森鴎外 山椒大夫6

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森鴎外の山椒大夫です。
とても長文です。
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問題文

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(きょねんしばをかったきだちのほとりにきたので、ずしおうはあしをとどめた。)

去年柴を苅った木立ちのほとりに来たので、厨子王は足を駐《とど》めた。

(「ねえさん。ここらでかるのです」「まあ、もっとたかいところへのぼって)

「ねえさん。ここらで苅るのです」「まあ、もっと高い所へ登って

(みましょうね」あんじゅはさきにたってずんずんのぼっていく。ずしおうはいぶかり)

みましょうね」安寿は先に立ってずんずん登って行く。厨子王は訝《いぶか》り

(ながらついていく。しばらくしてぞうきばやしよりはよほどたかい、とやまの)

ながらついて行く。しばらくして雑木林よりはよほど高い、外山《とやま》の

(いただきともいうべきところにきた。あんじゅはそこにたって、みなみのほうをじっとみている。)

頂とも言うべき所に来た。安寿はそこに立って、南の方をじっと見ている。

(めは、いしうらをへてゆらのみなとにそそぐおくもがわのじょうりゅうをたどって、いちりばかりへだたった)

目は、石浦を経て由良の港に注ぐ大雲川の上流をたどって、一里ばかり隔った

(かわむかいに、こんもりとしげったきだちのなかから、とうのさきのみえるなかやまに)

川向いに、こんもりと茂った木立ちの中から、塔の尖《さき》の見える中山に

(とまった。そして「ずしおうや」とおとうとをよびかけた。「わたしがひさしいまえから)

止まった。そして「厨子王や」と弟を呼びかけた。「わたしが久しい前から

(かんがえごとをしていて、おまえともいつものようにはなしをしないのを、へんだとおもって)

考えごとをしていて、お前ともいつものように話をしないのを、変だと思って

(いたでしょうね。もうきょうはしばなんぞはからなくてもいいから、わたしの)

いたでしょうね。もうきょうは柴なんぞは苅らなくてもいいから、わたしの

(いうことをよくおきき。こはぎはいせからうられてきたので、こきょうから)

言うことをよくお聞き。小萩は伊勢から売られて来たので、故郷から

(このとちまでのみちを、わたしにはなしてきかせたがね、あのなかやまをこしていけば、)

この土地までの道を、わたしに話して聞かせたがね、あの中山を越して往けば、

(みやこがもうちかいのだよ。つくしへいくのはむずかしいし、ひきかえしてさどへわたるのも)

都がもう近いのだよ。筑紫へ往くのはむずかしいし、引き返して佐渡へ渡るのも

(たやすいことではないけれど、みやこへはきっといかれます。おかあさまと)

たやすいことではないけれど、都へはきっと往かれます。お母あさまと

(ごいっしょにいわしろをでてから、わたしどもはおそろしいひとにばかりであったが、)

ご一しょに岩代を出てから、わたしどもは恐ろしい人にばかり出逢ったが、

(ひとのうんがひらけるものなら、よいひとにであわぬにもかぎりません。おまえはこれから)

人の運が開けるものなら、よい人に出逢わぬにも限りません。お前はこれから

(おもいきって、このとちをにげのびて、どうぞみやこへのぼっておくれ。)

思いきって、この土地を逃げ延びて、どうぞ都へ登っておくれ。

(かみほとけのおみちびきで、よいひとにさえであったら、つくしへおくだりに)

神仏《かみほとけ》のお導きで、よい人にさえ出逢ったら、筑紫へお下りに

(なったおとうさまのおみのうえもしれよう。さどへおかあさまのおむかえに)

なったお父うさまのお身の上も知れよう。佐渡へお母あさまのお迎えに

(いくこともできよう。かごやかまはすてておいて、かれいけだけもって)

往くことも出来よう。籠や鎌は棄てておいて、樏子《かれいけ》だけ持って

など

(いくのだよ」ずしおうはだまってきいていたが、なみだがほおをつたってながれて)

往くのだよ」厨子王は黙って聞いていたが、涙が頰《ほお》を伝って流れて

(きた。「そして、ねえさん、あなたはどうしようというのです」「わたしの)

来た。「そして、姉えさん、あなたはどうしようというのです」「わたしの

(ことはかまわないで、おまえひとりですることを、わたしといっしょにするつもりで)

ことは構わないで、お前一人ですることを、わたしと一しょにするつもりで

(しておくれ。おとうさまにもおめにかかり、おかあさまをもしまからおつれもうした)

しておくれ。お父うさまにもお目にかかり、お母あさまをも島からお連れ申した

(うえで、わたしをたすけにきておくれ」「でもわたしがいなくなったら、あなたを)

上で、わたしをたすけに来ておくれ」「でもわたしがいなくなったら、あなたを

(ひどいめにあわせましょう」ずしおうがこころにはやきいんをせられた、)

ひどい目に逢わせましょう」厨子王が心には烙印《やきいん》をせられた、

(おそろしいゆめがうかぶ。「それはいじめるかもしれないがね、わたしはがまんして)

恐ろしい夢が浮ぶ。「それはいじめるかも知れないがね、わたしは我慢して

(みせます。かねでかったはしためをあのひとたちはころしはしません。)

見せます。金で買った婢《はしため》をあの人たちは殺しはしません。

(たぶんおまえがいなくなったら、わたしをににんまえはたらかせようとするでしょう。おまえの)

多分お前がいなくなったら、わたしを二人前働かせようとするでしょう。お前の

(おしえてくれたきだちのところで、わたしはしばをたくさんかります。ろくがまでは)

教えてくれた木立ちの所で、わたしは柴をたくさん苅ります。六荷《が》までは

(かれないでも、よんがでもごがでもかりましょう。さあ、あそこまでおりていって)

苅れないでも、四荷でも五荷でも苅りましょう。さあ、あそこまで降りて行って

(かごやかまをあそこにおいて、おまえをふもとへおくってあげよう」こういってあんじゅはさきに)

籠や鎌をあそこに置いて、お前を麓へ送って上げよう」こう言って安寿は先に

(おりていく。ずしおうはなんともおもいさだめかねて、ぼんやりしてついておりる。)

降りて行く。厨子王はなんとも思い定めかねて、ぼんやりしてついて降りる。

(あねはことしじゅうごになり、おとうとはじゅうさんになっているが、おんなははやくおとなびて、)

姉は今年十五になり、弟は十三になっているが、女は早くおとなびて、

(そのうえものにつかれたように、さとくさかしくなっているので)

その上物に憑《つ》かれたように、聡《さと》く賢《さか》しくなっているので

(ずしおうはあねのことばにそむくことができぬのである。)

厨子王は姉の詞《ことば》にそむくことが出来ぬのである。

(きだちのところまでおりて、ふたりはかごとかまとをおちばのうえにおいた。あねはまもりほんぞんを)

木立ちの所まで降りて、二人は籠と鎌とを落ち葉の上に置いた。姉は守本尊を

(とりだして、それをおとうとのてにわたした。「これはだいじなおまもりだが、こんどあうまで)

取り出して、それを弟の手に渡した。「これは大事なお守だが、こんど逢うまで

(おまえにあずけます。このじぞうさまをわたしだとおもって、まもりかたなといっしょにして、)

お前に預けます。この地蔵様をわたしだと思って、護り刀と一しょにして、

(だいじにもっていておくれ」「でもねえさんにおまもりがなくては」「いいえ。)

大事に持っていておくれ」「でも姉えさんにお守がなくては」「いいえ。

(わたしよりはあぶないめにあうおまえにおまもりをあずけます。ばんにおまえがかえらないと、)

わたしよりはあぶない目に逢うお前にお守を預けます。晩にお前が帰らないと、

(きっとうってがかかります。おまえがいくらいそいでも、あたりまえににげて)

きっと討手《うって》がかかります。お前がいくら急いでも、あたり前に逃げて

(いっては、おいつかれるにきまっています。さっきみたかわのかみてを)

行っては、追いつかれるにきまっています。さっき見た川の上手《かみて》を

(わえというところまでいって、しゅびよくひとにみつけられずに、むこうかしへ)

和江《わえ》という所まで往って、首尾よく人に見つけられずに、向う河岸へ

(こしてしまえば、なかやままでもうちかい。そこへいったら、あのとうのみえていた)

越してしまえば、中山までもう近い。そこへ往ったら、あの塔の見えていた

(おてらにはいってかくしておもらい。しばらくあそこにかくれていて、うってがかえって)

お寺にはいって隠しておもらい。しばらくあそこに隠れていて、討手が帰って

(きたあとで、てらをにげておいで」「でもおてらのおぼうさんがかくしておいて)

来たあとで、寺を逃げておいで」「でもお寺のお坊さんが隠しておいて

(くれるでしょうか」「さあ、それがうんだめしだよ。ひらけるうんなら)

くれるでしょうか」「さあ、それが運験《うんだめ》しだよ。開ける運なら

(ぼうさんがおまえをかくしてくれましょう」「そうですね。ねえさんのきょう)

坊さんがお前を隠してくれましょう」「そうですね。姉えさんのきょう

(おっしゃることは、まるでかみさまかほとけさまがおっしゃるようです。わたしはかんがえを)

おっしゃることは、まるで神様か仏様がおっしゃるようです。わたしは考えを

(きめました。なんでもねえさんのおっしゃるとおりにします」「おう、よくきいて)

きめました。なんでも姉えさんのおっしゃる通りにします」「おう、よく聴いて

(おくれだ。ぼうさんはよいひとで、きっとおまえをかくしてくれます」「そうです。)

おくれだ。坊さんはよい人で、きっとお前を隠してくれます」「そうです。

(わたしにもそうらしくおもわれてきました。にげてみやこへもいかれます。)

わたしにもそうらしく思われて来ました。逃げて都へも往かれます。

(おとうさまやおかあさまにもあわれます。ねえさんのおむかえにもこられます」)

お父うさまやお母あさまにも逢われます。姉えさんのお迎えにも来られます」

(ずしおうのめがあねとおなじようにかがやいてきた。「さあ、ふもとまでいっしょにいくから)

厨子王の目が姉と同じようにかがやいて来た。「さあ、麓まで一しょに行くから

(はやくおいで」ふたりはいそいでやまをおりた。あしのはこびもまえとはちがって、あねのねっした)

早くおいで」二人は急いで山を降りた。足の運びも前とは違って、姉の熱した

(こころもちが、あんじのようにおとうとにうつっていったかとおもわれる。いずみのわくところへきた。)

心持ちが、暗示のように弟に移って行ったかと思われる。泉の湧く所へ来た。

(あねはかれいけにそえてあるきのまりをだして、しみずをくんだ。)

姉は樏子《かれいけ》に添えてある木の椀《まり》を出して、清水を汲んだ。

(「これがおまえのかどでをいわうおさけだよ」こういってひとくちのんでおとうとにさした。)

「これがお前の門出を祝うお酒だよ」こう言って一口飲んで弟にさした。

(おとうとはまりをのみほした。「そんならねえさん、ごきげんよう。きっとひとに)

弟は椀《まり》を飲み干した。「そんなら姉えさん、ご機嫌よう。きっと人に

(みつからずに、なかやままでまいります」ずしおうはじっぽばかりのこっていたさかみちを、)

見つからずに、中山まで参ります」厨子王は十歩ばかり残っていた坂道を、

(ひとはしりにかけおりて、ぬまにそうてかいどうにでた。そしておくもがわのきしをかみてへ)

一走りに駆け降りて、沼に沿うて街道に出た。そして大雲川の岸を上手へ

(むかっていそぐのである。あんじゅはいずみのほとりにたって、なみきのまつにかくれては)

向かって急ぐのである。安寿は泉の畔《ほとり》に立って、並木の松に隠れては

(またあらわれるうしろかげをちいさくなるまでみおくった。そしてひはようやくひるに)

また現れる後ろ影を小さくなるまで見送った。そして日はようやく午《ひる》に

(ちかづくのに、やまにのぼろうともしない。さいわいにきょうはこのほうがくのやまできを)

近づくのに、山に登ろうともしない。幸いにきょうはこの方角の山で木を

(こるひとがないとみえて、さかみちにたってときをすごすあんじゅをみとがめるものも)

樵《こ》る人がないと見えて、坂道に立って時を過す安寿を見とがめるものも

(なかった。のちにはらからをさがしにでた、さんしょうだゆういっかのうってが、)

なかった。のちに同胞《はらから》を捜しに出た、山椒大夫一家の討手が、

(このさかのしたのぬまのはたで、ちいさいわらぐつをいっそくひろった。)

この坂の下の沼の端《はた》で、小さい藁履《わらぐつ》を一足拾った。

(それはあんじゅのくつであった。)

それは安寿の履《くつ》であった。

(やまなかのこくぶんじのさんもんに、たいまつのほかげがみだれて、おおぜいのひとが)

山中の国分寺の三門に、松明《たいまつ》の火影が乱れて、大勢の人が

(こみいってくる。さきにたったのは、しらつかの)

籠《こ》み入って来る。先に立ったのは、白柄《しらつか》の

(なぎなたをたはさんだ、さんしょうだゆうのむすこさぶろうである。)

薙刀《なぎなた》を手挾《たはさ》んだ、山椒大夫の息子三郎である。

(さぶろうはどうのまえにたっておおごえにいった。「これへまいったのは、いしうらのさんしょうだゆうが)

三郎は堂の前に立って大声に言った。「これへ参ったのは、石浦の山椒大夫が

(うからのものじゃ。だゆうがつかうやっこのひとりが、このやまににげこんだのを、)

族《うから》のものじゃ。大夫が使う奴の一人が、この山に逃げ込んだのを、

(たしかにみとめたものがある。かくればはてらうちよりほかにない。すぐにここへだして)

たしかに認めたものがある。隠れ場は寺内よりほかにない。すぐにここへ出して

(もらおう」ついてきたおおぜいが、「さあ、だしてもらおう、だしてもらおう」と)

もらおう」ついて来た大勢が、「さあ、出してもらおう、出してもらおう」と

(さけんだ。ほんどうのまえからもんのそとまで、ひろいいしだたみがつづいている。そのいしのうえには、)

叫んだ。本堂の前から門の外まで、広い石畳が続いている。その石の上には、

(いまてにてにたいまつをもった、さぶろうがてのものがおしあっている。またいしだたみの)

今手に手に松明を持った、三郎が手のものが押し合っている。また石畳の

(りょうがわには、けいだいにすんでいるかぎりのそうぞくが、ほとんどひとりものこらず)

両側には、境内に住んでいる限りの僧俗が、ほとんど一人も残らず

(むらがっている。これはうってのむれがもんがいでさわいだとき、ないじんからも、)

簇《むらが》っている。これは討手の群れが門外で騒いだとき、内陣からも、

(くりからも、なにごとがおこったかと、あやしんででてきたのである。)

庫裡《くり》からも、何事が起ったかと、怪しんで出て来たのである。

(はじめうってがもんがいからもんをあけいとさけんだとき、あけていれたら、らんぼうをせられは)

初め討手が門外から門をあけいと叫んだとき、あけて入れたら、乱暴をせられは

(すまいかとしんぱいして、あけまいとしたそうぞくがおおかった。)

すまいかと心配して、あけまいとした僧俗が多かった。

(それをじゅうじどんみょうりつしがあけさせた。しかしいまさぶろうがおおごえで)

それを住持曇猛律師《どんみょうりつし》があけさせた。しかし今三郎が大声で

(にげたやっこをだせというのに、ほんどうはとをとじたまま、しばらくのあいだひっそりと)

逃げた奴を出せと言うのに、本堂は戸を閉じたまま、しばらくの間ひっそりと

(している。さぶろうはあしぶみをして、おなじことをにさんどくりかえした。てのものの)

している。三郎は足踏みをして、同じことを二三度繰り返した。手のものの

(うちから「おしょうさん、どうしたのだ」とさけぶものがある。それにみじかいわらいごえが)

うちから「和尚さん、どうしたのだ」と叫ぶものがある。それに短い笑い声が

(まじる。ようようのことでほんどうのとがしずかにあいた。どんみょうりつしがじぶんで)

交じる。ようようのことで本堂の戸が静かにあいた。曇猛律師が自分で

(あけたのである。りつしはへんさんひとつみにまとって、なんのいぎをも)

あけたのである。律師は偏衫《へんさん》一つ身にまとって、なんの威儀をも

(つくろわず、じょうとうみょうのうすあかりをせにしてほんどうのはしのうえにたった。)

繕《つくろ》わず、常燈明の薄明りを背にして本堂の階《はし》の上に立った。

(たけのたかいがんじょうなからだと、まゆのまだくろいかどばったかおとが、)

丈の高い巖畳《がんじょう》な体と、眉のまだ黒い廉張《かどば》った顔とが、

(ゆらめくひにてらしだされた。りつしはまだごじゅっさいをこしたばかりである。)

揺めく火に照らし出された。律師はまだ五十歳を越したばかりである。

(りつしはしずかにくちをひらいた。さわがしいうってのものも、りつしのすがたをみただけで)

律師はしずかに口を開いた。騒がしい討手のものも、律師の姿を見ただけで

(だまったので、こえはすみずみまできこえた。「にげたげにんをさがしにこられたのじゃな。)

黙ったので、声は隅々まで聞えた。「逃げた下人を捜しに来られたのじゃな。

(とうざんではじゅうじのわしにいわずにひとはとめぬ。わしがしらぬから、そのものは)

当山では住持のわしに言わずに人は留めぬ。わしが知らぬから、そのものは

(とうざんにいぬ。それはそれとして、やいんにけんげきをとって、)

当山にいぬ。それはそれとして、夜陰に剣戟《けんげき》を執《と》って、

(たにんずうおしよせてまいられ、さんもんをひらけといわれた。さてはくににたいらんでもおこったか)

多人数押し寄せて参られ、三門を開けと言われた。さては国に大乱でも起ったか

(おおやけのはんぎゃくにんでもできたかとおもうて、さんもんを)

公《おおやけ》の叛逆人《はんぎゃくにん》でも出来たかと思うて、三門を

(あけさせた。それになんじゃ。おんみがいえのげにんのせんぎか。)

あけさせた。それになんじゃ。御身《おんみ》が家の下人の詮議《せんぎ》か。

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