ロックの歴史 その14

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ロックの歴史 その14

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(17.あめりかのはんげきとがーるずぽっぷ)

【17.アメリカの反撃とガールズ・ポップ】

(あめりかのはんげきは、まいけるじゃくそんからひをふきはじめる。)

アメリカの反撃は、マイケル・ジャクソンから火を噴き始める。

(まいけるじゃくそんは70ねんだいに「じゃくそんふぁいぶ」というにんききょうだい)

マイケル・ジャクソンは70年代に「ジャクソン・ファイブ」という人気兄弟

(ぐるーぷでこやくすたーとしてのちいをきずいていたが、70ねんだいまっき、せいちょうして)

グループで子役スターとしての地位を築いていたが、70年代末期、成長して

(からはこどもじだいほどのにんきはえていなかった。そこで1982ねん、22さいに)

からは子供時代ほどの人気は得ていなかった。そこで1982年、22歳に

(なったまいけるをいまこそうりだそう、というけいかくがれこーどがいしゃにでてくる。)

なったマイケルを今こそ売り出そう、という計画がレコード会社に出てくる。

(したたかなれこーどがいしゃは、そっくりそのまま、いままでいぎりすぜいがかんがえ、)

したたかなレコード会社は、そっくりそのまま、今までイギリス勢が考え、

(つかってきた「えいぞうとおんがく」「ふぁっしょんせい」「せくしーさ」といったしゅほうを)

使ってきた「映像と音楽」「ファッション性」「セクシーさ」といった手法を

(もちいて、はんげきしたのだ。れこーどがいしゃはまいけるを100%すたーにするために、)

用いて、反撃したのだ。レコード会社はマイケルを100%スターにする為に、

(100%うるために、けたはずれのあらゆるじゅんびをしたのである。そうして82ねんに)

100%売る為に、桁外れのあらゆる準備をしたのである。そうして82年に

(うりだされたのが「すりらー」だ。げすとみゅーじしゃんには、)

売り出されたのが「スリラー」だ。ゲストミュージシャンには、

(ぽーるまっかーとにー、えでぃーヴぁんへいれん、すてぃーヴ)

ポール・マッカートニー、エディー・ヴァン・ヘイレン、スティーヴ・

(るかさーといったびっぐねーむをはいし、しんぐるのびでおくりっぷはそうがく)

ルカサーといったビッグネームを配し、シングルのビデオクリップは総額

(2おくえんをついやしせいさくされた。もちろんぜんえいべいなんばー1、ぜんせかいで4000)

2億円を費やし製作された。もちろん全・英米ナンバー1、全世界で4000

(まんまいのうりあげをきろくし、ぎねすぶっくいり。しんぐるかっとされた7きょくは)

万枚の売り上げを記録し、ギネスブック入り。シングルカットされた7曲は

(ぜんぶとっぷてんはいり。ぐらみーしょうも8ぶもんどくせん。37しゅうなんばーわんをきーぷ)

全部トップテン入り。グラミー賞も8部門独占。37週ナンバーワンをキープ

(した。きばつで、みゅーじかるえいがのさまなびでお、ふぁっしょなぶるで、)

した。奇抜で、ミュージカル映画の様なビデオ、ファッショナブルで、

(せんれんされたおとこのみりょくをだしたあるばむじゃけっと、せくしーでわいるどな)

洗練された男の魅力を出したアルバム・ジャケット、セクシーでワイルドな

(こしふりだんす・・・。すべて、けいかくどおりうれにうれた。このいきおいにのって)

腰振りダンス・・・。全て、計画通り売れに売れた。この勢いに乗って

(あめりかは、いっきにいぎりすぜいをつきはなしていく。)

アメリカは、一気にイギリス勢を突き放していく。

など

(「すたーになるの」といって17さいでだいがくをちゅうたいし、たった35どるを)

「スターになるの」と言って17歳で大学を中退し、たった35ドルを

(ぽけっとにつっこんで、たんしんみしがんからにゅーよーくにわたり、こぐんふんとう、)

ポケットに突っ込んで、単身ミシガンからニューヨークに渡り、孤軍奮闘、

(じぶんのうりこみをしていたまどんなは、わーなーによりはっくつされた。84ねん、)

自分の売り込みをしていたマドンナは、ワーナーにより発掘された。84年、

(「ばーにんぐあっぷ」ででびゅーする。そしていきなりしんぐるかっとした)

「バーニング・アップ」でデビューする。そしていきなりシングルカットした

(「らっきーすたー」がぜんべい4いとなり、そのなをしらしめた。まったくおなじころ、)

「ラッキー・スター」が全米4位となり、その名を知らしめた。全く同じ頃、

(にゅーよーくでうれないしんがーとしてほっつきあるいていたしんでぃー)

ニューヨークで売れないシンガーとしてほっつき歩いていたシンディー・

(ろーぱーも、ぽーとれーとれこーどというかいしゃにみだされ、「しーず)

ローパーも、ポート・レート・レコードという会社に見出され、「シーズ・

(そーあんゆーじゅある」ででびゅー。これがふぁーすとあるばむにして)

ソー・アンユー・ジュアル」でデビュー。これがファーストアルバムにして

(ぜんべいなんばーわんひっときょくが2きょくという、じょせいとしてはしじょうはつのかいきょを)

全米ナンバーワンヒット曲が2曲という、女性としては史上初の快挙を

(たっせいする、もんすたーあるばむとなる。しんでぃーのみりょくは、そのどはでな)

達成する、モンスターアルバムとなる。シンディーの魅力は、そのド派手な

(いしょう、おれんじいろにばくはつしたかみがた、かんたかいとくちょうのあるこえ、そしてなにより)

衣装、オレンジ色に爆発した髪型、カン高い特徴のある声、そして何より

(それまでのじょせいしんがーにはみられなかった「あんゆーじゅある(ふつうじゃない)

それまでの女性シンガーには見られなかった「アンユージュアル(普通じゃない

(いかれてる)」なところだろう。ふぁっしょんとろっくがむすびついたそのころ、おおくの)

イカれてる)」な所だろう。ファッションとロックが結びついたその頃、多くの

(わかものは「すきなふくをすきなさまにきたい!」「ふぁっしょんでじこひょうげんしたい!」)

若者は「好きな服を好きな様に着たい!」「ファッションで自己表現したい!」

(というよっきゅうにかられつつあった。「こせいのじだい」のとうらいだ。いままでのろっく)

という欲求にかられつつあった。「個性の時代」の到来だ。今までのロック

(ふぁんのわかものたちは、せいぜいらいぶのひに、ばんどのtしゃつをきたり、)

ファンの若者達は、せいぜいライブの日に、バンドのTシャツを着たり、

(きっすのめいくをしたり、かみをのばしたりするだけであった。でヴぃっど)

キッスのメイクをしたり、髪を伸ばしたりするだけであった。デヴィッド・

(ぼういがでてこようが、ありすくーぱーがでてこようが、きっすがでて)

ボウイが出てこようが、アリス・クーパーが出て来ようが、キッスが出て

(こようが、あんなに「こせいてき」なのにもかかわらず、だれもにちじょうではそのかみがたや)

来ようが、あんなに「個性的」なのにも関わらず、誰も日常ではその髪型や

(ふぁっしょんをまねしようとはおもわなかった。なぜならかれらは「ふぁっしょん」)

ファッションを真似しようとは思わなかった。何故なら彼等は「ファッション」

(として「こせい」をだしていた、というよりはむしろ「いしょう」としてめだつ)

として「個性」を出していた、というよりはむしろ「衣装」として目立つ

(かっこうがひつようであったからそうしていたのだった。しかし「ぱんぐ」)

格好が必要であったからそうしていたのだった。しかし「パング」

(「にゅーうぇーぶ」いこうのろっくからは、「いしょう」はきえ「ふぁっしょん」が)

「ニューウェーブ」以降のロックからは、「衣装」は消え「ファッション」が

(ゆうせんされた。そして「いしょう」ではないかぎり、だれでもまねすることができた。)

優先された。そして「衣装」ではない限り、誰でも真似することができた。

(そんな、すたーのふぁっしょんをまねするてぃーんえいじゃーたちは「わなびー」)

そんな、スターのファッションを真似するティーンエイジャー達は「ワナビー」

(とよばれた。わなびーとはもちろん「wannabe」からきている。)

と呼ばれた。ワナビーとはもちろん「wanna be」から来ている。

(まどんなのまねをしていれば「まどんなわなびー」、しんでぃろーぱーの)

マドンナの真似をしていれば「マドンナ・ワナビー」、シンディ・ローパーの

(ようなかっこうをしていれば「しんでぃわなびー」である。というわけで、もはや)

様な格好をしていれば「シンディ・ワナビー」である。という訳で、もはや

(ろっくすたーというそくめんより、ふぁっしょんりーだーてきなそくめんがじゅうしされ)

ロックスターという側面より、ファッションリーダー的な側面が重視され

(はじめたばんどやみゅーじしゃんをまのあたりにしたわかものたちが、こせいかしようと)

始めたバンドやミュージシャンを目の当たりにした若者達が、個性化しようと

(いうのはとうぜんといえばとうぜんであった。(よだんだが、そんなふうちょうをかんじとった)

いうのは当然と言えば当然であった。(余談だが、そんな風潮を感じ取った

(きっすもめいくといしょうをぬぎすて、83ねんのあるばむ「りっくいっと)

キッスもメイクと衣装を脱ぎ捨て、83年のアルバム「リック・イット・

(あっぷ」ですがおをみせた)「がーるずじゃすとわなはヴふぁん!」)

アップ」で素顔を見せた)「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン!」

((おんなのこだってたのしみたいのよ!)とうたうしんでぃーろーぱーは、そんな)

(女の子だって楽しみたいのよ!)と歌うシンディー・ローパーは、そんな

(こせいをいしきしはじめたわかものたちの、とくにどうせいのよっきゅうを、みごとにだいべんし、たいげんしたので)

個性を意識し始めた若者達の、特に同性の欲求を、見事に代弁し、体現したので

(あった。ぜんべい1いをきろくするこのきょくのさいごのこーらすは「じゃすとふぉろう」)

あった。全米1位を記録するこの曲の最後のコーラスは「ジャスト・フォロウ」

(である。やんぐりーだーとしてのやくめをいしきしたことばだ。そんなしんでぃーの)

である。ヤング・リーダーとしての役目を意識した言葉だ。そんなシンディーの

(たいどとかつやくぶりにしょくはつされたように、まどんなもやんぐりーだーとしての)

態度と活躍ぶりに触発されたように、マドンナもヤングリーダーとしての

(いめーじをかくりつしだす。84ねん、まどんなはあるばむ「らいくあ)

イメージを確立し出す。84年、マドンナはアルバム「ライク・ア・

(ヴぁーじん」をはっぴょう。しんでぃーにはない、「せくしーさ」)

ヴァージン」を発表。シンディーには無い、「セクシーさ」

(「すきゃんだらすさ」「すたいるのよさ」をぜんめんにおしだし、ぜんせかいで2300)

「スキャンダラスさ」「スタイルの良さ」を前面に押し出し、全世界で2300

(まんまいものうりあげをきろくしたこのあるばむで、かのじょはふぁっしょんりーだー)

万枚もの売り上げを記録したこのアルバムで、彼女はファッションリーダー

(としても、あいどるとしても、かしゅとしても、ふどうのちいをきずいた。)

としても、アイドルとしても、歌手としても、不動の地位を築いた。

(しんでぃーのあるいみすとりーとっぽい、ふるぎめいたふぁっしょんとはちがって、)

シンディーのある意味ストリートっぽい、古着めいたファッションとは違って、

(そのころのまどんなはかんぜんに「dcぶらんど」というかんじだった。こうきゅうで、)

その頃のマドンナは完全に「DCブランド」という感じだった。高級で、

(ごーじゃす、すたーしかとしたまりりんもんろーふうのいめーじで、ほかのじょせい)

ゴージャス、スター然としたマリリン・モンロー風のイメージで、他の女性

(しんがーとのさべつかをはかった。またまどんなはふぁっしょんりーだーとして、)

シンガーとの差別化を図った。またマドンナはファッションリーダーとして、

(ことあるごとにかみをばっさりきったり、らふなすたいるになったり、ぶろんどから)

事あるごとに髪をバッサリ切ったり、ラフなスタイルになったり、ブロンドから

(くろかみになったり、いめーじちぇんじをくりかえし、ほかのついずいもゆるさなかった。)

黒髪になったり、イメージチェンジを繰り返し、他の追随も許さなかった。

(せいてきな、こじんてきな「すきゃんだる」「ごしっぷ」も、じぶんのどうこうがいつもたいしゅうの)

性的な、個人的な「スキャンダル」「ゴシップ」も、自分の動向がいつも大衆の

(わだいにあがるように、おおいにぶきとしてつかった。ぽじてぃぶでじゆうでこうどうてきな)

話題に上がるように、大いに武器として使った。ポジティブで自由で行動的な

(まどんなをひっとうとするじょせいしんがーたちは、とうじさかんにいわれはじめた「ふぇみ)

マドンナを筆頭とする女性シンガー達は、当時盛んに言われ始めた「フェミ

(にずむ」とあいまって、ただのふぁっしょん、やんぐりーだーから「じょせいの)

ニズム」と相まって、ただのファッション、ヤングリーダーから「女性の

(りーだー」というめんでもちゅうもくされ、いちやくじょせいしんがーじだいがはじまるのだった。)

リーダー」という面でも注目され、一躍女性シンガー時代が始まるのだった。

(ばんぐるす、ごーごーず、ばなならま、さまんさふぉっくす、ぽーら)

バングルス、ゴーゴーズ、バナナ・ラマ、サマンサ・フォックス、ポーラ・

(あぶどぅる・・・。まどんな、しんでぃのあとにつづくじょせいたちがどんどんうれだし、)

アブドゥル・・・。マドンナ、シンディの後に続く女性達がどんどん売れ出し、

(こうしてぽっぷすしーんは「じょせいのはっけん」によっていちじきのふもうかんなどみじんも)

こうしてポップスシーンは「女性の発見」によって一時期の不毛感など微塵も

(のこさぬせいきょうぶりとなったのだった・・・。)

残さぬ盛況振りとなったのだった・・・。

(でゅらんでゅらんなどのにゅーうぇーヴのとうじょうと、がーるずうぇーヴの)

デュラン・デュランなどのニュー・ウェーヴの登場と、ガールズ・ウェーヴの

(にんきでかっきをおびてきたろっくしーんにしげきをうけたように、だいいっせんからしりぞいて)

人気で活気を帯びて来たロックシーンに刺激を受けたように、第一線から退いて

(いたおおものたちも、じょじょにふっかつしだす。でヴぃっどぼういは83ねんに「れっつ)

いた大物達も、徐々に復活し出す。デヴィッド・ボウイは83年に「レッツ・

(だんす」をはっぴょう、どうめいしんぐるはせかいじゅうでだいひっとし、すたーとしてのそこぢからを)

ダンス」を発表、同盟シングルは世界中で大ヒットし、スタートしての底力を

(みせつけた。いーぐるすのめんばーだったどんへんりー、ぐれんふらいなども)

見せ付けた。イーグルスのメンバーだったドン・ヘンリー、グレン・フライ等も

(80ねんだいにはいり、そろとしてふっかつした。とくにどんへんりーの84ねんにはっぴょうした)

80年代に入り、ソロとして復活した。特にドン・ヘンリーの84年に発表した

(あるばむ「びるでぃんぐざぱーふぇくとびーすと」は、まいけるが)

アルバム「ビルディング・ザ・パーフェクト・ビースト」は、マイケルが

(37しゅうれんぞくいちいのなかで、しんぐるかっとされた「ぼーいずおぶさまー」は)

37週連続一位の中で、シングルカットされた「ボーイズ・オブ・サマー」は

(ぜんべい1いをかくとく、あるばむとしてもぜんべい5いのだいけんとうだった。そのほかにも、)

全米1位を獲得、アルバムとしても全米5位の大健闘だった。そのほかにも、

(ふぃるこりんず、えりっくくらぷとん、ろっどすちゅあーと、じぇふ)

フィル・コリンズ、エリック・クラプトン、ロッド・スチュアート、ジェフ・

(べっく、ぐれいとふるでっど、ぽーるまっかーとにーなどのべてらんたちも、)

ベック、グレイトフル・デッド、ポール・マッカートニーなどのベテラン達も、

(せいりょくてきにかつどうをさいかいさせたのだった。ところでふっかつしたのはなにもぽっぷすけいの)

精力的に活動を再開させたのだった。ところで復活したのは何もポップス系の

(みゅーじしゃんだけではなかった。えあろすみすも84ねんにすてぃーぶんと)

ミュージシャンだけではなかった。エアロ・スミスも84年にスティーブンと

(じょーのふわがなんとかおさまり、すうねんぶりにおりじなるめんばーであるばむ)

ジョーの不和が何とか納まり、数年振りにオリジナルメンバーでアルバム

(「だーんうぃずみらーず」をはっぴょうする。しょうぎょうてきにはだいしっぱいにおわるのだが、)

「ダーン・ウィズ・ミラーズ」を発表する。商業的には大失敗に終わるのだが、

(「おりじなるのめんばーがふっかつした」というにゅーすだけでも、はーどろっく)

「オリジナルのメンバーが復活した」というニュースだけでも、ハードロック

(ふぁんにはおおきなよろこびとなったのだった。また、さきにもかいたようにきっすも)

ファンには大きな喜びとなったのだった。また、先にも書いたようにキッスも

(83ねんにふっかつしている。こうしてみると、80ねんだいはべてらんとしんじんがきょうぞん)

83年に復活している。こうしてみると、80年代はベテランと新人が共存

(していたじだいであったことがよくわかる。そんなべてらんたちのふっかつのはいけいには)

していた時代であったことがよく分かる。そんなベテラン達の復活の背景には

(ヴぁんへいれん、もとりーくるーなどlaをきょてんとするわかてhr/hm)

ヴァン・ヘイレン、モトリー・クルーなどLAを拠点とする若手HR/HM

(ばんどぜいのだいやくしんがあったのだ。)

バンド勢の大躍進があったのだ。

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