源氏物語 蛍3-2「源氏、物語について論じる」
問題文
(「そのひとのうへとて、ありのままにいひいづることこそなけれ、よきもあしきも、)
「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、善きも悪しきも、
(よにふるひとのありさまの、みるにもあかず、きくにもあまることを、)
世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、
(のちのよにもいひつたへさせまほしきふしぶしを、こころにこめがたくて、)
後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、
(いひおきはじめたるなり。よきさまにいふとては、よきことのかぎりよりいでて、)
言ひおき始めたるなり。善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、
(ひとにしたがはむとては、またあしきさまのめづらしきことをとりあつめたる、)
人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、
(みなかたがたにつけたる、このよのほかのことならずかし。)
皆かたがたにつけたる、この世の他のことならずかし。
(ひとのおほやけのざえ、つくりやうかはる、おなじやまとのくにのことなれば、)
人の朝廷の才、作りやう変はる、同じ大和の国のことなれば、
(むかしいまのにかはるべし、ふかきことあさきことのけぢめこそあらめ、)
昔今のに変はるべし、深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、
(ひたぶるにそらごとといひはてむも、ことのこころたがひてなむありける。)
ひたぶるに虚言と言ひ果てむも、ことの心違ひてなむありける。
(ほとけの、いとうるはしきこころにてときおきたまへるみのりも、はうべんといふことありて、)
仏の、いとうるはしき心にて説きおきたまへる御法も、方便といふことありて、
(さとりなきものは、ここかしこたがふうたがひをおきつべくなむ。)
悟りなきものは、ここかしこ違ふ疑ひを置きつべくなむ。
(「はうどうきゃう」のなかにおほかれど、いひもてゆけば、ひとつむねにありて、)
『方等経』の中に多かれど、言ひもてゆけば、ひとつ旨にありて、
(ぼだいとぼんなうとのへだたりなむ、この、ひとのよきあしきばかりのことはかはりける。)
菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人の善き悪しきばかりのことは変はりける。
(よくいへば、すべてなにごともむなしからずなりぬや」)
よく言へば、すべて何ごとも空しからずなりぬや」
(と、ものがたりをいとわざとのことにのたまひなしつ。)
と、物語をいとわざとのことにのたまひなしつ。
(「さて、かかるふることのなかに、まろがやうにじはうなるしれもののものがたりはありや。)
「さて、かかる古言の中に、まろがやうに実法なる痴者の物語はありや。
(いみじくけどほきもののひめぎみも、みこころのやうにつれなく、)
いみじく気遠きものの姫君も、御心のやうにつれなく、
(そらおぼめきしたるはよにあらじな。いざ、たぐひなきものがたりにして、)
そらおぼめきしたるは世にあらじな。いざ、たぐひなき物語にして、
(よにつたへさせむ」と、さしよりてきこえたまへば、かほをひきいれて、)
世に伝へさせむ」と、さし寄りて聞こえたまへば、顔を引き入れて、
(「さらずとも、かくめづらかなることは、よがたりにこそはなりはべりぬべかめれ」)
「さらずとも、かく珍かなることは、世語りにこそはなりはべりぬべかめれ」
(とのたまへば、)
とのたまへば、
(「めづらかにやおぼえたまふ。げにこそ、またなきここちすれ」)
「珍かにやおぼえたまふ。げにこそ、またなき心地すれ」
(とて、よりいたまへるさま、いとあざれたり。)
とて、寄りゐたまへるさま、いとあざれたり。
(「おもひあまりむかしのあとをたづぬれどおやにそむけるこぞたぐひなき)
「思ひあまり昔の跡を訪ぬれど親に背ける子ぞたぐひなき
(ふけうなるは、ほとけのみちにもいみじくこそいひたれ」)
不孝なるは、仏の道にもいみじくこそ言ひたれ」
(とのたまへど、かほももたげたまはねば、みぐしをかきやりつつ、)
とのたまへど、顔ももたげたまはねば、御髪をかきやりつつ、
(いみじくうらみたまへば、からうして、)
いみじく怨みたまへば、からうして、
(「ふるきあとをたづぬれどげになかりけりこのよにかかるおやのこころは」)
「古き跡を訪ぬれどげになかりけりこの世にかかる親の心は」
(ときこえたまふも、こころはづかしければ、いといたくもみだれたまはず。)
と聞こえたまふも、心恥づかしければ、いといたくも乱れたまはず。
(かくして、いかなるべきおんありさまならむ。)
かくして、いかなるべき御ありさまならむ。