海野十三『幸運の黒子』

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幸運の黒子を持つ女性と知り合った月田半平の悲喜劇。

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問題文

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(「どうして、おれはこうふうんなんだろう」びょういんのもんをでると、こらえこらえた)

「どうして、おれはこう不運なんだろう」病院の門を出ると、怺えこらえた

(うっぷんをあすふぁるとのろめんにたたきつけたつきだはんぺいだった。いんちょうは、なーに)

鬱憤をアスファルトの路面に叩きつけた月田半平だった。院長は、なーに

(だいじょうぶですよ、こんなびょうきならちゅうしゃの50ぽんもやればぞうさなくなおりますよ。)

大丈夫ですよ、こんな病気なら注射の五十本もやれば造作なく治りますよ。

(ただし50ぽんが1ぽんかけてもだめですよ、それをおわすれのないように--と)

ただし五十本が一本欠けても駄目ですよ、それをお忘れのないように――と

(いった。1かい3えんとして、150えんのかねがいるわけだ。ああ、これがたった)

言った。一回三円として、百五十円の金がいるわけだ。ああ、これがたった

(1どのだいしょうなんだ。たった1ど--というのは、すこしせつめいをようするが、この)

一度の代償なんだ。たった一度――というのは、すこし説明を要するが、この

(はんぺいはがんらい、ていそうけんごのおとこだったのをゆうじんたちがひっぱりだして、とうとめいぶつの)

半平は元来、貞操堅固の男だったのを友人達が引っ張り出して、東都名物の

(ししょうくつたまのいへつれていったのだった。これはゆうじんにもたしょうのわるだくみはあった)

私娼窟玉の井へ連れていったのだった。これは友人にも多少の悪巧みはあった

(にしても、しゅたるどうきははんぺいというおとこがさいくんにしべつしてからまる2ねんこのかた、)

にしても、主たる動機は半平という男が細君に死別してからまる二年この方、

(くうけいをていしゅくにまもりつづけているのをみちゃいられなかったせいだった。そして)

空閨を貞淑に守りつづけているのを見ちゃいられなかったせいだった。そして

(はんぺいは、あくまでもぼうさいへのていそうをししゅするつもりだったのである。かれの)

半平は、あくまでも亡妻への貞操を死守するつもりだったのである。彼の

(えねるぎっしゅなあいかたのりかいをえることができず、ついにぼうりょくをもって)

エネルギッシュな敵娼の理解を得ることができず、ついに暴力をもって

(せいふくされちまったのである。そして、すうじつごにはんぺいはからだの1ぶにいじょうを)

征服されちまったのである。そして、数日後に半平は身体の一部に異常を

(はっけんしたのだった。かれにとって、それはふんだりけったりのふうんだった。いや、)

発見したのだった。彼にとって、それは踏んだり蹴ったりの不運だった。いや、

(それよりもさしあたりだいもんだいなのは、あと49かいのちりょうだいをどうして)

それよりも差し当たり大問題なのは、あと四十九回の治療代をどうして

(ねんしゅつすべきかということだった。これが5ねんまえなら5せんえんのちょきんがあった。その)

捻出すべきかということだった。これが五年前なら五千円の貯金があった。その

(としのくれ、3ぜんえんというものをつかってにいづまをもった。そのさいくんはさらにつぎのとしに)

年の暮れ、三千円というものを費って新妻を持った。その細君はさらに次の年に

(まんせいびょうになり、てんちりょうようをすることになってざんがくの2せんえんはばたばたと)

慢性病になり、転地療養をすることになって残額の二千円はばたばたと

(なくなってしまった。そしてちょきんつうちょうから、さいごの50せんまでがきれいにはらい)

なくなってしまった。そして貯金通帳から、最後の五十銭までが奇麗に払い

(だされると、まもなくさいくんのじゅみょうも、てんごくにかいしゅうされてしまった。かれはまったく)

出されると、間もなく細君の寿命も、天国に回収されてしまった。彼はまったく

など

(むいちもんになったのだった。(49かいのちゅうしゃをやならければ、このみがだんだん)

無一文になったのだった。(四十九回の注射をやならければ、この身がだんだん

(くさっていく!)こうなると、はんぺいはないてばかりもいられなかった。3か3ばん)

腐っていく!)こうなると、半平は泣いてばかりもいられなかった。三日三晩

(かんがえぬいたあげく、やっとのおもいでかれはあんがいてぢかに1つのあんをはっけんしたのだった。)

考え抜いた揚句、やっとの思いで彼は案外手近に一つの案を発見したのだった。

(「どうだったね。かしてくれたかい」はんぺいはげしゅくの2かいにまっていてくれた)

「どうだったね。貸してくれたかい」半平は下宿の二階に待っていてくれた

(ゆうじん、かわはらごうたろうのかおをみるがはやいか、こうこえをかけたのだった。そのゆうじんは)

友人、川原剛太郎の顔を見るが早いか、こう声をかけたのだった。その友人は

(ばつばつせいめいへでているおとこだった。「うん、かしてくれたがね」ゆうじんはたばこのけむりを)

××生命へ出ている男だった。「うん、貸してくれたがね」友人は煙草の煙を

(せわしそうにすった。「きみのいうほどはだめだったよ」「じゃ、いくら)

忙しそうに喫った。「きみの言うほどは駄目だったよ」「じゃ、いくら

(かしたい。200えんか」「うんにゃ、そのはんぶん。100えんだあ」「ちぇっ、)

貸したい。二百円か」「うんにゃ、その半分。百円だあ」「ちぇっ、

(100えんぽっちか、それじゃちりょうだいにもたりゃしない」はんぺいはかわはらのばつばつせいめいへ、)

百円ぽっちか、それじゃ治療代にも足りゃしない」半平は川原の××生命へ、

(1まんえんのほけんをかけているのだった。このさい、はらいこみきんの1ぶをていりでかして)

一万円の保険を掛けているのだった。この際、払込金の一部を低利で貸して

(もらおうとおもってかわはらにこうしょうをたのんだのだったが、それがさいこう100えんではすっかり)

もらおうと思って川原に交渉を頼んだのだったが、それが最高百円ではすっかり

(よそうをうらぎってしまった。「どうもきのどくだがね、どうにもしようがないよ。)

予想を裏切ってしまった。「どうも気の毒だがね、どうにも仕様がないよ。

(これがきみのさいくんのほけんだったら、ここんとこできみは1まんえんのさつたばをつかんで)

これがきみの細君の保険だったら、ここんとこできみは一万円の紙幣束を掴んで

(いるはずだった」「そういえば、なるほど。どうしておれはこう)

いるはずだった」「そういえば、なるほど。どうしておれはこう

(ふうんなんだろう!」「ふうんといえば、おもいだしたがね」ゆうじんのかわはらはあらたまった)

不運なんだろう!」「不運といえば、思い出したがね」友人の川原は改まった

(くちょうでかたりだした。「しんりゅうしというかんそうかのはなしをきいたんだが、きみ、こううんの)

口調で語りだした。「神龍子という観相家の話を聞いたんだが、きみ、幸運の

(ほくろというのがあるんだ。かおにできているほくろといえばふつう、はなすじをちゅうしんとして)

黒子というのがあるんだ。顔にできている黒子といえば普通、鼻筋を中心として

(ひだりがわにあるにきまっていて、みぎがわにあるのはひじょうにまれなんだそうだ。そう)

左側にあるに決まっていて、右側にあるのは非常に稀なんだそうだ。そう

(いわれてきをつけてひとのかおをみていると、なるほどかおのほくろはみなひだりがわに)

言われて気をつけて人の顔を見ていると、なるほど顔の黒子はみな左側に

(あるね。ところで、みぎがわにほくろのあるにんげんがぜんぜんいないかというと、そうでも)

あるね。ところで、右側に黒子のある人間が全然いないかというと、そうでも

(ないのだ。きわめてまれだが、あるにはある。そしてみぎがわにほくろのあるひとはたいへん)

ないのだ。極めて稀だが、あるにはある。そして右側に黒子のある人はたいへん

(こううんなんだそうだよ。きみはいつまでもやもめでいずに、こんどはこううんのほくろのある)

幸運なんだそうだよ。きみはいつまでも鰥夫でいずに、今度は幸運の黒子のある

(わかいおんなでもさがしあててさいこんしてはどうかね」たいへんみみよりなはなしだった。じぶんの)

若い女でも探し当てて再婚してはどうかね」たいへん耳寄りな話だった。自分の

(かおにこううんのほくろをうえつけるわけにはいかないが、あざやかなこううんのほくろをもつ)

顔に幸運の黒子を植えつけるわけにはいかないが、鮮やかな幸運の黒子を持つ

(わかいおんなをにょうぼうにもてばそうとううんがむいてくるだろう。「そりゃほんとうかい」はんぺいは)

若い女を女房に持てば相当運が向いてくるだろう。「そりゃ本当かい」半平は

(といかえさずにはいられなかった。「しんりゅうしのいうことだもの、ぜったいにしんようが)

問い返さずにはいられなかった。「神龍子の言うことだもの、絶対に信用が

(おけるさ」ゆうじんははんぺいのかいぎをあざけるようにいった。「それでも、5ふんかんほど)

置けるさ」友人は半平の懐疑を嘲るように言った。「それでも、五分間ほど

(このままあんせいにしていてください」いんちょうはちゅうしゃとあんぷるのからとを、かんごふに)

このまま安静にしていてください」院長は注射とアンプルの殻とを、看護婦に

(てわたしながらいった。「さいしょのうちは、どうしてもちゅうしゃのはんのうはつよいですよ。)

手渡しながら言った。「最初のうちは、どうしても注射の反応は強いですよ。

(まだ2かいめだからな。では、おしずかに」そういって、いんちょうはへやをでていった。)

まだ二回目だからな。では、お静かに」そう言って、院長は部屋を出ていった。

(あとにはかんごふがのこって、しゅじゅつきかいをかちゃかちゃとかたづけているばかり)

あとには看護婦が残って、手術器械をカチャカチャと片づけているばかり

(だった。「あ、そんなに--」とんきょうなこえをあげて、かんごふがとんできた。)

だった。「あ、そんなに――」頓狂な声を上げて、看護婦が飛んできた。

(「おうごきになってはいけません。いたみますか。もし・・・・・・」めをとじていたはんぺいの)

「お動きになってはいけません。痛みますか。もし……」目を閉じていた半平の

(かおのあたりに、わかいおんなのたいしゅうがむんむんにおってきた。かれはこうふんでしめつけられる)

顔のあたりに、若い女の体臭がむんむん匂ってきた。彼は昂奮で締めつけられる

(ようだった。ずるくめをとじたまま、きゅうかくでわかいかんごふのぜんしんをなめまわしている)

ようだった。狡く目を閉じたまま、嗅覚で若い看護婦の全身を舐めまわしている

(はんぺいであった。「こえをだしちゃ、いけませんよ」かんごふのあついいきがいきなり)

半平であった。「声を出しちゃ、いけませんよ」看護婦の熱い呼吸がいきなり

(はんぺいのみみもとでしたかとおもうと、かれのいっぽうのてくびはぎゅっとにぎられてしまった。)

半平の耳もとでしたかと思うと、彼の一方の手首はぎゅっと握られてしまった。

(「これを、あとでおよみになってください!」「!?」はんぺいはことのいがいに)

「これを、あとでお読みになってください!」「!?」半平はことの意外に

(おどろいて、かんごふのかおをみあげた。「おお・・・・・・」かれはもうすこしでおおごえをだすところ)

驚いて、看護婦の顔を見上げた。「おお……」彼はもう少しで大声を出すところ

(だった。にげるようにいそぎあしでへやをでていくそのかんごふのにくづきのいいあごの)

だった。逃げるように急ぎ足で部屋を出ていくその看護婦の肉づきのいい顎の

(みぎがわに、くろだいずをそっとはりつけたようなほくろがあきらかにみとめられた。おお、)

右側に、黒大豆をそっと貼りつけたような黒子が明らかに認められた。おお、

(こううんのほくろ!おうらいへでると、はんぺいはわかいかんごふからてのうちににぎらされた)

幸運の黒子! 往来へ出ると、半平は若い看護婦から掌のうちに握らされた

(いくつにもおりたたまれてあるしへんをひらいてみた。そこにはえんぴつのはしりがきで、)

いくつにも折り畳まれてある紙片を開いてみた。そこには鉛筆の走り書きで、

(こんなぶんめんがしたためられてあった。「しつれいごめんあそばせ。びょういんで1かい3えんかかる)

こんな文面が認められてあった。『失礼ごめんあそばせ。病院で一回三円かかる

(ちゅうしゃを、あしたのげしゅくへごぜん8じ20ぷんまでにおいでくださればはんがくで)

注射を、あしたの下宿へ午前八時二十分までにおいでくだされば半額で

(いたします。こいしかわくばつばつちょうつぼみあぱーと7ごうしつからさきみどり」はんぺいのかおが、)

いたします。小石川区××町つぼみアパート七号室 唐崎みどり』半平の顔が、

(だらしなくとけた。こうじんのちまたにさらすのがくるしいにこにこがおだった。(こううんの)

だらしなく解けた。行人の巷に曝すのが苦しいにこにこ顔だった。(幸運の

(ほくろをもったおんなをひとめみただけで、こうもうんがよくなるものか!)ちゅうしゃりょうは)

黒子を持った女をひと目見ただけで、こうも運がよくなるものか!)注射料は

(はんがくですむことにはなるし、こううんにめぐまれたわかいおんなはさがしあてるし、それに、)

半額で済むことにはなるし、幸運に恵まれた若い女は探し当てるし、それに、

(あのからさきさんというかんごふのすばらしいせいかんはどうだ!かれはすぐにもとんで)

あの唐崎さんという看護婦の素晴らしい性感はどうだ! 彼はすぐにも飛んで

(かえって、からさきさんとあくしゅをしたくてたまらなかった。すじがきどおりに、からさきさんと)

帰って、唐崎さんと握手をしたくてたまらなかった。筋書どおりに、唐崎さんと

(いつしかどうせいするようになったはんぺいだった。しんこんりょこうもからさきさん--ではない)

いつしか同棲するようになった半平だった。新婚旅行も唐崎さん――ではない

(にいづまみどりのかせぎためたさいふのおかげでみなみいずまでとおでをし、おんせんきぶんとふうふ)

新妻みどりの稼ぎ貯めた財布のお陰で南伊豆まで遠出をし、温泉気分と夫婦

(せいかつとをまんきつすることができた。だが、とうきょうにかえってくるとはんぺいはじゅうびょうに)

生活とを満喫することができた。だが、東京に帰ってくると半平は重病に

(なって、どっととこについてしまった。こうねつがいつまでもさがらなかった。しょくもつも)

なって、どっと床に就いてしまった。高熱がいつまでも下がらなかった。食物も

(ろくろくくちへはいらなくなって、とうとうしんこんご30にちとたたないのに、)

ろくろく口へ入らなくなって、とうとう新婚後三十日と経たないのに、

(「ななな、なにがこううんのほくろだ!」とうなりながら、はんぺいはきせきにはいってしまったの)

「ななな、何が幸運の黒子だ!」と呻りながら、半平は鬼籍に入ってしまったの

(だった。あわれなはんぺいだった。はなしはこれでおしまいである。だそくをくわえるならば、)

だった。哀れな半平だった。話はこれでおしまいである。蛇足を加えるならば、

(はんぺいのかんがえはまちがっていた。こううんのほくろは、やっぱりこううんのほくろだった。)

半平の考えは間違っていた。幸運の黒子は、やっぱり幸運の黒子だった。

(なぜならはんぺいのしとともに、1かげつでみぼうじんとなったみどりはばつばつせいめいから)

なぜなら半平の死とともに、一カ月で未亡人となったみどりは××生命から

(げんきんできん1まんえんなりをうけとった。それがぼうふのかけていたせいめいほけんだった)

現金で金一万円也を受け取った。それが亡夫の掛けていた生命保険だった

(ことは、どくしゃしょくんのよくしょうちのところである。こううんのほくろはみどりに)

ことは、読者諸君のよく承知のところである。幸運の黒子はみどりに

(あったので、はんぺいにあるのではなかった。はんぺいのにんしきぶそくが、このものがたりを)

あったので、半平にあるのではなかった。半平の認識不足が、この物語を

(うんだのだった。)

生んだのだった。

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