白痴 29
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問題文
(へんてこなせいじゃくのあつみと、)
変てこな静寂の厚みと、
(きのちがいそうなこどくのあつみがとっぷりししゅうをつつんでいる。)
気の違いそうな孤独の厚みがとっぷり四周をつつんでいる。
(もうさんじゅうびょう、もうじゅうびょうだけまとう。)
もう三十秒、もう十秒だけ待とう。
(なぜ、そしてだれがめいれいしているのだか、)
なぜ、そして誰が命令しているのだか、
(どうしてそれにしたがわねばならないのだか、いざわはきちがいになりそうだった。)
どうしてそれに従わねばならないのだか、伊沢は気違いになりそうだった。
(とつぜん、もだえ、なきわめいてもうもくてきにはしりだしそうだった。)
突然、もだえ、泣き喚いて盲目的に走りだしそうだった。
(そのときこまくのなかをかきまわすようならっかおんがあたまのまうえへおちてきた。)
そのとき鼓膜の中を掻き廻すような落下音が頭の真上へ落ちてきた。
(むちゅうにふせると、ずじょうでおんきょうはとつぜんきえうせ、)
夢中に伏せると、頭上で音響は突然消え失せ、
(うそのようなせいじゃくがふたたびししゅうにもどっている。やれやれ、おどかしやがる。)
嘘のような静寂が再び四周に戻っている。やれやれ、脅かしやがる。
(いざわはゆっくりおきあがって、むねやひざのつちをはらった。)
伊沢はゆっくり起き上って、胸や膝の土を払った。
(かおをあげると、きちがいのいえがひをふいている。)
顔をあげると、気違いの家が火を吹いている。
(なんだい、とうとうおちたのか、かれはきみょうにおちついていた。)
何だい、とうとう落ちたのか、彼は奇妙に落着いていた。
(きがつくと、そのさゆうのいえも、)
気がつくと、その左右の家も、
(すぐめのまえのあぱーともひをふきだしているのだ。)
すぐ目の前のアパートも火をふきだしているのだ。
(いざわはいえのなかへとびこんだ。)
伊沢は家の中へとびこんだ。
(おしいれのとをはねとばして(じっさいそれははずれてとんでばたばたとたおれた))
押入の戸をはねとばして(実際それは外れて飛んでバタバタと倒れた)
(はくちのおんなをだくようにふとんをかぶってはしりでた。)
白痴の女を抱くように蒲団をかぶって走りでた。
(それからいっぷんかんぐらいのことがぜんぜんむちゅうでわからなかった。)
それから一分間ぐらいのことが全然夢中で分らなかった。
(ろじのでぐちにちかづいたとき、また、おんきょうがずじょうめがけておちてきた。)
路地の出口に近づいたとき、又、音響が頭上めがけて落ちてきた。
(ふせからおきあがると、ろじのでぐちのたばこやもひをふき、)
伏せから起上ると、路地の出口の煙草屋も火を吹き、
(むかいのいえではぶつだんのなかからひがふきだしているのがみえた。)
向いの家では仏壇の中から火が吹きだしているのが見えた。
(ろじをでてふりかえると、したてやもひをふきはじめ、)
路地をでて振りかえると、仕立屋も火を吹きはじめ、
(どうやらいざわのこやももえはじめているようだった。)
どうやら伊沢の小屋も燃えはじめているようだった。
(ししゅうはまったくのひのうみでふどうのうえにはひなんみんのすがたもすくなく、)
四周は全くの火の海で府道の上には避難民の姿もすくなく、
(ひのこがとびかいまいくるっているばかり、もうだめだといざわはおもった。)
火の粉がとびかい舞い狂っているばかり、もう駄目だと伊沢は思った。
(じゅうじろへくると、ここからたいへんなこんざつで、)
十字路へくると、ここから大変な混雑で、
(あらゆるひとびとがただいっぽうをめざしている。)
あらゆる人々がただ一方をめざしている。
(そのほうこうがいちばんひのてがとおいのだ。)
その方向がいちばん火の手が遠いのだ。
(そこはもうみちではなくて、にんげんとにもつのひめいのおもりあったながれにすぎず、)
そこはもう道ではなくて、人間と荷物の悲鳴の重りあった流れにすぎず、
(おしあいへしあいつきすすみふみこえおしながされ、)
押しあいへしあい突き進み踏み越え押し流され、
(らっかおんがずじょうにせまると、)
落下音が頭上にせまると、
(ながれはいっときにちじょうにふしてふしぎにぴったりとまってしまい、)
流れは一時に地上に伏して不思議にぴったり止まってしまい、
(なんにんかのおとこだけがながれのうえをふみつけてかけさるのだが、)
何人かの男だけが流れの上を踏みつけて駆け去るのだが、
(ながれのたいはんのひとびとはにもつとこどもとおんなとろうじんのつれがあり、)
流れの大半の人々は荷物と子供と女と老人の連れがあり、
(よびかわしたちどまりもどりつきあたりはねとばされ、)
呼びかわし立ち止り戻り突き当りはねとばされ、
(そしてひのてはすぐみちのさゆうにせまっていた。)
そして火の手はすぐ道の左右にせまっていた。