公共選択理論と公共性
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問題文
(げんだいのせいじがくにおいてこうきょうせいがろんじられるしかたとして、)
現代の政治学において公共性が論じられる仕方として、
(こうきょうせんたくりろんとよばれるけんきゅうぶんやがある。)
公共選択理論とよばれる研究分野がある。
(そこでは、じゅうらいはさまざまないみでこうきょうてきとかんがえられてきたせんたくやけっていに)
そこでは、従来は様々な意味で公共的と考えられてきた選択や決定に
(ついて、けいざいがくてきな「ごうりてきなこじん」のもでるをもちいてぶんせき・せつめいし、)
ついて、経済学的な「合理的な個人」のモデルを用いて分析・説明し、
(さらにはきはんてきなもでるをしめすことがこころみられている。)
さらには規範的なモデルを示すことが試みられている。
(よくしられたれいのひとつは、とうひょうのごうりてきせんたくもでるとよばれるものである。)
よく知られた例の一つは、投票の合理的選択モデルとよばれるものである。
(せんきょでのとうひょうはこうきょうてきなかつどうとみなされるのがふつうだろう。)
選挙での投票は公共的な活動とみなされるのが普通だろう。
(しかしながら、とうひょうするかきけんするか、どのこうほしゃ(せいとう)にとうひょうするかを、)
しかしながら、投票するか棄権するか、どの候補者(政党)に投票するかを、
(ここのゆうけんしゃによるこじんてきでごうりてきなせんたくとみなすこともかのうである。)
個々の有権者による個人的で合理的な選択とみなすことも可能である。
(こじんが「じこのこうようをさいだいかするようにこうどうする」というごうりてきせんたくの)
個人が「自己の効用を最大化するように行動する」という合理的選択の
(ぜんていからすると、ゆうけんしゃはとうひょうによってえられるきたいこうようが、)
前提からすると、有権者は投票によって得られる期待効用が、
(とうひょうのこすとをうわまわるときにとうひょうするとかんがえられる。)
投票のコストを上回るときに投票すると考えられる。
(しじするこうほしゃのとうせんからえられるこうようがおおきく、しかもじぶんのいっぴょうが)
支持する候補者の当選から得られる効用が大きく、しかも自分の一票が
(きめてとなってそのこうほがとうせんする(じぶんがとうひょうしないとらくせんする))
決め手となってその候補が当選する(自分が投票しないと落選する)
(とかんがえれば、ごうりてきなひとはこすとをいとわずにとうひょうするだろう。)
と考えれば、合理的な人はコストをいとわずに投票するだろう。
(だがじっさいには、おおくのばあいはきけんすることがもっともごうりてきなせんたくとなる。)
だが実際には、多くの場合は棄権することが最も合理的な選択となる。
(なぜなら、じぶんのいっぴょうがせんきょけっかをさゆうすることなど、)
なぜなら、自分の一票が選挙結果を左右することなど、
(ほとんどかんがえられないからである。)
ほとんど考えられないからである。
(それではなぜひとびとはとうひょうにいくのか。)
それではなぜ人々は投票に行くのか。
(しばしばなされるせつめいは、とくていのこうほしゃをとうせんさせるよりも、)
しばしばなされる説明は、特定の候補者を当選させるよりも、
(だいひょうせいでもくらしーをいじすべきという)
代表制デモクラシーを維持すべきという
(こうきょうしんのようなものにうながされているからだ、というものである。)
公共心のようなものに促されているからだ、というものである。
(しかし、r.たっくがしてきするように、このせつめいにはちめいてきなけってんがある。)
しかし、R.タックが指摘するように、この説明には致命的な欠点がある。
(でもくらしーをほうかいさせないためにはきけんしないことがひつようだとしても、)
デモクラシーを崩壊させないためには棄権しないことが必要だとしても、
(それはここのゆうけんしゃがかならずとうひょうしなければならないことをいみしない。)
それは個々の有権者が必ず投票しなければならないことを意味しない。
(じぶんのいっぴょうがだれかをとうせんさせるきめてとなるかくりつがちいさいのと)
自分の一票が誰かを当選させる決め手となる確率が小さいのと
(まったくおなじように、じぶんのいっぴょうがでもくらしーをいじする)
まったく同じように、自分の一票がデモクラシーを維持する
(きめてとなるかくりつもかぎりなくちいさい。)
決め手となる確率も限りなく小さい。
(こうかんがえると、でもくらしーをたかくひょうかし、あいちゃくやちゅうせいしんをもっている)
こう考えると、デモクラシーを高く評価し、愛着や忠誠心を持っている
(こじんでさえも、きけんするほうがごうりてきであるかもしれない。)
個人でさえも、棄権する方が合理的であるかもしれない。
(とうひょうのごうりてきせんたくもでるにみられるこうしたぱらどくすは、)
投票の合理的選択モデルにみられるこうしたパラドクスは、
(ふとくていたすうのひとびと(しゅうだん)にかかわるこうきょうてきなことがらに、こじんはなぜ、)
不特定多数の人々(集団)に関わる公共的な事柄に、個人はなぜ、
(どのようにしてかんしんをもちこうけんするのかという、)
どのようにして関心を持ち貢献するのかという、
(こうきょうせいについてのみかいけつのもんだいにひかりをあてている。)
公共性についての未解決の問題に光を当てている。
(このもんだいのねがふかいのは、)
この問題の根が深いのは、
(それがいわゆる「りこてきなこじん」のけっかんにはとどまらないからである。)
それがいわゆる「利己的な個人」の欠陥にはとどまらないからである。
(「こうきょうしん」をぜんていとしてもなお、)
「公共心」を前提としてもなお、
(こじんとこうきょうせいのかんけいはかんぜんにはあきらかにならないかもしれないのである。)
個人と公共性の関係は完全には明らかにならないかもしれないのである。