『伝習録』〈現代語訳〉1
明代の大儒学者王陽明。
当時の知識階級の玩具と成り下がりつつあった儒教に実践と行動に重きを置き、心の効用を説きました。
この陽明学は日本では、江戸後期の武士や維新の志士の行動哲学でもありました。
その後、明治時代には明治男、戦前の帝国軍人にも引き継がれていましたが、戦後にはなぜか危険思想として避けられてしまうようになりました。
現代では政財界に信望者が多く、一部講演なども行われているようです。
ここでは「致知格物」・「心即理」・「知行合一」・「天地万物一体の仁」の各説がふんわり意訳しております。
詳しくは大家の翻訳を参照してください。
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問題文
(わたしのいう「ちちかくぶつ」とは、)
私のいう「致知格物」とは、
鄙人の所謂致知格物のごときは、
(わがこころのりょうちをひとつひとつのじぶつにけんげんすることである。)
吾が心の良知を一つ一つの事物に顕現することである。
吾が心の良知を事事物物に致すなり。
(わがこころのりょうちはてんりにほかならない。)
吾が心の良知は天理に他ならない。
吾が心の良知は即ち所謂天理なり。
(わがこころのりょうちのてんりをひとつひとつのじぶつにけんげんするならば、)
吾が心の良知の天理を一つ一つの事物に顕現するならば、
吾が心の良知の天理を事事物物に致すときは、
(それらのじぶつはみなそのりをえるのだ。)
それらの事物はみなその理を得るのだ。
即ち事事物物皆其の理を得るなり。
(わがこころのりょうちをけんげんするのが「ちち」であり、)
吾が心の良知を顕現するのが「致知」であり、
吾が心の良知を到すとは致知なり。
(ひとつひとつのじぶつがそのりをえるのが「かくぶつ」である。)
一つ一つの事物がその理を得るのが「格物」である。
事事物物皆其の理を得るとは、格物なり。
(つまりこころとりとをあわしてひとつにすることである。)
つまり心と理とを合して一つにすることである。
是れ心と理とを合して一となすときは、・・
(こころこそがすなわちりである。)
心こそが即ち理である。
心は即ち理なり。
(このよのなかにこころいがいのこと、こころいがいのりがあろうか。)
この世の中に心以外のこと、心以外の理があろうか。
天下亦心外のこと、心外の理あらんや
(たとえばちちにつかえるとき、)
例えば父に仕える時、
旦く父に事うるが如きは、
(ちちのうえにこうのりをもとめられるものではなく、また、)
父の上に孝の理を求められるものではなく、また、
父上に去きて箇の孝の理を求むるを成さず、
(きみのうえにちゅうのりをもとめられるものではないであろう。)
君の上に忠の理を求められるものではないであろう。
君に事うるは君上に去きて箇の忠の理を求むると成さず、
(ともとまじわりたみをおさめるときも、あいてのうえにしん・じんのりをもとめたりはしない。)
友と交わり民を治めるときも、相手の上に信・仁の理を求めたりはしない。
友に交わり民を治むるは、友上民上に去きて箇の信と仁との理を求むると成さず
(こう・ちゅう・しん・じんはすべてわがこころのうちにある。)
孝・忠・信・仁はすべてわが心のうちに在る。
都(すべ)て只だ此の心に在理。
(すなわち、こころがそのままりなのだ。)
即ち、心がそのまま理なのだ。
心は即ち理なり。
(このこころがしよくにおおわれてさえいなければ、それはそのままてんりであって、)
この心が私欲に覆われてさえいなければ、それはそのまま天理であって、
此の心私欲の蔽無ければ、即ち是れ天理にして、
(そとからなにもつけくわえるひつようはないのだ。)
外から何も付け加える必要はないのだ。
外面より一分を添うるを須いず、
(このてんりにじゅんなるこころによってちちにつかえれば、それがこうであり、)
この天理に純なる心によって父に仕えれば、それが孝であり、
此の天理に純なる心を以って、之を発して父に事うれば孝、
(そのこころによってきみにつかえれば、それがちゅうなのである。)
その心によって君に仕えれば、それが忠なのである。
之を発して君に事うれば忠、
(そしてそのこころでともとまじわりたみをおさめれば、それがしん・じんなのである。)
そしてその心で友と交わり民を治めれば、それが信・仁なのである。
之を発して友に交わり民を治むれば便ち是れ信と仁なり。
(ひたすらわがこころのじんよくをさり、てんりをそんするくふうをつむこと、これいがいにない。)
ひたすら吾が心の人欲を去り、天理を存する工夫を積むこと、これ以外にない。
只だ此の心人欲を去り天理を存する上に在りて功を用うれば、便ち是なり
(「わたしは、せんせいのちこうごういつということがなかなかりかいできません。)
「私は、先生の知行合一ということがなかなか理解できません。
知行合一を問う。
(たとえば、ちちにはこう、あににはていたるべし、ということはわかっていても、)
例えば、父には孝、兄には悌足るべし、ということは分かっていても、
(じっこうとなるとできないのは、)
実行となるとできないのは、
(ちとこうとがふたつのことがらであるからではないでしょうか」)
知と行とが二つの事柄であるからではないでしょうか」
(「それはしよくのためちこうのほんらいのありかたからはずれているからだ。)
「それは私欲のため知行の本来のあり方から外れているからだ。
(ほんらい、しっているものであれば、かならずおこないにあらわれるはずなのだ。)
本来、知っているものであれば、必ず行いに現われるはずなのだ。
(あるひとがこう・ていをしっているとすれば、)
ある人が孝・悌を知っているとすれば、
(それをじっこうしてはじめてしっているといえるわけで、)
それを実行して初めて知っていると言える訳で、
(たとえこうやていをろんずることをおぼえても、それはしっていることとはならない」)
たとえ孝や悌を論ずることを覚えても、それは知っていることとはならない」
(わたしがなぜ、ちこうごういつをしゅちょうするのか、まずそのこんぽんをしってほしい。)
私が何故、知行合一を主張するのか、まずその根本を知って欲しい。
此れ須らく我が立言の宗旨を識るべし。
(いまのひとはがくもんをするにあたって、ちとこうとをぶんりさせているがために、)
今の人は学問をするにあたって、知と行とを分離させているが為に、
今人の学問は、只だ知行を分ちて両伴と作すに因りて、
(あるいちねんがほっきしたとき、それがふぜんなるものであっても、)
ある一念が発起した時、それが不善なるものであっても、
故に一念発動して、是れ不善なりと雖も、
(じっさいにおこないさえしなければよいとかんがえて、それをおさえつけようとしない。)
実際に行いさえしなければ善いと考えて、それを抑えつけようとしない。
然れども卻て未だ曾て行われざれば、便ち禁止し去かさざること有り、
(わたしがいまこのちこうごういつをとくのは、ひとびとにいちねんのほっきするところ、)
私がいまこの知行合一を説くのは、人々に一念の発起する所、
我今箇の知行合一を説くは、正に人の一念発動のところは便ち是れ
(これこそがまさにこうにほかならない、ということをしってほしいからだ。)
これこそが正に行に他ならない、ということを知って欲しいからだ。
行了なることを暁得し、
(もしほっきしたいちねんがふぜんであるならば、このふぜんのねんをこくふくする、)
もし発起した一念が不善であるならば、この不善の念を克服する、
発動の処に不善有らば、就ち這の不善の念を将て克倒し了らんことを要す。
(このいちねんのふぜんをてっていてきにきょうちゅうからとりのぞくことがひつようなのである。)
この一念の不善を徹底的に胸中から取り除く事が必要なのである。
徹根徹底、那の一念の不善をして潜伏して胸中に在らしめざることを須要す。
(これがわたしのしゅちょうのこんぽんなのだ。)
これが私の主張の根本なのだ。
此れは是れ我が立言の宗旨なり。
(そもそもひとはてんちのこころにあたり、てんちばんぶつはもともとひととどうたいのものである。)
そもそも人は天地の心に当たり、天地万物はもともと人と同体のものである。
夫れ人は天地の心にして、天地万物はもと吾が一体なり、
(だからせいみんのきゅうぼうこんくは、そのままわがみにせつなるとうつうにほかならず、)
だから生民の窮乏困苦は、そのまま吾が身に切なる疼痛に他ならず、
生民の困苦茶毒は孰れか疼痛の吾が身に切なるものにあらざらんや、
(このわがみのとうつうをかんじないものはぜひのこころをもたないものだ。)
この吾が身の疼痛を感じないものは是非の心をもたない者だ。
吾が身の疼痛を知らざるは、是非の心なきものなり、
(ここでいうぜひのこころとは、)
ここでいう是非の心とは、
是非の心は
(「おもんぱからずしてしり、まなばずしてよくする」)
「慮らずして知り、学ばずして能くする」
慮らずして知り、学ばずして能くす、
(ところのいわゆるりょうちである。)
ところのいわゆる良知である。
いわゆる良知なり、
(りょうちがひとのこころにぐざいすることは、せいぐのべつなく、てんかここんにれいがいはない。)
良知が人の心に具在することは、聖愚の別なく、天下古今に例外はない。
良知の人心にある、聖愚を間るなく、天下古今の同じところなり、
(よのくんしは、ただそのりょうちをはっきすることにさえつとめれば、)
世の君子は、ただその良知を発揮することにさえ努めれば、
世の君子惟その良知を致さんことを務むれれば、
(そのぜひのはんだんはしぜんとばんにんふへんのものとなり、)
その是非の判断は自然と万人不偏のものとなり、
即ち自ら能く是非を公にし
(こうおはばんにんにきょうつうとなり、ひととおのれのさべつもなくなり、)
好悪は万人に共通となり、人と己の差別もなくなり、
好悪を同じくし、人を視ること己の如く、
(こっかはあたかもかぞくとみなされ、かくててんちばんぶつはいったいとみなされる。)
国家はあたかも家族と見做され、かくて天地万物は一体と見做される。
国を視ること家のごとくにして、天地万物を以って一体となす。
(こうなればてんかにちへいをもたらすまいとするほうが、むりというものである。)
こうなれば天下に治平をもたらすまいとする方が、無理というものである。
天下の治まるなからむことを求むるも得べからざるなり。