日本史:奈良時代2

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(8せいきのはじめはこうぞくやちゅうおうのゆうりょくきぞくでせいりょくがひかくてききんこうにたもたれるなか)

8世紀の初めは、皇族や中央の有力貴族で勢力が比較的均衡に保たれる中、

(ふじわらのふひとをちゅうしんにりつりょうせいどのかくりつがはかられたしかしやがてふじわらしが)

藤原不比等を中心に律令制度の確立が図られた。しかし、やがて藤原氏が

(せいかいにしんしゅつするとおおともしなどきゅうらいのゆうりょくしょしのせいりょくはこうたいしていった)

政界に進出すると、大伴氏など旧来の有力諸氏の勢力は後退していった。

(ふじわらのふひとはむすめのみやこをもんむてんのうにとつがせそのこのこうたいしにもむすめの)

藤原不比等は、娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、その子の皇太子にも娘の

(こうみょうしをとつがせててんのうけとみっせつなかんけいをきずいたふひとがしきょするとこうぞくの)

光明子を嫁がせて天皇家と密接な関係を築いた。不比等が死去すると皇族の

(ながやおうがうだいじんとなりせいけんをにぎったこのときのせいふは722ねんに)

長屋王が右大臣となり政権を握った。この時の政府は722年に

(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかくをたて723ねんにはさんぜいっしんほうをしこうした)

百万町歩開墾計画をたて、723年には三世一身法を施行した。

(このほうはあらたにかんがいしせつをもうけてみかいちをかいこんしたばあいはさんぜにわたり)

この法は新たに灌漑施設を設けて未開地を開墾した場合は三世に渡り、

(きゅうらいのかんがいしせつをりようしかいこんしたばあいはほんにんいちだいのあいだでんちのほゆうをみとめるもの)

旧来の灌漑施設を利用し開墾した場合は本人一代の間田地の保有を認めるもの

(でありこうちのかくだいをはかったふじわらしのがいせきとしてのちいが)

であり、耕地の拡大を図った。藤原氏の外戚としての地位が

(あやうくなるとふひとのこむちまろふささきうまかいまろの4きょうだいは)

危うくなると、不比等の子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟は

(729ねんさくぼうによってさだいじんであったながやおうをじさつさせるながやおうのへんを)

729年、策謀によって左大臣であった長屋王を自殺させる長屋王の変を

(おこしこうみょうしをこうごうにたてることにせいこうしたしかし737ねんにりゅうこうした)

おこし、光明子を皇后に立てることに成功した。しかし、737年に流行した

(てんねんとうによって4きょうだいはあいついでびょうししふじわらしのせいりょくはいちじこうたいした)

天然痘によって4兄弟は相次いで病死し、藤原氏の勢力は一時後退した。

(かわってこうぞくしゅっしんのたちばなのもろえがせいけんをにぎりとうからきこくしたきびのまきびげんぼうが)

代わって皇族出身の橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した吉備真備・玄昉が

(しょうむてんのうにしんにんされてかつやくした740ねんにはふじわらのひろつぐがきびのまきびげんぼうら)

聖武天皇に信任されて活躍した。740年には、藤原広嗣が吉備真備・玄昉ら

(のはいじょをもとめてきゅうしゅうでだいきぼはんらんをおこしたがちんあつされたたちばなせいけんは)

の排除を求めて九州で大規模反乱を起こしたが鎮圧された。橘政権は、

(743ねんにかいこんしたでんちのしゆうをえいねんにわたってほしょうするこんでんえいねんしざいほうを)

743年に開墾した田地の私有を永年にわたって保障する墾田永年私財法を

(はっしせいふしょうあくのでんちのぞうかによりとちしはいのきょうかをはかるせいさくであったが)

発し、政府掌握の田地の増加により土地支配の強化を図る政策であったが、

(きぞくじいんやちほうごうぞくたちのしゆうちかくだいをすすめることになったとくに)

貴族・寺院や地方豪族たちの私有地拡大を進めることになった。特に、

など

(とうだいじなどのだいじいんはふきんののうみんやふろうにんらをしようしてかんがいしせつをつくり)

東大寺などの大寺院は付近の農民や浮浪人らを使用して灌漑施設を作り、

(だいきぼなげんやのかいこんをおこなったこれをしょきしょうえんという)

大規模な原野の開墾を行った。これを初期荘園という。

(ひろつぐのらんごしょうむてんのうはくにきょうなにわのみやしがらきのみやなどにみやこをてんてんとした)

広嗣の乱後、聖武天皇は恭仁京・難波宮・紫香楽宮などに都を点々とした

(こうしたせいじじょうせいやききんえきびょうなどのしゃかいてきふあんのもとぶっきょうをあつくしんこうした)

こうした政治情勢や飢饉・疫病などの社会的不安のもと、仏教を厚く信仰した

(しょうむてんのうはぶっきょうのもつちんごこっかのしそうによってこっかのあんていをはかろうとし)

聖武天皇は仏教の持つ鎮護国家の思想によって国家の安定を図ろうとし、

(741ねんにこくぶんじこんりゅうのみことのりをだしてしょこくにこくぶんじこくぶんにじをつくらせることに)

741年に国分寺建立の詔を出して、諸国に国分寺・国分尼寺を作らせることに

(したついで743ねんにはおうみのしがらきのみやでだいぶつぞうりゅうのみことのりをだした)

した。ついで743年には近江の紫香楽宮で大仏造立の詔を出した。

(745ねんにへいじょうきょうにもどるとだいぶつぞうりゅうはならでつづけられ752ねんしょうむてんのうの)

745年に平城京に戻ると、大仏造立は奈良で続けられ、752年、聖武天皇の

(むすめであるこうけんてんのうのときにだいぶつのかいげんくようのぎしきがせいだいにおこなわれた)

娘である孝謙天皇の時に、大仏の開眼供養の儀式が盛大に行われた。

(こうけんてんのうのじだいにはふじわらのなかまろがこうみょうこうたいごうとむすんでせいかいで)

孝謙天皇の時代には、藤原仲麻呂が光明皇太后と結んで政界で

(せいりょくをのばしたたちばなのもろえのこのならまろはなかまろをたおそうとするがぎゃくに)

勢力を伸ばした。橘諸兄の子の奈良麻呂は仲麻呂を倒そうとするが、逆に

(ほろぼされたなかまろはじゅんにんてんのうをようりつしてそくいさせるとえみのおしかつのなをたまわり)

滅ぼされた。仲麻呂は淳仁天皇を擁立して即位させると恵美押勝の名を賜り、

(はかくのけいざいてきとっけんをえるとともにけんりょくをどくせんしだいしにまでのぼった)

破格の経済的特権を得るとともに権力を独占し、大師にまで登った。

(えみのおしかつはうしろだてであったこうみょうこうたいごうがしきょするとこりつをふかめ)

恵美押勝は後ろ盾であった光明皇太后が死去すると孤立を深め、

(こうけんだいじょうてんのうがじぶんのかんびょうにあたったそうどうきょうをちょうあいしてじゅんにんてんのう)

孝謙太上天皇が自分の看病に当たった僧道鏡を寵愛して淳仁天皇

(とたいりつするとききかんをつのらせて764ねんにきょへいしたがだいじょうてんのうがわに)

と対立すると、危機感をつのらせて764年に挙兵したが太上天皇側に

(せんせいされほろぼされたじゅんにんてんのうははいされてあわじにながされこうけんだいじょうてんのうが)

先制され滅ぼされた。淳仁天皇は廃されて淡路に流され、孝謙太上天皇が

(ちょうそしてしょうとくてんのうとなったどうきょうはしょうとくてんのうのしじをえてだいじょうだいじんぜんじ)

重祚して称徳天皇となった。道鏡は称徳天皇の支持を得て太政大臣禅師

(さらにほうおうとなってけんりょくをにぎりぶっきょうせいじをおこなった769ねんには)

さらに法王となって権力を握り、仏教政治を行った。769年には、

(しょうとくてんのうがうさじんぐうのしんたくによってどうきょうにこういをゆずろうとするじけんがおこった)

称徳天皇が宇佐神宮の信託によって道鏡に皇位を譲ろうとする事件が起こった

(がこのうごきはわけのきよまろらのこうどうでざせつしたしょうとくてんのうがなくなると)

が、この動きは和気清麻呂らの行動で挫折した。称徳天皇が亡くなると、

(うしろだてをうしなったどうきょうはしりぞけられたつぎのこういにはふじわらしきけの)

後ろ盾を失った道鏡は退けられた。次の皇位には、藤原式家の

(ふじわらのももかわながてらがはかってながくつづいたもんむてんのうけいのこうとうにかわって)

藤原百川・永手らがはかって長く続いた文武天皇系の皇統に代わって

(てんじてんのうのまごであるこうにんてんのうがむかえられたこうにんてんのうのじだいには)

天智天皇の孫である光仁天皇が迎えられた。光仁天皇の時代には、

(どうきょうじだいのぶっきょうせいじでこんらんしたりつりょうせいじとこっかざいせいのさいけんがはかられた)

道鏡時代の仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の再建が図られた。

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