすすめながら、こんな)

下さい。」すると権助は不服そうに、千草の股引の膝をすすめながら、こんな

(りくつをいいだしました。「それはちとはなしがちがうでしょう。おまえさんのみせの)

理窟を云い出しました。「それはちと話が違うでしょう。御前さんの店の

(のれんには、なんとかいてあるとおおもいなさる?よろずくちいれどころとかいてあるじゃ)

暖簾には、何と書いてあると御思いなさる? 万口入れ所と書いてあるじゃ

(ありませんか?よろずというからはなにごとでも、くちいれをするのがほんとうです。)

ありませんか? 万と云うからは何事でも、口入れをするのがほんとうです。

(それともおまえさんのみせではのれんのうえに、うそをかいておいたつもりなのですか?」)

それともお前さんの店では暖簾の上に、嘘を書いて置いたつもりなのですか?」

(なるほどこういわれてみると、ごんすけがおこるのももっともです。「いえ、のれんに)

なるほどこう云われて見ると、権助が怒るのももっともです。「いえ、暖簾に

(うそがあるしだいではありません。なんでもせんにんになれるようなほうこうぐちをさがせと)

嘘がある次第ではありません。何でも仙人になれるような奉公口を探せと

(おっしゃるのなら、あしたまたおいでください。きょうじゅうにこころあたりをたずねておいて)

おっしゃるのなら、明日また御出で下さい。今日中に心当りを尋ねて置いて

(みますから。」ばんとうはとにかくいちじのがれに、ごんすけのたのみをひきうけて)

見ますから。」番頭はとにかく一時逃れに、権助の頼みを引き受けて

(やりました。が、どこへほうこうさせたら、せんにんになるしゅぎょうができるか、もとより)

やりました。が、どこへ奉公させたら、仙人になる修行が出来るか、もとより

など

(そんなことなぞはわかるはずがありません。ですからひとまずごんすけをかえすと、さっそく)

そんな事なぞはわかるはずがありません。ですから一まず権助を返すと、早速

(ばんとうはきんじょにあるいしゃのところへでかけていきました。そうしてごんすけのことを)

番頭は近所にある医者の所へ出かけて行きました。そうして権助の事を

(はなしてから、「いかがでしょう?せんせい。せんにんになるしゅぎょうをするには、どこへ)

話してから、「いかがでしょう? 先生。仙人になる修行をするには、どこへ

(ほうこうするのがちかみちでしょう?」と、しんぱいそうにたずねました。これにはいしゃも)

奉公するのが近路でしょう?」と、心配そうに尋ねました。これには医者も

(こまったのでしょう。しばらくはぼんやりうでぐみをしながら、にわのまつばかり)

困ったのでしょう。しばらくはぼんやり腕組みをしながら、庭の松ばかり

(ながめていました。がばんとうのはなしをきくと、すぐによこからくちをだしたのは、ふるぎつねと)

眺めていました。が番頭の話を聞くと、直ぐに横から口を出したのは、古狐と

(いうあだなのある、こうかつないしゃのにょうぼうです。「それはうちへおよこしよ。うちに)

云う渾名のある、狡猾な医者の女房です。「それはうちへおよこしよ。うちに

(いればにさんねんうちには、きっとせんにんにしてみせるから。」「さようですか?それは)

いれば二三年中には、きっと仙人にして見せるから。」「左様ですか? それは

(よいことをうかがいました。ではなにぶんねがいます。どうもせんにんとおいしゃさまとは、どこか)

善い事を伺いました。では何分願います。どうも仙人と御医者様とは、どこか

(えんがちかいようなこころもちがいたしておりましたよ。」なにもしらないばんとうは、しきりに)

縁が近いような心もちが致して居りましたよ。」何も知らない番頭は、しきりに

(おじぎをかさねながら、おおよろこびでかえりました。いしゃはにがいかおをしたまま、そのあとを)

御時宜を重ねながら、大喜びで帰りました。医者は苦い顔をしたまま、その後を

(みおくっていましたが、やがてにょうぼうにむかいながら、「おまえはなんというばかなことを)

見送っていましたが、やがて女房に向いながら、「お前は何と云う莫迦な事を

(いうのだ?もしそのいなかものがなんねんいても、いっこうせんじゅつをおしえてくれぬなぞと、)

云うのだ? もしその田舎者が何年いても、一向仙術を教えてくれぬなぞと、

(ふへいでもいいだしたら、どうするきだ?」といまいましそうにこごとをいいました。)

不平でも云い出したら、どうする気だ?」と忌々しそうに小言を云いました。

(しかしにょうぼうはあやまるどころか、はなのさきでふふんとわらいながら、「まあ、あなたは)

しかし女房はあやまる所か、鼻の先でふふんと笑いながら、「まあ、あなたは

(だまっていらっしゃい。あなたのようにばかしょうじきでは、このせちがらいよのなかに、)

黙っていらっしゃい。あなたのように莫迦正直では、このせち辛い世の中に、

(ごはんをたべることもできはしません。」と、あべこべにいしゃをやりこめるのです。)

御飯を食べる事も出来はしません。」と、あべこべに医者をやりこめるのです。

(さてあくるひになるとやくそくどおり、いなかもののごんすけはばんとうといっしょにやって)

さて明くる日になると約束通り、田舎者の権助は番頭と一しょにやって

(きました。きょうはさすがにごんすけも、はつのおめみえだとおもったせいか、もんつきの)

来ました。今日はさすがに権助も、初の御目見えだと思ったせいか、紋附の

(はおりをきていますが、みたところはただのひゃくしょうとすこしもちがったようすはありません。)

羽織を着ていますが、見た所はただの百姓と少しも違った容子はありません。

(それがかえってあんがいだったのでしょう。いしゃはまるでてんじくからきたじゃこうじゅうでも)

それが返って案外だったのでしょう。医者はまるで天竺から来た麝香獣でも

(みるときのように、じろじろそのかおをながめながら、「おまえはせんにんに)

見る時のように、じろじろその顔を眺めながら、「お前は仙人に

(なりたいのだそうだが、いったいどういうところから、そんなのぞみをおこしたのだ?」と、)

なりたいのだそうだが、一体どう云う所から、そんな望みを起したのだ?」と、

(ふしんそうにたずねました。するとごんすけがこたえるには、「べつにこれというわけも)

不審そうに尋ねました。すると権助が答えるには、「別にこれと云う訣も

(ございませんが、ただあのおおさかのおしろをみたら、たいこうさまのようにえらいひとでも、)

ございませんが、ただあの大阪の御城を見たら、太閤様のように偉い人でも、

(いつかいちどはしんでしまう。してみればにんげんというものは、いくら)

いつか一度は死んでしまう。して見れば人間と云うものは、いくら

(えようえいがをしても、はかないものだとおもったのです。」「ではせんにんに)

栄耀栄華をしても、果ないものだと思ったのです。」「では仙人に

(なれさえすれば、どんなしごとでもするだろうね?」こうかつないしゃのにょうぼうは、)

なれさえすれば、どんな仕事でもするだろうね?」狡猾な医者の女房は、

(すかさずくちをいれました。「はい。せんにんになれさえすれば、どんなしごとでも)

隙かさず口を入れました。「はい。仙人になれさえすれば、どんな仕事でも

(いたします。」「それではきょうからわたしのところに、にじゅうねんのあいだほうこうおし。そうすれば)

いたします。」「それでは今日から私の所に、二十年の間奉公おし。そうすれば

(きっとにじゅうねんめに、せんにんになるじゅつをおしえてやるから。」「さようでございますか?)

きっと二十年目に、仙人になる術を教えてやるから。」「左様でございますか?

(それはなによりありがとうございます。」「そのかわりむこうにじゅうねんのあいだは、いちもんも)

それは何より難有うございます。」「その代り向う二十年の間は、一文も

(おきゅうきんはやらないからね。」「はい。はい。しょうちいたしました。」それから)

御給金はやらないからね。」「はい。はい。承知いたしました。」それから

(ごんすけはにじゅうねんかん、そのいしゃのいえにつかわれていました。みずをくむ。まきをわる。めしを)

権助は二十年間、その医者の家に使われていました。水を汲む。薪を割る。飯を

(たく。ふきそうじをする。おまけにいしゃがそとへでるときは、くすりばこをせおってともを)

炊く。拭き掃除をする。おまけに医者が外へ出る時は、薬箱を背負って伴を

(する。--そのうえきゅうきんはいちもんでも、くれといったことがないのですから、)

する。--その上給金は一文でも、くれと云った事がないのですから、

(このくらいちょうほうなほうこうにんは、にほんじゅうさがしてもありますまい。が、とうとう)

このくらい重宝な奉公人は、日本中探してもありますまい。が、とうとう

(にじゅうねんたつと、ごんすけはまたきたときのように、もんつきのはおりをひっかけながら、)

二十年たつと、権助はまた来た時のように、紋附の羽織をひっかけながら、

(しゅじんふうふのまえへでました。そうしていんぎんににじゅうねんかん、せわになったれいを)

主人夫婦の前へ出ました。そうして慇懃に二十年間、世話になった礼を

(のべました。「ついてはかねがねおやくそくのとおり、きょうはひとつわたしにも、ふろうふしに)

述べました。「ついては兼ね兼ね御約束の通り、今日は一つ私にも、不老不死に

(なるせんにんのじゅつをおしえてもらいたいとおもいますが。」ごんすけにこういわれると、)

なる仙人の術を教えて貰いたいと思いますが。」権助にこう云われると、

(へいこうしたのはしゅじんのいしゃです。なにしろいちもんもきゅうきんをやらずに、にじゅうねんかんもつかった)

閉口したのは主人の医者です。何しろ一文も給金をやらずに、二十年間も使った

(あとですから、いまさらせんじゅつはしらぬなぞとは、いえたぎりではありません。)

後ですから、いまさら仙術は知らぬなぞとは、云えた義理ではありません。

(いしゃはそこでしかたなしに、「せんにんになるじゅつをしっているのは、おれのにょうぼうのほう)

医者はそこで仕方なしに、「仙人になる術を知っているのは、おれの女房の方

(だから、にょうぼうにおしえてもらうがいい。」と、そっけなくよこをむいてしまいました。)

だから、女房に教えて貰うが好い。」と、素っ気なく横を向いてしまいました。

(しかしにょうぼうはへいきなものです。「ではせんじゅつをおしえてやるから、そのかわりどんな)

しかし女房は平気なものです。「では仙術を教えてやるから、その代りどんな

(むずかしいことでも、わたしのいうとおりにするのだよ。さもないとせんにんになれない)

むずかしい事でも、私の云う通りにするのだよ。さもないと仙人になれない

(ばかりか、またむこうにじゅうねんのあいだ、おきゅうきんなしにほうこうしないと、すぐにばちがあたって)

ばかりか、また向う二十年の間、御給金なしに奉公しないと、すぐに罰が当って

(しんでしまうからね。」「はい。どんなむずかしいことでも、きっとしとげて)

死んでしまうからね。」「はい。どんなむずかしい事でも、きっと仕遂げて

(ごらんにいれます。」ごんすけはほくほくよろこびながら、にょうぼうのいいつけをまって)

御覧に入れます。」権助はほくほく喜びながら、女房の云いつけを待って

(いました。「それではあのにわのまつにおのぼり。」にょうぼうはこういいつけました。)

いました。「それではあの庭の松に御登り。」女房はこう云いつけました。

(もとよりせんにんになるじゅつなぞは、しっているはずがありませんから、なんでもごんすけに)

もとより仙人になる術なぞは、知っているはずがありませんから、何でも権助に

(できそうもない、むずかしいことをいいつけて、もしそれができないときには、また)

出来そうもない、むずかしい事を云いつけて、もしそれが出来ない時には、また

(むこうにじゅうねんのあいだ、ただでつかおうとおもったのでしょう。しかしごんすけはそのことばを)

向う二十年の間、ただで使おうと思ったのでしょう。しかし権助はその言葉を

(きくとすぐににわのまつへのぼりました。「もっとたかく。もっとずっとたかくおのぼり。」)

聞くとすぐに庭の松へ登りました。「もっと高く。もっとずっと高く御登り。」

(にょうぼうはえんさきにたたずみながら、まつのうえのごんすけをみあげました。ごんすけのきたもんつきの)

女房は縁先に佇みながら、松の上の権助を見上げました。権助の着た紋附の

(はおりは、もうそのおおきなにわのまつでも、いちばんたかいこずえにひらめいています。「こんどは)

羽織は、もうその大きな庭の松でも、一番高い梢にひらめいています。「今度は

(みぎのてをおはなし。」ごんすけはひだりてにしっかりと、まつのおおえだをおさえながら、)

右の手を御放し。」権助は左手にしっかりと、松の太枝をおさえながら、

(そろそろみぎのてをはなしました。「それからひだりのてもはなしておしまい。」「おい。)

そろそろ右の手を放しました。「それから左の手も放しておしまい。」「おい。

(おい。ひだりのてをはなそうものなら、あのいなかものはおちてしまうぜ。おちればしたには)

おい。左の手を放そうものなら、あの田舎者は落ちてしまうぜ。落ちれば下には

(いしがあるし、とてもいのちはありゃしない。」いしゃもとうとうえんさきへ、しんぱいそうな)

石があるし、とても命はありゃしない。」医者もとうとう縁先へ、心配そうな

(かおをだしました。「あなたのでるまくではありませんよ。まあ、わたしにまかせて)

顔を出しました。「あなたの出る幕ではありませんよ。まあ、私に任せて

(おおきなさい。--さあ、ひだりのてをはなすのだよ。」ごんすけはそのことばがおわらない)

御置きなさい。--さあ、左の手を放すのだよ。」権助はその言葉が終らない

(うちに、おもいきってひだりてもはなしました。なにしろきのうえにのぼったまま、りょうてとも)

内に、思い切って左手も放しました。何しろ木の上に登ったまま、両手とも

(はなしてしまったのですから、おちずにいるわけはありません。あっというまに)

放してしまったのですから、落ちずにいる訣はありません。あっと云う間に

(ごんすけのからだは、ごんすけのきていたもんつきのはおりは、まつのこずえからはなれました。が、)

権助の体は、権助の着ていた紋附の羽織は、松の梢から離れました。が、

(はなれたとおもうとおちもせずに、ふしぎにもひるまのなかぞらへ、まるであやつりにんぎょうの)

離れたと思うと落ちもせずに、不思議にも昼間の中空へ、まるで操り人形の

(ように、ちゃんとたちどまったではありませんか?「どうもありがとうございます。)

ように、ちゃんと立止ったではありませんか? 「どうも難有うございます。

(おかげさまでわたしもいちにんまえのせんにんになれました。」ごんすけはていねいにおじぎをすると、)

おかげ様で私も一人前の仙人になれました。」権助は叮嚀に御時宜をすると、

(しずかにあおぞらをふみながら、だんだんたかいくものなかへのぼっていってしまいました。)

静かに青空を踏みながら、だんだん高い雲の中へ昇って行ってしまいました。

(いしゃふうふはどうしたか、それはだれもしっていません。ただそのいしゃのにわのまつは、)

医者夫婦はどうしたか、それは誰も知っていません。ただその医者の庭の松は、

(ずっとあとまでものこっていました。なんでもよどやたつごろうは、このまつのゆきげしきをながめる)

ずっと後までも残っていました。何でも淀屋辰五郎は、この松の雪景色を眺める

(ために、よかかえにもあまるたいぼくをわざわざにわへひかせたそうです。)

ために、四抱えにも余る大木をわざわざ庭へ引かせたそうです。

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