桜雨 -15-

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師匠シリーズ
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(しかしひろさんはそのみぎてのてのひらのうえにかぎをのせたまま、) しかしヒロさんはその右手の手のひらの上に鍵を乗せたまま、 (それをしげしげとながめている。) それをしげしげと眺めている。 (どうしたんだろうとおもって、みんなそれをとおまきにみつめている。) どうしたんだろうと思って、みんなそれを遠巻きに見つめている。 (おっおっ、とおえつがもれた。) おっおっ、と嗚咽が漏れた。 (こどものようなむくなかおをしたまま、) 子どものような無垢な顔をしたまま、 (そのひとみからなみだがぽろぽろとこぼれていった。) その瞳から涙がぽろぽろとこぼれていった。 (そしていつものこえで、つまり、つまりしながらひろさんはしゃべりはじめた。) そしていつもの声で、つまり、つまりしながらヒロさんは喋り始めた。 (だれにきかせるでもなく、じぶんとそのかぎのことを。) 誰に聞かせるでもなく、自分とその鍵のことを。 (わたしたちはいきをのんでそれにききいった。) 私たちは息を飲んでそれに聞き入った。 (いつにもましたどもりぐせのためにききとりづらかったが、) いつにも増したどもりぐせのために聞き取りづらかったが、 (じかんをかけてつむいだのはこんなものがたりだった。) 時間をかけて紡いだのはこんな物語だった。 (はる。) 春。 (さくらがさいていた。) 桜が咲いていた。 (やまをこえたとおくのむらでうまれたひろさんは、) 山を超えた遠くの村で生まれたヒロさんは、 (ながれながれこのまちにやってきたのだった。) 流れ流れこの街にやってきたのだった。 (まだわかかったひろさんは、あたまがよくなかったが、) まだ若かったヒロさんは、頭が良くなかったが、 (からだはけんこうだったのでいろいろなしごとをした。) 身体は健康だったので色々な仕事をした。 (にもつはこびのようなたんじゅんなちからしごとがおおかった。) 荷物運びのような単純な力仕事が多かった。 (あたまのよいひとにいいようにつかわれて、おきゅうりょうをあまりもらえないこともあったが、) 頭の良い人にいいように使われて、お給料をあまりもらえないこともあったが、 (それでもなんとかじぶんひとりがたべていけるくらいにはがんばっていた。) それでもなんとか自分ひとりが食べていけるくらいには頑張っていた。
など
(そのころはろうどうしゃのすむどやがいのようなばしょがあり、) そのころは労働者の住むドヤ街のような場所があり、 (そこにきちんやどにとうりゅうしてひびをすごしていた。) そこに木賃宿に逗留して日々を過ごしていた。 (ひろさんはさくらがすきだった。) ヒロさんは桜が好きだった。 (このかわいいしろいはなをみていると、こきょうをおもいだすのが。) このかわいい白い花を見ていると、故郷を思い出すのが。 (ふるさとにあったどんなものよりも、このはながなつかしかった。) ふるさとにあったどんなものよりも、この花が懐かしかった。 (ひろさんはそのひも、まちはずれにあったおきにいりのあきちで) ヒロさんはその日も、街はずれにあったお気に入りの空き地で (よこがたおしになったどかんのうえにこしかけて、しきちのすみにあったさくらのきをみていた。) 横が倒しになったドカンの上に腰掛けて、敷地の隅にあった桜の木を見ていた。 (しごとはきのうで「もうこなくていい」といわれたので、) 仕事は昨日で「もう来なくていい」と言われたので、 (そのひはいちにちなにもすることがなかった。) その日は一日なにもすることがなかった。 (あしたからまたごはんをたべられるように、) 明日からまたご飯を食べられるように、 (なにかはたらきぐちをみつけなくてはならなかった。) なにか働き口を見つけなくてはならなかった。 (でもきょうは、いいや。) でも今日は、いいや。 (そうおもってさくらをみていた。) そう思って桜を見ていた。 (そのしろいはなはもうちりかけていた。) その白い花はもう散りかけていた。 (あしたにはぜんぶちってしまっているかもしれない。) 明日には全部散ってしまっているかも知れない。 (はらはらと、かぜにのってはなびらがまう。) はらはらと、風に乗って花びらが舞う。 (きょうはこのともだちをみていよう。) 今日はこの友だちを見ていよう。 (そうおもったのだった。) そう思ったのだった。 (すると、いつのまにかなんともいえないよいにおいがしてきて、) すると、いつの間にかなんとも言えない良い匂いがしてきて、 (おもわずふりむくとどかんのはしにもたれかかるようにして) 思わず振り向くとドカンの端にもたれかかるようにして (ひとりのおんなのひとがほほえんでいた。) 一人の女の人が微笑んでいた。 (どきどきした。) ドキドキした。 (せいそそうなあかいふくをきたそのひとは、とってもきれいだった。) 清楚そうな赤い服を着たその人は、とっても綺麗だった。 (「なにをしているの」) 「なにをしているの」 (そうといかけられた。) そう問い掛けられた。 (「さくらを、みてるんです」) 「さくらを、みてるんです」 (おんなのひとは「わたしもみてよい?」ときいた。さらさらとながいかみがかぜにゆれた。) 女の人は「わたしも見て良い?」と訊いた。さらさらと長い髪が風に揺れた。 (「いいです。さくらはみてもへりません」) 「いいです。さくらはみてもへりません」 (われながらじょうずないいかたができた、とおもった。そうおもうとうれしくなった。) 我ながら上手な言い方ができた、と思った。そう思うと嬉しくなった。 (おんなのひとはくすりとかわいらしくわらうと、となりにすわった。) 女の人はクスリとかわいらしく笑うと、隣に座った。 (そうしてふたりでおなじさくらのきをみていた。) そうして二人で同じ桜の木を見ていた。 (いつまでも、いつまでもみていた。) いつまでも、いつまでも見ていた。 (そのあいだも、ずっとさくらのはなびらはしずかなはるのそらをまいつづけた。) そのあいだも、ずっと桜の花びらは静かな春の空を舞い続けた。 (きれいだった。なにもかも。いきがくるしいくらい。) 綺麗だった。なにもかも。息が苦しいくらい。 (「へってくね」) 「減ってくね」 (おんなのひとはぽつりとそういった。) 女の人はぽつりとそう言った。 (ひろさんはすこしかなしくなった。) ヒロさんは少し悲しくなった。 (「へっても、またかえってきます」) 「へっても、またかえってきます」 (「どこから」) 「どこから」
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