日本史:弥生時代2

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(ちゅうごくたいりくでは220ねんにごかんにかわってぎごしょくがならびたつさんごくじだいをむかえた)

中国大陸では220年に後漢に代わって魏・呉・蜀が並び立つ三国時代を迎えた

(ししょさんごくしのぎしわじんでんによるとわこくでは2せいきのおわりごろに)

史書「三国志」の「魏志」倭人伝によると、倭国では2世紀の終わり頃に

(そうらんがおこりなかなかおさまらなかったそこでしょこくはきょうどうしてやまたいこくの)

争乱が起こり、なかなか治らなかった。そこで諸国は共同して邪馬台国の

(ひみこをじょおうにたてたところそうらんはおさまりやまたいこくちゅうしんのしょうこくれんごうが)

卑弥呼を女王に立てたところ、争乱は治り、邪馬台国中心の小国連合が

(せいりつしたひみこは239ねんぎにたいふなしめらをおくりしんぎわおうのしょうごうと)

成立した。卑弥呼は239年、魏に大夫難升米らを送り「親魏倭王」の称号と

(きんいんさらにたすうのどうきょうなどをおくられたひみこはみことしてかみのいしを)

金印、さらに多数の銅鏡などをおくられた。卑弥呼は巫女として神の意志を

(きくことにたけていたらしくそのじゅじゅつてきけんいをはいけいにせいじをおこなった)

聞くことに長けていたらしく、その呪術的権威を背景に政治を行った。

(さんかくぶちしんじゅうきょうがこのときにあたえられたどうきょうのゆうりょくこうほである)

三角縁神獣鏡がこの時に与えられた銅鏡の有力候補である。

(やまたいこくではたいじんとげこのみぶんさがありあるていどのとうちそしきやそぜい)

邪馬台国では大人と下戸の身分差があり、ある程度の統治組織や租税・

(けいばつのせいどもととのいいちもひらかれていたひみこはばんねんくなこくとあらそったが)

刑罰の制度も整い、市も開かれていた。卑弥呼は晩年、狗奴国と争ったが、

(247ねんかそのちょくごになくなったそののちおとこのおうがたったがこくないがおさまらず)

247年かその直後に亡くなった。その後男の王が立ったが国内が治まらず

(ひみこのそうじょであるいよがおうとなってようやくおさまったという)

卑弥呼の宗女である壱与が王となってようやく治まったという。

(しかし266ねんぎにかわったしんのみやこらくようにわのじょおうがつかいを)

しかし、266年、魏に代わった晋の都洛陽に倭の女王(壱与?)が使いを

(おくったのをさいごにいこうやく150ねんかんわこくかんれんのきじゅつはちゅうごくのれきししょにはない)

送ったのを最後に、以降約150年間倭国関連の記述は中国の歴史書にはない。

(このやまたいこくのしょざいちについてはこれをきんきちほうのやまとにもとめるせつと)

この邪馬台国の所在地については、これを近畿地方の大和に求める説と

(きゅうしゅうほくぶにもとめるせつとがあるきんきせつをとればすでに3せいきぜんはんには)

九州北部に求める説とがある。近畿説を取れば、既に3世紀前半には

(きんきちゅうおうぶからきゅうしゅうほくぶにおよぶこういきのせいじれんごうがせいりつしていたことになり)

近畿中央部から九州北部に及ぶ広域の政治連合が成立していたことになり、

(のちにせいりつするやまとせいけんにつながることになるいっぽうきゅうしゅうせつをとれば)

のちに成立するヤマト政権につながることになる。一方、九州説を取れば、

(やまたいこくれんごうはきゅうしゅうほくぶをちゅうしんとするひかくてきしょうはんいのものでやまとせいけんは)

邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権は

(それとはべつにとうほうでけいせいされきゅうしゅうのやまたいこくれんごうをとうごうしたかぎゃくに)

それとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国連合を統合したか、逆に

など

(やまたいこくのせいりょくがとうせんしてやまとせいけんをけいせいしたということになる)

邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

(ならけんのまきむくいせきやこれにぞくするはしはかこふんはやまたいこくとのかんけいで)

奈良県の纒向遺跡やこれに属する箸墓古墳は、邪馬台国との関係で

(ちゅうもくされている)

注目されている。

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