白痴 19

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坂口安吾の小説。

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問題文

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(そのひからべつなせいかつがはじまった。)

その日から別な生活がはじまった。

(けれどもそれはひとつのいえにおんなのにくたいがふえたということのほかには)

けれどもそれは一つの家に女の肉体がふえたということの外には

(べつでもなければかわってすらもいなかった。)

別でもなければ変ってすらもいなかった。

(それはまるでうそのようなそらぞらしさで、)

それはまるで嘘のような空々しさで、

(たしかにかれのしんぺんに、そしてかれのせいしんに、)

たしかに彼の身辺に、そして彼の精神に、

(あらたなめばえのただいっぽんのほさきすらみだすことができないのだ。)

新たな芽生えの唯一本の穂先すら見出すことができないのだ。

(そのできごとのいじょうさをともかくりせいてきになっとくしているというだけで、)

その出来事の異常さをともかく理性的に納得しているというだけで、

(せいかつじたいにつくえのおきばしょがかわったほどのへんかもおきてはいなかった。)

生活自体に机の置き場所が変ったほどの変化も起きてはいなかった。

(かれはまいあさしゅっきんし、)

彼は毎朝出勤し、

(そのるすたくのおしいれのなかにひとりのはくちがのこされてかれのかえりをまっている。)

その留守宅の押入の中に一人の白痴が残されて彼の帰りを待っている。

(しかもかれはひとあしでると、もうはくちのおんなのことなどはわすれており、)

しかも彼は一足でると、もう白痴の女のことなどは忘れており、

(なにかそういうできごとがもうきおくにもさだかではない)

何かそういう出来事がもう記憶にも定かではない

(じゅうねんにじゅうねんまえにおこなわれていたかのようなとおいきもちがするだけだった。)

十年二十年前に行われていたかのような遠い気持がするだけだった。

(せんそうというやつが、ふしぎにけんぜんなけんぼうせいなのであった。)

戦争という奴が、不思議に健全な健忘性なのであった。

(まったくせんそうのおどろくべきはかいりょくやくうかんのへんてんせいというやつは)

まったく戦争の驚くべき破壊力や空間の変転性という奴は

(たったいちにちがなんびゃくねんのへんかをおこし、)

たった一日が何百年の変化を起し、

(いっしゅうかんまえのできごとがすうねんまえのできごとにおもわれ、)

一週間前の出来事が数年前の出来事に思われ、

(いちねんまえのできごとなどは、きおくのもっともどんぞこのしたづみのそこへへだてられていた。)

一年前の出来事などは、記憶の最もどん底の下積の底へ隔てられていた。

(いざわのちかくのどうろだのこうじょうのしいのたてものなどがとりこわされ)

伊沢の近くの道路だの工場の四囲(しい)の建物などが取りこわされ

(まちぜんたいがただまいあがるほこりのようなそかいさわぎをやらかしたのも)

町全体がただ舞いあがる埃のような疎開騒ぎをやらかしたのも

など

(ついさきごろのことであり、)

つい先頃のことであり、

(そのあとすらもかたづいていないのに、)

その跡すらも片づいていないのに、

(それはもういちねんまえのさわぎのようにとおざかり、)

それはもう一年前の騒ぎのように遠ざかり、

(まちのようそうをいっぺんするおおきなへんかが)

街の様相を一変する大きな変化が

(にどめにそれをながめるときにはただとうぜんなふうけいでしかなくなっていた。)

二度目にそれを眺める時にはただ当然な風景でしかなくなっていた。

(そのけんこうなけんぼうせいのざったなかけらのひとつのなかに)

その健康な健忘性の雑多なカケラの一つの中に

(はくちのおんながやっぱりかすんでいる。)

白痴の女がやっぱり霞んでいる。

(きのうまでぎょうれつしていたえきまえのいざかやのそかいあとのぼうきれだの)

昨日まで行列していた駅前の居酒屋の疎開跡の棒切れだの

(ばくだんにはかいされたびるのあなだのまちのやけあとだの、)

爆弾に破壊されたビルの穴だの街の焼跡だの、

(それらのざったのかけらのあいだにはさまれて)

それらの雑多のカケラの間にはさまれて

(はくちのかおがころがっているだけだった。)

白痴の顔がころがっているだけだった。

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