伊藤左千夫『大雨の前日』

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水害の前日、不安に包まれる一家を描いた短編。

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問題文

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(このごろはじつにふかいなてんこうがつづく。おもくるしくむしあつくいやにしめりけをおんだ、つよい)

此頃は実に不快な天候が続く。重苦しく蒸熱くいやに湿り気をおんだ、強い

(みなみかぜだ。そうしてまた、にわかのできごとにむすうのあくまがかけだしてきたような、)

南風だ。そうして又、俄の出来事に無数の悪魔が駈出して来た様な、

(にくにくしいつちいろしたくもが、そらひくくちらかりとびかけって、ひっきりなしにきたの)

にくにくしい土色した雲が、空低く散らかり飛び駈けって、引切りなしに北の

(ほうへはしりゆく。ときどきそらがくらくなってくもがこくなるとひとしきりずつかならずあめを)

方へ走り行く。時々空が暗くなって雲が濃くなると一頻りずつ必ず雨を

(ふらせる。こんなてんきがきょうで3かめだ。いじわるくいきのながいかぜだ。にんげんは)

降らせる。こんな天気が今日で三日目だ。意地悪く息の長い風だ。人間は

(たんそくする。こきゅうがためにいきぐるしいことおびただしい。このよあけにはやむだろう、)

嘆息する。呼吸が為に息苦しいこと夥しい。此夜明けには止むだろう、

(このひのいりにはやむだろうもみなそらだのみであった。よはけさになって、いちじるしく)

此日の入りには止むだろうも皆空だのみであった。予は今朝になって、著しく

(しんけいのひろうをおぼえた。しんこくにしゅっすいのくつうをおそれているよは、8がつというつきの)

神経の疲労を覚えた。深刻に出水の苦痛を恐れて居る予は、八月という月の

(このてんきにきょうふをかんぜずにはいられなかったのである。はやくしんぶんをてにした)

此天気に恐怖を感ぜずには居られなかったのである。早く新聞を手にした

(こどもたちはいずれもてんきよほうをきにしてみたらしく、14と12と7つとの3にんが)

児供達はいずれも天気予報を気にして見たらしく、十四と十二と七つとの三人が

(そろってしんぶんをもってきた。3にんはよのさゆうにかがみかげんにりょうてをついてひとしくちちの)

揃って新聞を持って来た。三人は予の左右に屈み加減に両手を突いて等しく父の

(まえにかおをだすのであった。よもしんぶんをとるやいな、しぜんにきしょうだいいんのだんわという)

前に顔を出すのであった。予も新聞を取るや否、自然に気象台員の談話という

(こうもくにめははしった。ただちにめにはいるのは、ていきあつ、ぐふうなどのもじである。よは)

項目に眼は走った。直ちに眼に入るのは、低気圧、颶風等の文字である。予は

(むしろこれをよむのがいとわしかった。こどもらはちちがそれをよんで、なんとかいうのを)

寧ろこれを読むのが厭わしかった。児供等は父がそれを読んで、何とか云うのを

(まつものらしく3にんともまだなんともいわずにいる。よはことにこどもらのまえで)

待つものらしく三人共未だ何とも云わずに居る。予は殊に児供等の前で

(そのきしょうだいいんのだんわをよむのがなんとなくくつうでならない。それでよはめをてんじて)

其気象台員の談話を読むのが何となく苦痛でならない。それで予は眼を転じて

(べっこうをよみはじめた。14のこはもどかしくなってか、「おとうさん「あらし」に)

別項を読み始めた。十四の児はもどかしくなってか、「お父さん『あらし』に

(なるの・・・・・・」いうとひとしく、「あらしになりゃしないねいおとうさん」と、)

なるの……」いうと等しく、「あらしになりゃしないねいお父さん」と、

(12のがくちだしした。「おとうさんみずがでるかい・・・・・・」こういうのは7つのこで)

十二のが口出した。「お父さん水が出るかい……」こういうのは七つの児で

(あった。「だいじょうぶねえおとうさん」12のが2りのことばをうちけすようにそういった。)

あった。「大丈夫ねえお父さん」十二のが二人の詞を打消す様にそういった。

など

(「うんだいじょうぶだよ、しんぶんにあることはあてになりゃしないよ」ちちはこういわない)

「うん大丈夫だよ、新聞にあることは当てになりゃしないよ」父はこう云わない

(わけにゆかなかった。「ほんとにだいじょうぶおとうさん・・・・・・」14のはふあんそうにちちの)

訳に行かなかった。「ほんとに大丈夫お父さん……」十四のは不安そうに父の

(かおをみあげる。「うんあめはすこしふるだろうけれどねたいふうはふきゃしないだろう)

顔を見上げる。「うん雨は少し降るだろうけれどね大風は吹きゃしないだろう

(よ。そっだからだいじょうぶだよ」「しんぶんにそうかいてあるの・・・・・・」「うん」「そら)

よ。そっだから大丈夫だよ」「新聞にそう書いてあるの……」「うん」「そら

(えいこった」7つのはさすがにあんしんしてこうさけんだ。「わたいたいすいがでれば)

えいこった」七つのはさすがに安心してこう叫んだ。「わたい大水が出れば

(おおしまへにげていくだ・・・・・・」はじめからだいじょうぶだねいだいじょうぶだねといってた、)

大島へ逃げていくだ……」初めから大丈夫だねい大丈夫だねと云ってた、

(12のが、やはりあんしんしきれないとみえ、そういうのであった。よはしょうこと)

十二のが、矢張安心し切れないと見え、そう云うのであった。予はしょうこと

(なしに、しんぶんのきじをよいかげんによみきかして、これだからそんなに)

なしに、新聞の記事をよい加減に読み聞かして、これだからそんなに

(しんぱいしなくともえい、とすかした。しかしよのふあんはこどもらをあんしんさせるのにむしろ)

心配しなくともえい、と賺した。併し予の不安は児供等を安心させるのに寧ろ

(くつうをかんずるのである。「みずがでるにしたって、すぐではないねいおとうさん」)

苦痛を感ずるのである。「水が出るにしたって、直ぐではないねいお父さん」

(14のは、どうしてもあんしんしきれないで、そういうのであった。よはすこしく)

十四のは、どうしても安心し切れないで、そういうのであった。予は少しく

(しかるようにおさえつけて、「こんやにもこのかぜさえやめばだいじょうぶだから、そんなに)

叱る様に押えつけて、「今夜にも此風さえ止めば大丈夫だから、そんなに

(しんぱいすることはないよ」よはこういって、こどもらにはつぎへでてあそべとめいじた。)

心配することはないよ」予はこう云って、児供等には次へ出て遊べと命じた。

(こどもにあんしんさせようとするばかりではない、じぶんもないしんには、きしょうだいのほうこくとて)

児供に安心させようとする許りではない、自分も内心には、気象台の報告とて

(かならずしもしんずるにたらない、よしだいうが1にちひとよふったにせよ、にげださねば)

必ずしも信ずるに足らない、よし大雨が一日一夜降ったにせよ、逃出さねば

(ならぬようなことはあるまいと、しいてじぶんのふあんをなだめる、しぜんてきしんりのはたらきが)

ならぬ様な事は有るまいと、強いて自分の不安をなだめる、自然的心理の働きが

(うごいたのである。しかしながらじぶんがこころからあんしんのできないのにどうしてこどもらを)

動いたのである。乍併自分が心から安心の出来ないのにどうして児供等を

(あんしんさせることができよう。つぎへたった3じのうしろかげはいかにもさびしかった。よは)

安心させることが出来よう。次へ起った三児の後影は如何にも寂しかった。予は

(ざしていられないほどむねにくつうをおぼえた。よはたってにわからそらもようをながめた。かぜは)

坐して居られない程胸に苦痛を覚えた。予は起って庭から空模様を眺めた。風は

(きのうにますともしずまるようすはさらにない。つちいろぐものあくまはますますかずをくわえてとびかけって)

昨日に増すとも静まる様子は更に無い。土色雲の悪魔は益数を加えて飛び駈って

(いる。どうみてもひとあれあれねばてんきはなおりそうもなくおもわれる。よはまた)

居る。どう見ても一荒れ荒れねば天気は直りそうもなく思われる。予は又

(そのそらもようをながくみているにたえないでいえにはいった。つまもはいってきた。3にんのこの)

其空模様を永く見て居るに堪えないで家に入った。妻も入って来た。三人の児の

(あねら2りもはいってきた。またまたたがいにふあんごころなことをいいあって、われとわがふあんの)

姉等二人も入って来た。又々互に不安心な事を云い合って、我れと我が不安の

(おもいをますようなはなしをしばらくなんなんした。はてはよはどういうことがあろうとしかたが)

思いを増す様な話を暫く喃々した。果ては予はどういう事があろうと仕方が

(ない、えきのないくよくよばなしはよせといっかつした。かぜのおとばかりそとにそうぞうしくて、いえの)

ない、益の無いくよくよ話はよせと一喝した。風の音許り外に騒々しくて、家の

(うちにはげんきよくさわぐものもない。へいぜいはてっこうしょでどんがんするつちのおと、)

内には元気よく騒ぐものもない。平生は鉄工所でどんがんする鎚の音、

(ぼうせきがいしゃのきかいのうなり、きてきのひびき、あらゆるしょこうじょうのざったなものなりなど、)

紡績会社の器械のうなり、汽笛の響、有らゆる諸工場の雑多な物鳴り等、

(だいとかいのそうぞうしさも、きょうはいっさいにみみにはいらない。ただごうっとふくかぜのおと、)

大都会の騒々しさも、今日は一切に耳に入らない。只ごうっと吹く風の音、

(ばらばらっといたやをうつあめのおとにばかりしんけいはたかぶるのである。しんぶんもよみかけて)

ばらばらっと板屋を打つ雨の音に許り神経は昂進るのである。新聞も読掛けて

(よした。ざっしもよみかけたままなげてやった。よはつくづくと、こんなとちに)

よした。雑誌も読掛けた儘投げてやった。予はつくづくと、こんな土地に

(すまねばならぬわがうんめいをかなしまないわけにはゆかなかった。どうじにわれながら)

住まねばならぬ我が運命を悲しまない訳にはゆかなかった。同時に我れながら

(さもしいひくつなかんそうのわきおこるのをきんじえなかった。へいぜいざいをつくるにももっとも)

さもしい卑屈な感想の湧き起るのを禁じ得なかった。平生財を作るにも最も

(せつなくせに、ざいりょくのいとくをそんけいすることをしらなかったむくいだ。ひんはこれほど)

拙な癖に、財力の威徳を尊敬することを知らなかった報いだ。貧はこれほど

(くるしくないにせよ、さいがいからうくるそんしょうはくつうでなければならぬ。げんに)

苦しくないにせよ、災害から受くる損傷は苦痛でなければならぬ。現に

(くるしみつつあるわれがおろかをあわれまないわけにはゆかない。われにせん45ひゃくえんのよざいが)

苦しみつつある我が愚を憐まない訳には行かない。我に千四五百円の余財が

(あらば、こんなところに1にちもいやしないが、せん45ひゃくのかねはよのこんにちではぼうがいの)

あらば、こんな所に一日も居やしないが、千四五百の金は予の今日では望外の

(ことである。よはざいなきがゆえに、ときどきいうにいわれないくもんをせねばならぬ、)

事である。予は財なきが故に、時々云うに云われない苦悶をせねばならぬ、

(いとうべきこのとちにとらわれていねばならないのである。いますこしかしょくのみちにこころがければ)

厭うべき此土地に囚れて居ねばならないのである。今少し貨殖の道に心掛ければ

(よかった。おもえばじぶんはどうかんがえてもうぐであった。よはこんなふうに、いまさら)

よかった。思えば自分はどう考えても迂愚であった。予はこんな風に、今更

(かんがえてもなんのやくにもたたないおろかなことをかんがえずにいられなかった。つまらない。)

考えても何の役にも立たない愚な事を考えずに居られなかった。つまらない。

(じつにつまらない。なんだばかばかしい。じつにくだらないなぁ。にわかにきづいてうんと)

実につまらない。何だ馬鹿馬鹿しい。実にくだらないなァ。俄に気づいてうんと

(じぶんをあざけりしかってみても、ふあんはいぜんとしてふあんで、いまのくもんのなかから、こころを)

自分を嘲り叱って見ても、不安は依然として不安で、今の苦悶の中から、心を

(ふあんきょうがいへぬけでることはどうしてもできない。いまここへきてなにをかんがえたって)

不安境外へ抜け出ることはどうしても出来ない。今茲へ来て何を考えたって

(やくにはたたない。まだあめもふらないのに、しゅっすいをしんぱいするなどはなおさらむだな)

役には立たない。未だ雨も降らないのに、出水を心配するなどは猶更無駄な

(はなしだ。こうおもいつつなにもかんがえないことにして、あおむけにふんぞりかえった。そうして)

話だ。こう思いつつ何も考えない事にして、仰向に踏んぞりかえった。そうして

(りょうあしをのばしふくぶもじゅうぶんにはってみたけれど、こころのくもっているようなむねのにがみは)

両足を伸し腹部も十分に張って見たけれど、心のくもって居る様な胸の苦みは

(すこしもげんじなかった。よはほとほとじぶんのからだとじぶんのこころとのとりあつかいにきゅうして)

少しも減じなかった。予はほとほと自分の体と自分の心との取扱に窮して

(しまった。そういううちに、なんといってもこどもはこどもでどんなおもしろいことがあったか、)

終った。そういう内に、何と云っても児供は児供でどんな面白い事があったか、

(くのないしょうせいをたててさわぎだした。よもまたふしぎとそのこえにゆられて、こころのこりが)

苦の無い笑声を立てて騒ぎ出した。予も亦不思議と其声に揺られて、心の凝りが

(いささかやわらかになった。だいうはそのゆうべからふりだした。あめのおとはさながらあくまのきょうかんだ。)

聊か柔かになった。大雨は其夕から降出した。雨の音はさながら悪魔の叫喚だ。

(めにみたあくまがいまはわがやのしゅういににくはくしきたって、みみにちかくそののきょうかんのこえをきく)

目に見た悪魔が今は我家の周囲に肉迫し来って、耳に近く其の叫喚の声を聞く

(こころもちがした。)

心持がした。

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