買出し 永井荷風 2/2

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買出し 永井荷風 

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(いっこうへんじをしないので、みみでもとおいのか、それともはなしをするのがめんどうなのかも)

一向返事をしないので、耳でも遠いのか、それとも話をするのが面倒なのかも

(しれないと、おかみさんはひとつのこしたにぎりめしをせつせとくちのなかへいれてしまひ、)

知れないと、おかみさんは一ツ残した握飯をせつせと口の中へ入れてしまひ、

(たくあんづけをばりばり、ゆびのさきをなめてふきながら、みればばあさんはのめるやうに)

沢庵漬をばりばり、指の先を嘗めて拭きながら、見れば婆さんはのめるやうに

(りょうひざのあいだにかおをつっこみ、おおきないびきをかいているので、としよりと)

両膝の間に顔を突込み、大きな鼾《いびき》をかいてゐるので、年寄りと

(こどもほどのんきなものはない。ところきらはずたかいびきでひるねをするとでもおもつたらしく、)

子供ほど呑気なものはない。処嫌はず高鼾で昼寐をするとでも思つたらしく、

(「おばさん。おきなよ。でかけるよ。」といつたがひたすらおきるようすもないので、)

「おばさん。起きなよ。出かけるよ。」と言つたが一向起きる様子もないので、

(ふくろをせおひなおして、もういちど、「ぢやさきへいきますよ。」そのとき、ばあさんの)

袋を背負ひ直して、もう一度、「ぢや先へ行きますよ。」その時、婆さんの

(からだがまえのほうへのめつたので、おかみさんははじめてようすのおかしいのにこころづき、)

身体が前の方へのめつたので、おかみさんは初て様子のおかしいのに心づき、

(うしろからだきおこすとばあさんはもうめをつぶつてくちからあわをふいている。)

後《うしろ》から抱き起すと婆さんはもう目をつぶつて口から泡を吹いてゐる。

(おばさん。どうしたの。どうしたの。しっかりおし。」ばあさんのかたへてをかけて)

おばさん。どうしたの。どうしたの。しっかりおし。」婆さんの肩へ手をかけて

(ゆさぶりながらみみにくちをつけてよんでみたが、へんじはなく、てをはなせばたわいなく)

揺ぶりながら耳に口をつけて呼んで見たが、返事はなく、手を放せばたわいなく

(たおれてしまふらしい。あたりをみまはしても、めのとどくかぎりつづいている)

倒れてしまふらしい。あたりを見まはしても、目のとどくかぎり続いてゐる

(ねぎとだいこんとはうれんそうのはたには、こはるのひかげのさいげんなく)

葱と大根と菠薐草《はうれんそう》の畠には、小春の日かげの際限なく

(きらめきわたつているばかりでひとかげはなく、のうかのやねもみえない。ばりきがいちだい)

きらめき渡つてゐるばかりで人影はなく、農家の屋根も見えない。馬力が一台

(きかかつたがふたりのようすにはみむきもせずにいつてしまつた。おかみさんはふと)

来かかつたが二人の様子には見向きもせずに行つてしまつた。おかみさんはふと

(このあいだ、となりにすんでいるとしよりがせんとうからかへつてきてはなしをしているうちにころりと)

この間、隣に住んでゐる年寄が洗湯からかへつて来て話をしてゐる中にころりと

(しんでしまつたそのばのことをおもいだした。「やっぱりおだぶつだ。」)

死んでしまつた其場の事を思出した。「やっぱりお陀仏だ。」

(しばらくあたりをみまわしていたが、たちまちなにかおもひついたらしくせおひ)

暫くあたりを見廻してゐたが、忽《たちま》ち何か思ひついたらしく背負ひ

(なおしたずつくのふくろをまたもやちにおろし、ばあさんのつつみとともにつじどうのえんさきまで)

直したズツクの袋をまたもや地におろし、婆さんの包と共に辻堂の縁先まで

(ひつぱつていき、かいだしてきたさつまいもとばあさんのはくまいとをてばやくいれかへて)

引つぱつて行き、買出して来た薩摩芋と婆さんの白米とを手早く入れかへて

など

(しまつた。そのころさつまいもはいっかんめろくしちじゅうえん、はくまいはいっしょうひゃくななはちじゅうえんまで)

しまつた。その頃薩摩芋は一貫目六七十円、白米は一升百七八十円まで

(とうきしていたのである。おかみさんはふるてぬぐいのほおかぶりをむすびなおし、ひなたのいっぽんみちを)

騰貴してゐたのである。おかみさんは古手拭の頬冠を結び直し、日向の一本道を

(ふりかえりもせずに、すたすたあゆみさつた。みちはやがてひくくなつたかとおもふとまた)

振返りもせずに、すたすた歩み去つた。道はやがて低くなつたかと思ふとまた

(つまさきあがりになつたそのいきさきを、はるかむこうのおかのうえにしげつたまつばやしのあいだにぼつしている。)

爪先上りになつた其行先を、遥向うの丘の上に茂つた松林の間に没してゐる。

(そのへんからうしのなくこえがきこえる。おかみさんはいきをきらさぬばかり、)

その辺から牛の鳴く声がきこえる。おかみさんは息を切らさぬばかり、

(おいはれるやうにむやみとあるきつづけたので、そうしんからわきでるあせ。ふいても)

追はれるやうに無暗と歩きつづけたので、総身から湧き出る汗。拭いても

(ふいてもひたいからながれるあせがめにはいるので、どうしてもひとやすみしなければ)

拭いても額から流れる汗が目に入るので、どうしても一休みしなければ

(ならない。いまからあんまりむりをするとこっちもとちゅうでへたばりはしまいかと)

ならない。今からあんまり無理をすると此方も途中でへたばりはしまいかと

(おもひながら、それでもかまはず、ときにはわだちのあとにつまづきよろめき)

思ひながら、それでも構はず、時には轍《わだち》の跡につまづきよろめき

(ながらも、むこうにみえるまつばやしをこすまではしんでもやすむまいとおもつた。)

ながらも、向に見える松林を越すまでは死んでも休むまいと思つた。

(おかみさんはふりかえつてじぶんのきたみちがひとめにみとおされるはんいに、そのみを)

おかみさんは振返つて自分の来た道が一目に見通される範囲に、その身を

(おくことがいっぽいっぽおそろしくおもはれてならなくなつたのだ。たおれたらよつんばひに)

置くことが一歩々々恐しく思はれてならなくなつたのだ。倒れたら四ツ這ひに

(なつてははうとも、ひとまづむこうにみえるまつばやしのかなたまでいつてしまひたくて)

なつて這わうとも、一まづ向に見える松林の彼方まで行つてしまひたくて

(ならない。あすこまでいつてしまひさへすれば、まつばやしひとつこしてさへしまへば、)

ならない。彼処まで行つてしまひさへすれば、松林一ツ越してさへしまへば、

(なにのわけもなくさかいがちがつて、しにんのものをよこどりしてきたばしょからかんけいなく)

何の訳もなく境がちがつて、死人の物を横取りして来た場所から関係なく

(とおざかつたやうなきがするだらうとおもいつたのだ。いきあうひとやあとからくるひとに)

遠ざかつたやうな気がするだらうと思つたのだ。行き合ふ人や後から来る人に

(かおをみられても、あすこまでいつてしまへばどこからきたのだかわかるまいと)

顔を見られても、彼処まで行つてしまへば何処から来たのだか分るまいと

(いふやうなきがするのである。このこころもちはまちがつてはいなかつた。やつとの)

云ふやうな気がするのである。この心持は間違つてはゐなかつた。やつとの

(こと、かたでいきをしながらさかみちをのぼりきつて、まつばやしにはいりおざさとみきとのあいだから)

事、肩で息をしながら坂道を登りきつて、松林に入り小笹と幹との間から

(いきさきをみると、まったくべつのところへきたやうにあたりのけしきも、きたちのようすも、)

行先を見ると、全く別の処へ来たやうにあたりの景色も、木立の様子も、

(きのせいかすつかりかわつている。はたのさくもつもそのしゅるいがちがつている。)

気のせいかすつかり変つてゐる。畠の作物もその種類がちがつてゐる。

(かやぶきののうかのみならず、かわらぶきのにかいだてにがらすどをひきまわした)

茅葺《かやぶき》の農家のみならず、瓦葺の二階建に硝子戸を引き廻した

(もんがまえのいえもまじつている。まつばやしのなかにはひかげになつてふきかようかぜのすずしさ。)

門構の家も交つてゐる。松林の中には日陰になつて吹き通ふ風の涼しさ。

(おかみさんはほつといきをついてしゃがみかけると、せおつたこめのおもさで)

おかみさんはほつと息をついて蹲踞《しゃが》みかけると、背負つた米の重さで

(うしろにたおれ、しばらくはおきられなかつた。そのときじてんしゃにのったちゅうねんのおとこがおなじ)

後に倒れ、暫くは起きられなかつた。その時自転車に乗つた中年の男が同じ

(さかみちをのぼつてきて、おかみさんのみぢかにくるまをとめてあせをふきまきたばこにひを)

坂道を上つて来て、おかみさんの身近に車を駐めて汗を拭き巻煙草に火を

(つけた。おかみさんはそれとなくそのおとこのようすをみると、これからかいだしに)

つけた。おかみさんはそれとなく其男の様子を見ると、これから買出しに

(いくものらしく、くるまのあとにはたたんだずつくのふくろらしいものをしばりつけている。)

行くものらしく、車の後には畳んだズツクの袋らしいものを縛りつけてゐる。

(おかみさんはおそるおそる、「だんな、なにかおかいものですか。」とはなしかけた。)

おかみさんは恐る恐る、「旦那、何かお買物ですか。」と話しかけた。

(「だめだよ。こちとらのてにやおへないよ。」「うりおしみをしますからね。)

「駄目だよ。こちとらの手にやおへないよ。」「売惜しみをしますからね。

(よういなこつちやありません。」「まったくさね。それにおこめときたらとてもだめだ。)

容易なこツちやありません。」「全くさね。それにお米と来たらとても駄目だ。

(いいなりほうだいおかねのほかになにかやらなけれあだしさうもないよ。」)

いいなり放題お金の外に何かやらなけれア出しさうもないよ。」

(「わたしもさんざすきなことをいはれたんですよ。それでもやつとすこしばかり)

「わたしもさんざ好きなことを言はれたんですよ。それでもやつと少しばかり

(わけてもらひました。」「このかけあいはおとこよりもおんなのほうがいいやうだね。)

分けて貰ひました。」「この掛合は男よりも女の方がいいやうだね。

(いっしょうにひゃくえんだつていふぢやないか。うそみたやうだ。」「とうきょうへもちこめば、)

一升弐百円だつて言ふぢやないか。うそ見たやうだ。」「東京へ持込めば、

(だんな、ところによるともつとねあがりしますよ。ごそうだんしだいで、なんなら、おゆずりしても)

旦那、処によるともつと値上りしますよ。御相談次第で、何なら、お譲りしても

(いいんですよ。」「さうか。それあありがたい。なんしょうもつている。」)

いいんですよ。」「さうか。それア有りがたい。何升持つてゐる。」

(「いっとごしょうあります。もちおもりがするんでね、すこしかぜはひいてますし、)

「一斗5升あります。持ち重りがするんでね、すこし風邪は引いてますし、

(かつておくんなさるなら、ねがつたりかなつたりです。」「ぢや、おかみさん。)

買つておくんなさるなら、願つたり叶つたりです。」「ぢや、おかみさん。

(いっしょうひゃくはちじゅうえんでどうだ。」「そのそうばでかつてきたんですから、だんな、)

一升百八十円でどうだ。」「その相場で買つて来たんですから、旦那、

(ごえんづつもうけさしてくださいよ。」おとこはおかみさんのふくろをりょうてにもちあげておもみを)

五円づつ儲けさして下さいよ。」男はおかみさんの袋を両手に持上げて重みを

(はかり、あたりにちょっときをくばりながらじてんしゃのうしろにしばりつけたふくろと、)

計り、辺りに一寸《ちょっと》気を配りながら自転車の後に縛りつけた袋と、

(ぼうのついたはかりとをとりおろした。とりひきはすぐにすんだ。)

棒のついた秤《はかり》とを取りおろした。取引はすぐに済んだ。

(おかみさんはみがるになつたかいちゅうにおとこのしはらつたさつたばをしまひ、こめをのせて)

おかみさんは身軽になつた懐中に男の支払つた札束をしまひ、米を載せて

(はしりさるおとこのうしろすがたをみおくりながらまつばやしをでた。)

走り去る男の後姿を見送りながら松林を出た。

(はやしのなかにはことりがさえずりくさむらにはむしがないている。)

林の中には小鳥が囀り《さえずり》草むらには虫が鳴いてゐる。

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